名家に代々伝えられた日本刀

相模国三浦氏から北条氏に渡った名刀 正恒

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本刀、額銘「正恒」(まさつね)は、平安時代後期から戦国時代に相模国三浦(さがみのくにみうら:現在の神奈川県)を拠点とした「三浦氏宗家」と、その流れをくむ「相模三浦氏」が所持したとされる名品です。太刀(たち)を磨上げて打刀(うちがたな)に直したと伝えられています。三浦氏滅亡後は、宿敵であり、小田原城を本拠に関東に勢力を伸ばした「後北条氏」(ごほうじょうし:戦国大名の北条氏のこと)のもとへ渡りました。本刀を作刀した備前国(びぜんのくに:現在の岡山県)の刀工「正恒」は、平安時代後期に活躍した「古備前派」の名工です。今回は、三浦氏と後北条氏について解説すると共に、正恒の作風や特徴について述べていきます。

中世に活躍した相模国の武家・三浦氏について

三浦氏は、平安時代中期頃より相模国三浦(さがみのくにみうら:現在の神奈川県)を拠点として栄え、嫡流(ちゃくりゅう:本家の家筋)が「三浦大介」(みうらのおおすけ)を称した武家です。三浦半島を中心に、房総半島まで一帯の海上を支配する大武士団でした。

衣笠城跡

衣笠城跡

1063年(康平6年)、「村岡為通」(むらおかためみち)が「前九年の役」の戦功で「源頼義」(みなもとのよりよし)より相模国三浦郡を与えられたのが、三浦氏の始まりとされています。

村岡為通は三浦姓を名乗り、三浦半島中央部(現在の神奈川県横須賀市)に「衣笠城」(きぬがさじょう)を築きました。

しかし、三浦氏の祖については諸説が存在します。村岡為通の実在を疑う説などもあり、はっきりとしたことは分かっていません。

1180年(治承4年)、「源頼朝」(みなもとのよりとも)が伊豆に挙兵した際に、三浦氏は兵を率いて源頼朝を助けます。その働きは大きく、三浦氏の関与がなければ源頼朝の挙兵は成功しなかったのではないかと言われるほどです。三浦氏はその功績により、相模国守護に命ぜられました。

鎌倉幕府の重臣として重用された三浦氏は、「北条氏」(ほうじょうし)と姻戚関係を結んで強い政治力を持つに至ります。やがて、幕府の決定をも左右するほどの権力を持つようになった三浦氏を、北条氏は自己の権力を脅かす存在として警戒するようになりました。

そして5代執権(しっけん:将軍の補佐役)「北条時頼」(ほうじょうときより)は、外戚の「安達氏」(あだちし)と共に、三浦氏打倒の策謀を弄し、1247年(宝治元年)、「宝治合戦」によって三浦氏宗家は滅ぼされてしまいました。

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戦国時代の三浦氏

その後、三浦氏支族(しぞく:分家のこと)の中から「佐原氏」(さはらし)が台頭。「三浦大介」(みうらおおすけ)を名乗って三浦氏を再興させ、南北朝時代に活躍します。これが戦国大名の「相模三浦氏」です。

1331年(元弘元年)、「後醍醐天皇」(ごだいごてんのう)と「足利尊氏」(あしかがたかうじ)らが起こした鎌倉幕府討幕の政変「元弘の乱」(げんこうのらん)で足利方に付いた三浦氏は、再び相模国守護として勢力を伸ばします。

しかし、世の中は乱世へと大きく転換していく時期でした。駿河国(するがのくに:現在の静岡県)の守護「今川氏」(いまがわし)と姻戚関係にあった「北条早雲」(ほうじょうそううん)が、伊豆平定を足掛かりに関東へと進出。戦国大名として、小田原城(おだわらじょう)を本拠に相模国へと勢力拡大を狙います。

相模国制圧を狙う北条氏にとっては、相模三浦氏は目の上のたんこぶそのもので、倒さねばならない敵でした。今まさに飛ぶ鳥を落とす勢いの北条氏によって、相模三浦氏は1516年(永正13年)に滅亡しました。その際に、本刀・正恒も北条氏に渡ったと考えられています。

三浦氏は2度、北条氏に滅ぼされた?

鎌倉幕府の御家人(ごけにん:将軍に仕えた武士)だった三浦氏宗家(そうけ:本家)も、のちに再興した相模三浦氏も、どちらも北条氏に滅ぼされました。これは一見すると、同じ三浦氏が、同じ北条氏に敗れたように見えますが、果たしてそうなのでしょうか。

三浦氏の方は、三浦氏宗家と相模三浦氏との間に血縁関係があったことがはっきりしていますが、北条氏に関しては、鎌倉幕府の執権を務めた「執権北条氏」と戦国大名の「後北条氏」(ごほうじょうし:戦国大名の北条氏のこと)は、現代では別族であると考えられています。そこから、三浦氏は同じですが、同じ北条氏に滅ぼされたとするのは間違いなのです。

