いにしえの刀剣の役割

石上神宮と古代の鉄剣 七支刀(しちしとう)

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「石上神宮」(いそのかみじんぐう)は奈良県にある非常に古い歴史を持つ神社です。かつての豪族・物部氏の総氏神であり、物部氏滅亡後は大和朝廷の武器保管庫だったと伝えられています。ここでは石上神宮の歴史、そして石神神宮に納められる「七支刀」(しちしとう)の由来を紐解いていきましょう。

日本最古の神社のひとつである石上神宮

石上神宮

石上神宮

奈良県天理市布留町の高台にある石上神宮は、伊勢神宮と同様に我が国最古の神社のひとつに数えられ、「古事記」、「日本書紀」にも記載されています。

3世紀後半の崇神(すじん)天皇7年、物部伊香色雄命(もののべのいかがしこおのみこと)によって創建されたと伝えられ、布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)、布留御魂大神(ふるのみたまのおおかみ)、布都斯魂大神(ふつしみたまのおおかみ)を祭神(その神社で祀ってある神)としている神社です。

日本書紀によると、第11代垂仁天皇39年に、垂仁天皇(すいにんてんのう)の皇子である五十瓊敷命(いしきのみこと)が1千口の刀剣を作って石上神宮に納め、そのまま石上神宮の神宝を管理した、とあります。

その後皇子は、神宝の管理を妹の大中姫命(おおなかつひめのみこと)に任せますが、大中姫命は物部氏(もののべし)に管理を委譲します。このため物部氏が石上神宮を管掌(自分の管轄の仕事として監督し取り扱う)することになりました。

物部氏は武力に長けた有力な豪族で、石上神宮は物部氏の総氏神として崇められ、健康長寿や病気平癒、除災招福、百事成就の守り神として多くの信仰を集めました。

石上神宮は大和朝廷の武器庫だった

強力な武力を持つ物部氏は、石上神宮を武器貯蔵庫として利用し、多くの武器が保管されました。さらに物部氏を崇拝している古代豪族達からも権力を表す神宝が多く納められるようになったとされており、「神社」より格上の「神宮」の称号を授けられています。

6世紀になると、物部氏は仏教問題で蘇我氏と対立。時代の勢いに乗った蘇我氏に敗れ、歴史の表舞台から姿を消します。しかし石上神宮はその地位を守り続け、平安時代になっても朝廷の武器貯蔵庫として残されました。その理由については「日本後紀」にこう書かれています。

「794年(延暦13年)、桓武天皇は都を京に遷都し、平安京を造営することで武器貯蔵庫である石上神宮が遠くなり、都に近い山城国葛野に武器を移すことにしました。しかし武器を移動させてから天皇が病気になり、巫女を呼んで祈祷してみると『歴代天皇が納めた神宝である武器を動かすこととは何事である』と神の怒りが判明。慌てて移した武器を再び石上神宮に収納した」。

平安末期には白河天皇が熱心に崇拝していたことから、拝殿を寄進したと伝えられています。

石上神宮には本来本殿がなく、拝殿の後方に「禁足地」と呼ばれる平地が広がっています。この地は神が鎮座する場所と言われており、誰も足を踏み入れてはならない聖域。この禁足地の土中深くに御神体が埋斎(まいさい)されており、御神体が出御(しゅつぎょ)する祭事などに使われたのが七支刀です。御神体の仮の姿とされた七支刀は、丁寧に取り扱われ、長い間、神庫(ほくら)に収蔵されてきました。現在では国宝に指定され、神宮内で厳重に保管、管理されています。

七支刀以外にも勾玉(まがたま)や銅鏡など、古代の遺品が多く出土しており、石神神宮は日本の黎明期を知る上での貴重な文化史料の宝庫でもあるのです。

日本書紀の記述と合致

七支刀は、元々「六叉鉾」(ろくさのほこ)として石上神宮に伝えられていましたが、刀身に刻まれた銘文により、現在は七支刀と呼ばれています。

七支刀

七支刀

鉄製で全長74.8cmのこの剣の特徴は、剣身に6つの枝刃が左右互い違いにあること。剣身をに固定するための目釘穴はありません。こうしたことから武器としてではなく儀式や祭事などに用いられる儀刀としての意味合いが強いようです。

