歴史上の人物と日本刀

徳川家康誕生の地 岡崎藩と名刀 則房

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「徳川家康」(とくがわいえやす)は、1542年(天文11年)に三河国(みかわのくに:現在の愛知県東部)「岡崎城」で生を受けました。岡崎城は、徳川家康の祖父である「松平清康」(まつだいらきよやす)が戦国時代中期に「西郷氏」(さいごうし)から奪取した場所で、岡崎平野が広がる豊穣な地でありながら、交通の要衝でもあったため、争奪が繰り広げられる場となっていたのです。江戸時代、岡崎藩は徳川家康誕生の地として厚遇され、徳川家にとって特別な場所となっていました。今回は岡崎藩の歴史を振り返ると共に、岡崎藩最後の藩主家となった「本多平八郎家」(ほんだへいはちろうけ)に伝来した名刀「則房」(のりふさ)をご紹介します。

本多彦次郎家から水野家による統治時代

系譜の違う本多家の数々から水野家、そしてまた本多家へ。次々と移り変わる統治がどのように行なわれていたのかをご紹介します。

岡崎藩立藩から彦次郎家初代藩主・本多康重

1590年(天正18年)に「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)が北条氏(ほうじょうし)を滅ぼして天下統一を果たすと、「徳川家康」(とくがわいえやす)は豊臣秀吉から関八州(かんはっしゅう:関東8ヵ国)を与えられ、岡崎城主には、近江国(おうみのくに:現在の滋賀県)出身の戦国大名「田中吉政」(たなかよしまさ)が就くこととなりました。

豊臣秀吉の死後、田中吉政は1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」で武功を挙げ、筑後国柳川(ちくごのくにやながわ:現在の福岡県柳川市)に大幅な加増転封されることに。田中吉政に次いで岡崎に入った「本多康重」(ほんだやすしげ)は、上野国白井藩(こうずけのくにしろいはん:現在の群馬県渋川市)2万石から5万石に加増されて転封。

本多家は、徳川家に仕える最古参の家臣「安祥譜代」(あんじょうふだい)の一家であり、松平家が「安祥城」(あんじょうじょう)を居城としていた時代から家臣として仕えていました。三河国(みかわのくに:現在の愛知県)において徳川家が最も重要な拠点としていた岡崎に、徳川家康は信頼のおける譜代の臣を置きたかったのでしょう。こうして本多家を藩主として「岡崎藩」が立藩されたのです。

初代藩主・本多康重は、徳川四天王のひとりである徳川家康の重臣「本多忠勝」(ほんだただかつ)とは別系統の本多一族で、本多康重の通称である「彦次郎」(ひこじろう)を代々通称としたため「彦次郎家」(ひこじろうけ)と呼ばれるようになりました。

岡崎城

岡崎城

本多康重は、前領主の田中吉政の事業を引き継ぎ、岡崎藩の基礎を固めていきます。

特に、年貢増収には力を入れており、部分的な検地を繰り返し実施して生産力の把握に努めました。

また、岡崎城と共に城下町の整備にも着手し、流通を統制することで城下の商人達を保護。

そののち、4代藩主「本多利長」(ほんだとしなが)の代になると、本多家は遠江国横須賀藩(とおとうみのくによこすかはん:現在の静岡県掛川市)に移封となり、岡崎藩を出ることとなりました。

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水野家の「鬼監物」から「水野騒動」まで

水野忠善

水野忠善

1645年(正保2年)、本多家に代わって三河国吉田藩(みかわのくによしだはん:現在の愛知県豊橋市)から「水野忠善」(みずのただよし)が入封します。

本多家と同じく譜代大名の水野家は、その後、118年にわたって岡崎藩を統治していくことに。

初代藩主・水野忠善は、新田開発の奨励などにより年貢増収の実現を図り、水野家による藩政の礎を築きました。

しかし、水野忠善が持つ譜代の臣としてのプライドの高さは尋常ではなく、尾張藩(現在の愛知県名古屋市)を仮想敵国とみなして「徳川御三家」筆頭の尾張徳川家の者を捕らえて首をはね、河原にさらすなどの奇行に走るようになっていきます。また、水野忠善の厳しい増税政策に苦しめられた農民も多く、領民からの評判は良くありません。代々、水野家が監物(けんもつ)を名乗っていたことに、水野忠善の惨忍な行ないも相まって、領民から「鬼監物」(おにけんもつ)と呼ばれるように。この鬼監物という異名は、水野忠善以降の水野家藩主達にも引き継がれたのです。