執権北条氏と後北条氏

鎌倉政権で権力を握った三浦氏宗家から見て、のちに復興した相模三浦氏は、三浦氏支流の佐原氏を祖としており、遠い親戚と言えます。しかし、執権北条氏は「桓武平氏」(かんむへいし)を祖とする一族と言われる一方、後北条氏の本姓(ほんせい:もとの姓)は「伊勢氏」とされ、祖先がまず違うのです。

執権北条氏は、鎌倉幕府の執権を務めたことからその名があります。11世紀末に、「北条時政」(ほうじょうときまさ)が、娘「政子」(まさこ)の夫である源頼朝の鎌倉幕府創設に尽力した功績から、鎌倉幕府の重臣になりました。将軍の外戚にあたるため、次第に権力を増し、執権として実際の政治を動かすようになります。

しかし、1333 年(元弘3年)、後醍醐天皇と足利尊氏の幕府討幕により破れ、執権北条氏は滅亡しました。

北条早雲と後北条氏

北条早雲

北条早雲

相模国小田原城を本拠とする北条氏が表舞台に登場するのは、それからおよそ150年後のことです。

執権北条氏と区別するために、後北条氏と呼ばれるようになりました。後北条氏は、北条早雲こと「伊勢宗瑞」(いせそうずい)を祖としています。

北条早雲は謎多き人物とされ、長い間、素浪人の身分から大名にまで成り上った、下剋上の典型とされてきました。

しかし近年では、伊勢氏は室町幕府の政所執事(まんどころのしつじ:政務に携わり、会計を担当)を世襲する名門だったとする説が有力。また、北条氏を名乗ったのは北条早雲の子の代からで、北条早雲自身は北条早雲を名乗ることはなかったとも言われています。

北条早雲の姉が、駿河の「今川氏親」(いまがわうじちか)の母であることから、北条早雲は家督争いに介入し、「興国寺城」(こうこくじじょう:現在の静岡県沼津市)を与えられました。隣国である伊豆の動きに注目していた北条早雲は、関東支配のために室町幕府より派遣された「堀越公方」(ほりごえくぼう/ほりこしくぼう)の跡目争いをきっかけに伊豆へ討ち入り、1491年(延徳3年)に伊豆を制圧。この時期に東国は戦国時代に突入したと言われ、後北条氏を「最初の戦国大名」とする見方もあります。

その後、北条早雲は三浦氏を破り相模国を征服。このときに本刀・正恒は後北条氏の手に渡ったと考えられます。後北条氏は関東を平定し、勢力を振るいますが、1590年(天正18年)、「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)の「小田原の役」(おだわらのえき)によって後北条氏宗家は滅亡し、支流が家督を継承。河内国(かわちのくに:現在の大阪府)狭山で1万石の大名として江戸時代を通じて存続し、明治後も子爵の身分を与えられます。

古備前派の代表的名工・正恒

平安時代後期に備前国(びぜんのくに:現在の岡山県東部)で活躍した「正恒」(まさつね)は、「友成」(ともなり)と並ぶ、古備前派を代表する名工です。現存する作品は在銘の物が多いのですが、刀剣・日本刀の作風もの書体も多彩。鎌倉時代初期に手掛けたと思われる作風もあり、銘は7種あるとも言われることから、正恒を名乗る刀工は複数名いたとするのが現在の定説とされています。

本刀の姿は、腰で高く反り身幅(みはば)が細く、小鋒/切先(こきっさき)となるなど、平安時代後期の特徴が顕著。その刃文は高尚で洗練されており、直刃(すぐは)を主体に小乱れや小丁子(こちょうじ)が混じる古風な作風です。

他にも刀工・正恒は、「佐々木四郎高綱」(ささきしろうたかつな)が「宇治川の戦い」で使った名刀「縄切正恒」(なわきりまさつね)も制作しました。華やかな作風が特徴の古備前の中で、正恒の作品は品格高く、古雅の趣があるとされ、5振が国宝に指定。

また同時代に、備中国(びっちゅうのくに:現在の岡山県)の「青江派」にも正恒と銘を切った刀工がいますが、こちらは本刀の制作者とは別人。古青江正恒も複数人いたとする説が有力です。

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特別重要刀剣「刀(額銘)正恒」

本刀・正恒は、正恒の特徴である小乱れに小丁子風の垢抜けた刃文を持ち、鍛肌(きたえはだ)や口(においぐち)の冴えわたる名品。地鉄(じがね)に小板目がよく錬れて詰み、地斑(じふ)が鮮明に映り立ちます。2014年(平成26年)特別重要刀剣に指定されました。

なお「額銘」(がくめい)とは、銘が残らないほど大きく(なかご)を切り落とす「大磨上げ」(おおすりあげ)にするとき、銘の部分を短冊状に切り取り、新しい茎にはめ込んだ物のことを指します。

刀(額銘)正恒
刀(額銘)正恒
(額銘)正恒
鑑定区分
特別重要刀剣
刃長
70.2
所蔵・伝来
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

相模国三浦氏から北条氏に渡った名刀 正恒

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