武士・刀剣にまつわるしきたり

江戸城での作法や大名のしきたり

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江戸時代、特に江戸城内では様々なしきたりがあり、出入りする門や駕籠で乗り入れできる場所、引き連れる従者の人数など、家柄や身分によって細かく決められていました。それらのしきたりや江戸城内での様々な作法、参勤交代についてご紹介していきます。

気長な性格と言われる徳川家康と江戸城

徳川家康

徳川家康

織田信長豊臣秀吉徳川家康の3名について、「鳴かないホトトギスをどうするか」という歌に性格が表れているのは有名でしょう。3名の中でも徳川家康は「鳴くまで待とう」と気長で器の大きさを感じさせる歌を詠んだと言われています。

織田信長、豊臣秀吉の亡きあと、2人に従ってきた徳川家康はようやくチャンスが来たとばかりに天下を手中におさめました。ホトトギスの歌にもあるように、気長に待っていたのでしょうか。

徳川家康が関東を守るため江戸城に入った当時、江戸城はすでに築城からかなり経っており荒れ果てていました。そのため増築や一部移設もしながら、長い年月をかけて整えていったようです。当初は豊臣政権下での徳川家本拠地の改築でしたが、豊臣秀吉が亡くなり関ヶ原の戦い、そして徳川幕府の開幕と状況が変わっていったことで、城の改築も意味合いは異なっていったことが想像されます。江戸城の改築でも、徳川家康の気長さが窺えるようです。

三英傑三英傑
戦国時代の三英傑「織田信長」、「豊臣秀吉」、「徳川家康」についてご紹介します。

江戸城の出入りについてのしきたり

江戸城

江戸城

江戸城へ大名や旗本が登城するときは、大手門、桜田門から入ることが決められていました。

そして内掘の手前に立つ下馬札(げばふだ)あたりで大名以下はほとんど駕籠(かご)を降りて共侍(ともざむらい:共として従う侍)などと共に参入します。

ただし、城持ち大名はその先の橋まで、百万石の前田家のみ、橋のさらに先まで乗物を使うことが許され、御三家にいたっては中雀門まで。さらに勅使・親王・五摂家に限り大玄関へ横付けできたとか。江戸城への出入りからすでに家柄による差は明確だったようです。

江戸城内へ上がるときも身分によって玄関から入ることができる者とそうでない者は当然分かれていました。それだけでなく、大名の場合は大玄関で大小ある日本刀のうち、大刀(だいとう)の方は共侍に渡す必要があり、携帯を許されたのは小さな脇指のみ。重臣や役方(文官)の旗本、番方(武官)などは、それぞれ控室に大刀を置いたようです。

あってはならなかった殿中での刃傷沙汰

殿中で大刀を帯びるのは無礼であり、また禁じられていました。それでも殿中で刃傷沙汰がなかったわけではなく、持っていた脇指で斬り付けるという事件は何度か起きています。

1684年(貞亨元年)、若年寄稲葉正康が大老堀田正敏を斬った事件、そして有名なのは1701年(元禄14年)、浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が松の廊下で吉良上野介吉央(きらこうずけのすけよしひさ)を斬り付けた事件でしょう。

のちに旧浅野家の家臣達が吉良邸へ討入りする赤穂事件へとつながっています。

脇指だけならひとりを斬り付けるのが精いっぱいといったところですが、他にも刃傷沙汰は起きています。文官の場合、大刀は別の者に持たせたり控室に置いたりする決まりがありましたが、場内警備を担う武官については殿中の各所にあった詰所に共同の刀架があり、武官がその刀をふるった事件がありました。

特に1823年(文政6年)、西丸御書院番松平忠寛(まつだいらただひろ)が大刀を使って同僚数名を斬った事件は「千代田の刃傷」(ちよだのにんじょう)と呼ばれています。

このとき、松平忠寛は新参者で、古参からの度重なる嫌がらせや侮辱などに耐え切れなくなったのが原因だったとか。殿中で同僚3名を斬り殺し、2名に傷を負わせて本人も自刃。直属の上司が身内の恥と思ったのか、血で染まった畳は深夜のうちに替えられ、隠ぺい工作も行なわれたようですが、松平忠寛が大奥に務める叔母へ遺言とも捉えられるようなメモを渡していたことから事件が大奥を通じて公になります。

松平忠寛が配属された西丸書院番の酒井山城守組(さかいやましろのかみぐみ)はもともと新参者へのいじめで知られていたらしく、事件が公になったあと老中が厳しく取り調べを進め、斬り付けられた同僚だけでなく関係者10名以上に処分が言い渡されました。

江戸城内での様々な作法

徳川幕府は将軍家の権威を表すために礼式作法を重んじていました。将軍や大老、老中に謁見する際、大名達は最初から平伏していなければならず、名前を呼ばれた場合は額が畳につくほどさらに深く平伏して直接見ることはできませんでした。

謁見ではなく、用事があって将軍にお目通りする際は、将軍が簾をやや垂れて座っているところからはるか次の間で平伏せねばならず、「それへ」と声をかけられてから進み出て近付くことが許されました。それでも膝ついたまま多少進むかどうか程度で、恐れ多くて身動きができないという意味の形式的な動作を強いられたのです。

細長い裾を引く束帯

細長い裾を引く束帯

殿中の作法について、1605年(慶長10年)に公布された「番士心得」がはじめとされています。だらしのない風体、騒々しい雑談、殿中では囲碁・将棋などいっさいの遊戯を禁じました。

また、1622年(元和8年)には、直前におそらく落書き事件があったのでしょう。殿中において落書きした場合に子供は流罪、大人は切腹と追加されました。

この他にも弁当を詰め所で食べてはいけない、将軍家の神事・祭事で将軍以下が身に付けなければならないのは、冠を付けて細長い裾を引く束帯(そくたい)とする等々、事細かく決まりごとがあったため、若い大名はしきたりをよく知る親戚の大名などにアドバイスを仰いでいたようです。

大名の参勤交代と江戸屋敷

大名の参勤交代

1615年(元和元年)の「武家諸法度」によって参勤交代が義務付けられ、さらに1635年(寛永12年)、在府・在国を各1年として毎年4月に交代するお達しが出されました。

各国の大名は人質として最初は嫡男を差し出しましたが、やがて家族ぐるみで江戸屋敷に暮らすことに。大名の奥方はお国へ帰らず本来の居城であるお国の城については不案内というのもよくあることでした。

参勤交代の際、共侍の人数は領地の石高で定められていました。持参する物、行列の並び順、衣装なども形式があったようです。

浅田次郎著作「一路」という時代小説では、主人公が若くして家督を相続することになり、江戸への参勤を差配するにあたっての、大名行列の悲喜こもごもが書かれています。小説の中では主人公含め江戸へ参勤する道中に様々な苦難がありますが、江戸が近づくと身だしなみを整え、苦労などみじんも見せずに華々しく江戸入りしています。

参勤交代と言い、江戸城でのしきたりと言い、当時の武士達はかなり多様な「こうあるべき」という決まりに縛られていたようです。礼儀作法を重んじなければならなかった江戸時代の武士は、戦国武将と日本刀の扱いも違ったのかもしれません。

江戸城での作法や大名のしきたり

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