関西地方の戦国大名

三好家の歴史と武具(刀剣・甲冑)

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三好家は、四国地方から近畿地方に進出。「三好長慶」(みよしながよし)の代には、主君を倒して成り上がり、下克上を果たして、幕府の実権を握るまでになります。今回は、四国を領地としていた三好家が成り上がっていった経緯や、それを支えた家臣達、三好家ゆかりの刀剣や甲冑(鎧兜)などについてご紹介します。

三好家の来歴

三好家の家紋「三階菱に釘抜」

三好家の家紋「三階菱に釘抜」

三好家の祖は、清和源氏(せいわげんじ)の一族である小笠原家のうち、阿波国(あわのくに:現在の徳島県)を領地とする阿波小笠原家出身の「小笠原義長」(おがさわらよしなが)です。

小笠原義長が阿波国三好郡(現在の徳島県三好郡)を本拠地としていたことから、三好と称し始めました。

1467年(応仁元年)に起こった応仁の乱では、「三好之長」(みよしゆきなが)が主君である阿波細川家の当主「細川成之」(ほそかわしげゆき)に従い、将軍に次ぐ役職である管領(かんれい)の「細川勝元」(ほそかわかつもと)に味方。これにより、三好家は四国から畿内(現在の大阪府奈良県京都府南部、兵庫県南東部)へ進出することとなり、応仁の乱のあとも三好之長は細川家の家臣として多くの戦に加わりました。

その後、三好之長の孫にあたる「三好長慶」(みよしながよし)が主君・細川晴元に対して反旗を翻し権力を奪うと、三好長慶はそのまま三好政権を樹立。しかしその三好長慶の死とともに支配力は衰えはじめ、「織田信長」の登場という時代の波に飲み込まれてしまうことになりました。

三好長慶と三好政権

三好長慶

三好長慶

三好之長から「三好元長」(みよしもとなが)を経て三好家の当主となったのが、三好長慶でした。

三好長慶は1539年(天文8年)、摂津国(せっつのくに:現在の大阪府北中部、兵庫県南東部)の守護代(守護に代わって土地を治める役職)に任じられ、これにより三好家は本拠を畿内へ移すこととなります。

三好長慶は主君であり幕府の実権を握っていた管領「細川晴元」(ほそかわはるもと)に対し、父・三好元長の死後、同族ながら対立していた「三好政長」(みよしまさなが)に奪われた領地の返還を訴えます。しかし、三好政長も細川晴元の家臣であったためこの訴えは実らず、不満を持った三好長慶は主君・細川晴元に反旗を翻しました。

三好長慶が1549年(天文18年)に江口の戦い(えぐちのたたかい)で三好政長を討つと、三好長慶を怖れた細川晴元は13代将軍であった「足利義輝」(あしかがよしてる)らと共に近江国(おうみのくに:現在の滋賀県)に逃れます。

細川晴元を追い出した三好長慶はそのまま、細川晴元に実父と養父を殺されていた「細川氏綱」(ほそかわうじつな)を擁立。1552年(天文21年)には三好長慶は将軍・足利義輝と和睦し、細川家の家督を細川晴元から細川氏綱へと移させることで細川氏綱が正式な管領となり、将軍・足利義輝と管領・細川氏綱を傀儡として三好長慶が実権を握る三好政権が成立。その後も三好長慶は、畿内や四国を中心に勢力を広げ三好家の最盛期を築き上げました。

しかし、その後は三好長慶の兄弟や嫡男「三好義興」(みよしよしおき)など、三好長慶の後継者となるべき近縁が相次いで病死、戦死します。その結果、1564年(永禄7年)に三好長慶が没すると、三好長慶の甥「三好義継」(みよしよしつぐ)が家督を相続しますが若年のため、三好三人衆と呼ばれる「三好長逸」(みよしながやす)、「三好政勝」(みよしまさかつ)、「岩成友通」(いわなりともみち)の3人が後見人として、三好長慶のもとで重用されていた松永家の「松永久秀」(まつながひさひで)と共に連立政権として政務に当たります。

三好家を主導する三好三人衆は1565年(永禄8年)、三好長慶の死を好機と見て三好政権から権力の奪還を図った将軍・足利義輝を暗殺。さらに三好家の擁立した「足利義栄」(あしかがよしひで)を14代将軍とします。

織田信長

織田信長

一方で、松永久秀は足利義輝の弟「足利義昭」(あしかがよしあき)の擁立を主張したことをはじめ、三好三人衆との主導権争いがはじまります。

戦を重ねる中で松永久秀は、織田信長に支援を要請し、越前(現在の福井県北部)に逃れていた足利義昭の上洛に成功。さらに、同時期に将軍・足利義栄が持病の悪化により亡くなったことで、足利義昭が15代将軍に就任。三好家の幕府への影響力が弱まりはじめます。

力を弱めた三好家は、もとの本拠であった阿波国でも地元の有力武将らの反乱を受け支配地域を減少させると、勢力を拡大する織田信長の力を借りた松永久秀により、三好三人衆や当主・三好義継が次々に敗れ、畿内での支配力も喪失。戦で当主・三好義継が敗死した三好家は断絶となり、大名としての三好家は滅亡しました。