こうした水野家の統治下においては、藩主に反発する声が多く、農民による強訴や一揆が頻発。さらに台風や「矢作川」(やはぎがわ)の洪水など水害による被害が重なり、岡崎藩の財政は厳しい状態に陥っていきました。この状況を打破するべく、6代藩主「水野忠辰」(みずのただとき)は財政再建に向けて大改革を打ち出します。

水野忠辰は、困窮した藩士の救済策を掲げ、農民には年貢の減免を許可。加えて若くて有能な人材を次々と登用して改革を進めたことで、次第に財政は好転し始めます。この新しい人材登用の方針について、古参の家老達からは不満の声がもれましたが、水野忠辰は隠居を命じて排除する強硬姿勢を貫きました。

こうした水野忠辰の姿勢に対し、家老・年寄達は反発を強め、全員出仕を拒否するストライキを起こします。水野忠辰は慌てて老臣達を説得に当たったものの、彼らは新人家臣達を排除しないことには出仕しないと主張しました。やむを得ず水野忠辰は改革派の家臣を解任。全員志半ばで改革は頓挫してしまったのです。

水野忠辰のショックはよほど大きかったのでしょう。その後、遊蕩(ゆうとう:しまりなく遊びにふけること)するようになり、遊女を身請けするなど散財を繰り返します。藩主の堕落ぶりを目の当たりにした老臣達は、後継に家督を譲ることに同意させ、水野忠辰を座敷牢に幽閉。水野忠辰は監禁されたまま29歳の若さで亡くなりました。この一連の騒動は「水野騒動」と呼ばれ、改革に燃える藩主の悲運な事件として岡崎藩に代々語り継がれていったのです。

本多平八郎家による統治時代

水野騒動で後継となった水野家7代藩主・水野忠任(みずのただとう)は、10年で肥前国唐津藩(ひぜんのくにからつはん:現在の佐賀県唐津市)へ転封となり、岡崎藩には下総国古河藩(しもうさのくにこがはん:現在の茨城県古河市)から「松平康福」(まつだいらやすよし)が入封。しかし、松平康福もわずか8年で石見国浜田藩(いわみのくにはまだはん:現在の島根県浜田市)へ転封となり、1769年(明治6年)に後任の「本多忠粛」(ほんだただとし)が入封。

本多忠粛は、本多忠勝系統の「平八郎家」(へいはちろうけ)の11代当主で、前述した本多康重の彦次郎家ではなく本多宗家の大名です。岡崎藩最後の藩主家で、本多忠粛以降およそ100年に亘って明治維新まで藩主を務めました。しかし、水野家に続いて平八郎家の治世も平穏なものではありません。これまでの圧政で領内の農村は疲弊していたことに加え、水害も多かったこともあり、財政難は継続していたのです。

初代藩主・本多忠粛は12歳で家督相続をした幼君で、19歳で早世。続く2代藩主「本多忠典」(ほんだただつね)は、平八郎家の統治が定まらない上に、財政破綻寸前の状況で藩主となったため、岡崎の放棄と旧領復帰を幕府に嘆願する状況にまで追い込まれました。このような平八郎家の危機を救ったのが、3代藩主「本多忠顕」(ほんだただあき)の家老「中根忠容」(なかねただかた)と「服部平兵衛」(はっとりへいべえ)、そして江戸商人の「三谷喜三郎」。彼らは思い切った緊縮財政策を実施して成果を上げます。

しかし、本多忠顕が成長するにつれて彼らとの間に確執が生じます。家老の中根忠容と服部平兵衛の失脚によって改革は終焉。その後、本多忠顕による親政が行なわれたものの、藩政を顧みずに散財するような暗君だったたこともあり、藩の財政は再び困窮を極めました。

本多忠民

本多忠民

1835年(天保6年)に5代目藩主に就いた「本多忠民」(ほんだただもと)は、暗君続きに見かねた本多家が婿養子として迎え入れた期待の藩主。

若くして藩主を務めながら「京都所司代」(きょうとしょしだい)などの幕閣を歴任する優秀な人物でした。

本多忠民はそのあと、幕府で老中を務めながら、岡崎藩最後の藩主「本多忠直」(ほんだただなお)と協力して岡崎藩を運営します。こうして波乱に満ちた岡崎藩も幕末の動乱期を何とか通り抜け、明治維新まで藩を存続させました。

