本太刀は、「来一門」の刀工「来国俊」(らいくにとし)が制作し、丹後国宮津(たんごのくにみやづはん:現在の京都府宮津市)の宮津藩「本庄松平家」(ほんじょうまつだいらけ)に伝来した雅な作品です。本庄松平家は江戸時代に栄え、下級武士から幕閣(ばっかく:幕府の最高行政機関)の中枢を担う一流の家柄となりました。ここでは、本庄松平家の歴史についてふれながら、太刀 来国俊を解説していきます。
桂昌院
太刀・来国俊が伝来した丹後国宮津藩(たんごのくにみやづはん:現在の京都府宮津市)の本庄家は、庶民から大奥へ入り将軍の母にまで登り詰めた「桂昌院」(けいしょういん)の実家です。
桂昌院は、1627年(寛永4年)に京都西陣の八百屋の娘「お玉」として生まれたと言われています。
お玉の父は、武家に野菜を納める商人で、お玉も八百屋の手伝いをしていました。そんなある日、お玉の父が死去し、彼女は路頭に迷うこととなります。
しかし、お玉は縁あって野菜を納めていた先の下級武士「本庄家」に引き取られ、養女となりました。本庄家に入ると今度は、上流階級である公家出身の尼僧(にそう:出家した成人女性)の侍女(じじょ:お世話役の女性)として奉公します。お玉が仕えた尼僧は1639年(寛永16年)、将軍家に挨拶するために江戸城へと向かいました。このとき、お玉も同行しています。
徳川家光
3代将軍「徳川家光」(とくがわいえみつ)に謁見した尼僧が見初められ、側室として迎えられることになったため、侍女のお玉も一緒に大奥へ上がりました。この尼僧がのちの「お万の方」こと「永光院」(えいこういん)です。
一方、お玉は成人して徳川家光の側室となり、1646年(正保3年)に徳川家光の子で「生類憐みの令」で有名な「徳川綱吉」(とくがわつなよし)を出産します。
お玉は、徳川綱吉を次期将軍として出世させるため、必死で教育を施しました。他に次期将軍候補の男児がいるなかでの教育であり、決して容易ではありません。
結果として、徳川綱吉は4代将軍の座を逃してしまいました。しかし、4代将軍となった「徳川家綱」(とくがわいえつな)と、徳川家光の次男の死去で、徳川綱吉が5代将軍として跡目を継ぐことになります。
その後、お玉は出家し「桂昌院」(けいしょういん)を名乗りました。最終的にお玉は八百屋の娘から、将軍である息子の徳川綱吉を陰で操り、大奥の権力をも握るほどの女傑となったのです。
お玉が出世を重ね、将軍家の実権を握る権力者となったおかげで、実家の本庄家にも影響が現れます。本庄家には当時、公家に奉仕する次男の「本庄宗資」(ほんじょうむねすけ)がいました。本庄宗資は桂昌院の異父弟であり、5代将軍・徳川綱吉の叔父にあたる人物で、徳川家とは姻戚関係にあります。そのため本庄宗資は、桂昌院や将軍・徳川綱吉の後ろ盾を得て、1680年(延宝8年)には公家侍から幕臣へと大出世を果たすのです。
その8年後には、本庄宗資は1万石を領地とする大名となり、最終的には5万石へと加増されます。さらに、本庄宗資の子である「本庄資俊」(ほんじょうすけとし)の代より、「松平姓」を名乗ることを許されました。このように桂昌院は、実家である本庄家に大きな繁栄をもたらしたのです。
宮津城 太鼓門
出世した本庄家は松平家として、7万石で丹後国宮津藩に入りました。藩主は初代「松平資昌」(まつだいらすけまさ)から7代続きます。そのうち、3代「松平資承」(まつだいらすけつぐ)は、国内の宗教の中枢を担う寺社奉行となりました。
5代「松平宗発」(まつだいらむねあきら)と6代「松平宗秀」(まつだいらむねひで)は、幕府の重鎮・老中を務めています。
こうして本庄松平家は7代のうち、寺社奉行・老中として3人が幕閣の中枢へと進出した一流の家柄へと大出世したのです。
しかし、6代・松平宗秀と7代「松平宗武」(まつだいらむねたけ)が幕末に旧幕府軍の一角を担ったことで、宮津藩は新政府軍の敵となってしまいます。宮津藩は、1868年(明治元年)の「鳥羽・伏見の戦い」で敗戦すると、そののちは明治政府に恭順(きょうじゅん:慎んで従うこと)し、廃藩置県を迎えました。本庄松平家は明治以降、子爵を与えられ華族となります。
歴史上の人物が活躍した合戦をご紹介!
本太刀 来国俊の刀身は、小板目(こいため)が細かく、地沸(じにえ)付き。刃文が一直線で細い、細直刃(ほそすぐは)が特徴的と言えます。
九目結紋
本太刀の衛府太刀拵には、本庄家の家紋「九目結紋」(ここのつめゆいもん)があり、桂昌院が社寺に寄進した灯篭(とうろう)や軒丸瓦(のきまるかわら)などにも同じ家紋が用いられています。
さらに、衛府太刀拵の蒔絵箱(まきえばこ)には、金梨地(きんなしじ)と金・銀の切金(きりかね:長細く切った金や銀の箔を貼り付けて文様を描き出す技法)で「伊勢物語」の和歌がいかにも豪華に描かれています。
大名である本庄松平家の格式に合った見事な蒔絵箱であり、雅な一面を感じ取れる作品です。