その後三好家は、織田信長、豊臣家、徳川家といった天下人に仕え、家臣として存続。三好家に敵対した松永久秀は大和国の支配権を認められましたが、その後の石山本願寺攻めに参加せずに、居城・信貫山城(しぎさんじょう:現在の奈良県生駒郡)に籠りました。それに激怒した織田信長が嫡男・織田信忠(おだのぶただ)を派遣し包囲。落城間近に松永久秀所有の名茶器「古天明平蜘蛛」(こてんみょうひらぐも)を差し出したら許すと言われましたが、茶器や息子もろとも爆死したと伝えられています。

三好家ゆかりの刀剣・甲冑

三好家ゆかりの刀剣甲冑(鎧兜)などをご紹介します。

刀剣

大般若長光(だいはんにゃながみつ)
大般若長光は、三好長慶が将軍・足利義輝から下賜された日本刀です。室町時代、名刀として銭600貫という高額値が付けられたため、600巻ある大般若経(だいはんにゃきょう)にかけてこの名前が付けられました。

現在は国宝として、東京国立博物館東京都台東区)に収蔵されています。

大般若長光

大般若長光

鑑定区分 刃長 所蔵・伝来
長光 国宝 73.6 東京国立博物館

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宗三左文字(そうざさもんじ)
宗三左文字は、三好政長が所用していた日本刀です。三好政長の隠居名「宗三」(そうざ)にちなんでこの名で呼ばれています。三好政長が武田家に贈ったのち、今川家を経て織田信長、「豊臣秀吉」、「徳川家康」の手に渡ったため、「天下取りの刀」とも呼ばれました。

現在は国の重要文化財に指定され、建勲神社(京都府京都市)に収蔵されています。

宗三左文字

宗三左文字

鑑定区分 刃長 所蔵・伝来
(金象嵌)
永禄三年
五月十九日
義元討捕刻
彼所持刀
織田尾張守信長
重要文化財 67 建勲神社
京都国立
博物館
寄託)

甲冑

紺糸縅桶側胴具足(こんいとおどしおけがわどうぐそく)
紺糸縅桶側胴具足

紺糸縅桶側胴具足

紺糸縅桶側胴具足は、や小手に三好家の家紋を配した甲冑(鎧兜)です。

江戸時代末期の作品と考えられています。

現在は、一関市藤沢文化センター(岩手県一関市)に収蔵されています。

三好家を支えた家臣

三好長逸(みよしながやす)
三好長逸は、三好三人衆の中でも筆頭格の武将です。また、三好長慶の従叔父として三好長慶をはじめ、三好長慶死後の次期当主・三好義継を支えました。

松永久秀らと共謀して足利義輝を暗殺したあとには松永久秀と争うようになり、しばらく戦が続きます。三好義継も三好長逸らに不信を抱き、松永久秀側に付きます。しかし、足利義栄を将軍に就任させたこともあり、戦局は三好長逸らに傾きました。

1568年(永禄11年)足利義昭を将軍にしようと目論む織田信長が大軍を引き連れてきたため、三好義継や松永久秀は織田信長に付き、三好長逸らは抵抗しましたが敗北。畿内へ逃亡し、再起を図るも織田軍に敗れてしまいます。そのときの戦で討死したと言われていますが、隠居や幽閉説もあり正確な末路は分かっていません。

三好政勝(みよしまさかつ)
三好政勝は、三好家の宗家・三好長慶と共に、分家として父・三好政長と共に細川晴元に仕えていました。しかし、三好長慶が細川晴元に反旗を翻したため、宗家と対立するようになります。幾度か戦を交える中で三好政長は討たれ、三好政勝は三好長慶に従属。その後、三好長慶のもとで数々の武功を挙げ、1564年(永禄7年)三好三人衆として、幼少で当主を継いだ三好義継を支えました。

1565年(永禄8年)には、出家して「釣竿斎宗渭」(ちょうかんさいそうい)と名乗るようになりました。三好政勝は三好長逸同様、織田軍に抵抗。その際に消息不明となったり、死去したりと正確な末路は分かっていません。

岩成友通(いわなりともみち)
岩成友通は、三好長慶の奉行人(上位者の命を受けて政務を担当し執行する者)として活躍。三好長慶死後は頭角を現し、唯一三好一族ではない三好三人衆のひとりを務めます。

将軍・足利義輝暗殺後の1566年(永禄9年)、山城国(やましろのくに:現在の京都府南部)支配のため、山城西部の土豪(数村を支配する小規模の豪族)が立て籠もった勝竜寺城(京都府長岡京市)を攻め落とし居城とします。そして賢固な城にするために勝竜寺城を整備。その甲斐あってか、織田信長が上洛した際に強く抵抗することができました。

しかし、最終的には「柴田勝家」(しばたかついえ)らの城攻めに耐えられず落城し、織田信長に臣従することに。その後、幾内にて織田信長に再び反抗しますが、織田信長の命を受けた「三淵藤英」(みつぶちふじひで)らに攻め込まれて討死しました。

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