本多忠粛に伝来した片山一文字の名刀 則房

徳川家康

徳川家康

岡崎藩史を振り返ってみると、平穏な時代があったのか否かについての判断は難しいところですが、もともと徳川家康誕生の地として「5万石でも岡崎様は、お城の下まで船が着く」と江戸小唄で歌われるほど別格の扱いを受けていた藩。

それゆえ、暗君が散財に耽っていても、何とか持ちこたえる底力があったのではないかと考えられます。

岡崎藩最後の藩主家となった平八郎家の初代藩主・本多忠粛は、上述の通り12歳から19歳というわずか7年間の藩主生活でしたが、本多忠粛の下には1振の名刀が伝来していました。伝来の時期については定かではありませんが、年齢的にもこの期間が妥当だと考えられます。

本多忠粛に伝来したこの名刀は、鎌倉時代中期に活動していた「則房」(のりふさ)の作品で、 備前国長船町福岡(びぜんのくにおさふねちょうふくおか:現在の岡山県瀬戸内市)で栄えた「福岡一文字派」(ふくおかいちもんじは)を代表する刀工です。則房は福岡から近くの片山に移って作刀していたことから、「片山一文字」(かたやまいちもんじ)と呼ばれるようになりました。本刀は、古備前の作風を存分に感じられる1振です。

小太刀  銘  則房
小太刀 銘 則房
則房
鑑定区分
重要美術品
刃長
57.6
所蔵・伝来
本多家11代宗家・本多忠粛→
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

徳川家康誕生の地 岡崎藩と名刀 則房

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立花宗茂の刀 無銘 伝二字国俊

立花宗茂の刀 無銘 伝二字国俊
「刀 無銘 伝二字国俊」(重要美術品)は、柳川藩(やながわはん:現在の福岡県柳川地方)藩主「立花宗茂」(たちばなむねしげ)が所持したとされる名刀です。立花宗茂は、歴史好きの間では非常に人気の高い武将。「関ヶ原の戦い」では西軍に付き、一度は改易されたにもかかわらず、そののち大名として復帰したことはよく知られています。 作刀したのは、山城国(やましろのくに:現在の京都府南部)の刀工「国俊」。山城伝を代表する来派(らいは)に属し、来を冠する「来国俊」と「国俊」のみの二字銘が現存します。ここでは、立花宗茂について述べると共に、国俊や来派、山城伝についても解説していきます。

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中山博道の太刀 銘 森良近 昭和三年仲秋

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十市遠忠伝来の短刀 備前長船祐定

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「十市遠忠」(とおちとおただ)は、大和国(やまとのくに:現在の奈良県)を治めた戦国武将で、「十市城」(といちじょう)、龍王山城(りゅうおうざんじょう)の城主。武術はもちろん和歌にも通じ、「十市遠忠詠草」(とおちとおただえいそう)などの歌集も多数残しました。 そんな十市遠忠が所持していたのは、「短刀 銘 備州長船祐定 明応七年八月日」。この短刀を所持した十市遠忠が、どのような人生を歩んでいったのかをご紹介します。

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明楽茂村の薙刀 武州住藤原兼永

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朝香孚彦と靖国刀の靖光

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1876年(明治9年)、明治新政府が発した「廃刀令」によって、それまで「武士の魂」とされていた日本刀の実用品としての需要は衰退。刀匠や金工師、鞘師など日本刀制作にかかわってきた大多数の職人は廃業を余儀なくされるなど、日本刀は「冬の時代」を迎えていました。大正時代に入ると、日本刀の材料である「玉鋼」(たまはがね)を精製する日本古来の「たたら製鉄法」が廃絶。しかし、風前の灯となっていた刀剣文化が息を吹き返しました。そのきっかけは、皮肉にも戦争の拡大。昭和初期、日本が軍国主義の道を進むにつれて、刀剣は「軍人の魂」として、需要が拡大。「日本刀鍛錬会」が創設され、「靖国神社」の境内に鍛錬所が設置されました。そこで制作された軍刀が「靖国刀」です。見た目が美しく、実用性の高い靖国刀は、恩賜刀(天皇から与えられる日本刀)としても用いられました。 ここでは、昭和初期の刀剣をめぐる状況と共に、元皇族で陸軍軍人の「朝香孚彦」(あさかたかひこ:元皇族・朝香宮孚彦王)に贈られた靖国刀「靖光」(やすみつ)についてご紹介します。

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