剣身の表裏には61文字の銘文が刻まれており、「百済の王が倭国の王に贈った」という内容が定説とされています。また、この剣が作られたのが369年という史実も刻まれており、日本の古代史の絶対年度を表す貴重な史料でもあります。

日本書紀によれば、神功(じんぐう)皇后49年に、百済は新羅を征伐しようとし、朝廷は千熊長彦(ちくまながひこ)を百済に派遣しました。千熊長彦は百済王とともに辟支山(へきのむれ)に登り、そこで百済王は千熊長彦に貢物を贈ることを誓いました。千熊長彦は百済の都でもてなしを受けたあと、百済の高官である久氐(くて)らをお供にして帰国しました。

神功皇后51年、千熊長彦は再び百済に向かい、翌年の神功皇后52年に久氐らとともに帰国しますが、この時に久氐ら百済側から七枝刀(ななつさやのたち)や七子鏡(ななつこのかがみ)などを朝廷に進呈されたと記されています。この七枝刀が七支刀であり、その後神宝を収蔵する伝統に則って石上神宮に保管されるようになったようです。

銘文の解明

七支刀に刻まれた銘文については、現在でも研究や判読が進められていますが、錆びたり腐食したりしている部分があるため、銘文の全容はまだ解明されていません。

銘文が本格的に解読され始めたのは1874年(明治7年)。この年、管政友(すがまさとも)が石上神宮の大宮司に就任し、剣身に金象嵌(きんぞうがん)の文字を発見したことが解読のきっかけとなりました。

その後も研究や判読が続けられており、研究者や歴史家によって様々な解釈があるようです。

百済との関係強化

百済

百済

剣身に刻まれた銘文の中に「百済」という文字が見られることから、百済から贈られたと伝えられる七支刀ですが、なぜ百済王はこのような剣を大和朝廷に進呈したのでしょうか。

この頃の百済は高句麗と対立しており、高句麗の侵攻を牽制するために中国北魏との外交を試みていました。

そうした状況を考えると、当時倭国と呼ばれた日本との外交的、軍事的な結び付きは自然であり、その関係強化を図るために七支刀を贈ったという見方が有力です。実際に大和政権が4世紀後半に、朝鮮半島南部へ勢力拡大のために軍事活動を展開したという記録もあります。

そして最も注目する点は、七支刀が鉄製であることです。4世紀頃の日本では鉄製品をまだ使用しておらず、当然鋳造や加工などの技術も持っていませんでした。鉄を作る技術は大陸から朝鮮半島にまで伝えられたとされており、この当時に百済がすでに鉄製の武器や道具を使っていたとするのは歴史的にも証明されています。

百済がまだ鉄を知らない倭国に対して鉄製の品を贈ると言うことは、単なる友好の証だけではなく、鉄の製造技術の伝来と材料の供給にまで及ぶと考える説もあります。

まだまだ多くの謎に包まれている七支刀ですが、古代の日本を知る大きな手がかりとなるため、新しい科学技術や新史料の発見などで謎の解明が待たれています。

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石上神宮と古代の鉄剣 七支刀(しちしとう)

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古代の鉄剣 七支刀と中国

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石上神宮(いそのかみじんぐう)に伝承される「七支刀」(しちしとう)は、左右に3つの枝刃が互い違いについた鉄製の剣で、その形状から武器ではなく祭事や儀式に用いられた儀刀あるいは呪刀と考えられています。百済(現在の大韓民国)から日本にもたらされた七支刀はどのような経緯で作られ、どのような特徴を持つ刀なのでしょうか。そこから当時の中国について推察することができるのです。

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