九州・沖縄地方の戦国大名

立花家の歴史と武具(刀剣・甲冑)

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九州の守護大名の家臣にはじまり、戦国の世を生き抜いた立花家。一時は断絶かと思われるようなできごとがありながら、ついには大名まで上り詰めた、波乱万丈の立花家の歴史とその舞台で活躍した刀剣や甲冑(鎧兜)、立花家を支えた家臣をご紹介します。

立花家の来歴

立花家の家紋「祇園守」

立花家の家紋「祇園守」

鎌倉時代に、豊後国(ぶんごのくに:現在の大分県)の守護大名であった大友家の6代当主「大友貞宗」(おおともさだむね)の次男「大友貞戴」(おおともさだとし)が、筑前国粕屋郡立花山城(福岡県福岡市)に別邸を築き、その地名を名字としたことが立花家の始まりです。

立花家は重臣として大友家に仕えましたが、5代当主「立花鑑光」(たちばなあきみつ)が「大友宗麟」(おおともそうりん)に背き、誅殺されます。

その跡目を継いだ6代当主「立花鑑載」(たちばなあきとし)も、先代に続き大友氏への反旗を翻して討たれたため、立花家の流れを汲む者は途絶えます。近代に続く立花家の祖となるのは、このとき立花山城攻めに参加した「戸次道雪」(べっきどうせつ:戸次鑑連[べっきあきつら]、立花道雪[たちばなどうせつ]とも)です。

1572年(元亀2年)、戸次道雪は大友宗麟から立花家の家督を託され、立花山城に入城しますが、相次ぐ謀反により立花姓を嫌厭(けんえん)していた戸次道雪は生涯「戸次」の名で通したと言われています。

立花家の変遷

立花誾千代

立花誾千代

戸次道雪には後継者となる直系男子がいなかったため、戦国時代としては珍しく実娘の「立花誾千代」(たちばなぎんちよ)が家督を継ぎます。

そして立花誾千代の婿として迎えられたのが、岩屋城(福岡県太宰府市)城主「高橋紹運」(たかはしじょううん)の長男「高橋統虎」(たかはしむねとら)でした。のちに妻である立花誾千代から家督を継ぎ、柳河藩初代藩主になる「立花宗茂」(たちばなむねしげ)その人です。

立花宗茂の代になると再び立花姓を名乗り、当時薩摩を拠点に九州統一を目指して勢いにのっていた島津家との戦いに身を投じていきますが、戦況は劣勢。しかし最後まで大友家を支えた立花家の奮闘と豊臣の加勢により、島津家を退けることに成功すると、その功績が豊臣秀吉に高く評価されます。ついには南筑後の領地を与えられ、立花山城から柳川城(福岡県柳川市)に本拠地を移し、大友家から独立した大名となりました。

豊臣秀吉の死後、関ヶ原の戦いで西軍についた立花宗茂は、大津城(滋賀県大津市)を攻略していたため、西軍敗北の知らせを聞いて大坂城へ敗走。その後、大坂城から柳川城へ戻りますが、東軍からの度重なる追撃を受けました。最後は肥後(熊本県)の「加藤清正」(かとうきよまさ)の説得もあり、降伏開城しました。

長年の浪人生活を経て、ようやく大名の地位を回復したのは1606年(慶長11年)。徳川家康の子である「徳川秀忠」(とくがわひでただ)が将軍となってからでした。さらに、もとの領地である南筑後を再び支配することになるのは、1620年(元和6年)のこと。関ヶ原の戦い後に筑後国(現在の福岡県南部)を治めていた「田中忠政」(たなかただまさ)が、後継ぎを残さず亡くなり田中家が断絶したことから、立花家は以前とほぼ同じ領地を分け与えられて柳川城城主となります。

このできごとは「元和再封」と呼ばれ、その後、1869年(明治2年)に明治政府のもとで版籍奉還が行なわれるまで、立花家は柳河藩の大名としてこの地を治め続けました。

立花家は、とりわけ立花宗茂にまつわる逸話や武具が多く残されていることが特徴です。仕えた君主への忠義を尽くし、波乱を乗り越え、再び故郷を治めるに至った稀有な大名は、立花家を代表する人物だったと言えます。立花宗茂が残した刀剣甲冑(鎧兜)は、当時の栄華を今日に伝え続けています。

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立花家ゆかりの刀剣・甲冑

立花家ゆかりの刀剣や甲冑(鎧兜)をご紹介します。

刀剣

剣 銘 長光(けん めい ながみつ)
剣 銘 長光

剣 銘 長光

鎌倉時代に備前国(現在の岡山県東南部、香川県兵庫県一部)で活躍した名工「長光」による細身の剣。立花宗茂が戸次道雪のもとに養子に行く日、実父であった高橋紹運から貰い受けたものです。

高橋紹運は「今後は戸次道雪を本物の父と思い、万が一、戸次道雪と自分が敵味方となったときはこので私を討ち取れ」と、大きな覚悟とともにこの剣を立花宗茂に渡した逸話があります。

立花宗茂はその意志を受け継ぎ、ここぞというときは「劔切貞宗」(けんきりさだむね)と呼ばれた脇差、兼光の日本刀とともに、必ず長光を帯刀していたと言います。

現在は国の重要文化財に指定され、立花家史料館(福岡県柳川市)に収蔵されています。

吉光(よしみつ)
刃長23.2cm、包丁の形に近い短刀は、立花家の先祖が1336年(建武3年)に足利尊氏から授かった逸話の残る名刀です。鎌倉時代に短刀の名手として知られた山城国(現在の京都府)の藤四郎吉光の作で、700年近く経った今でも全体が美しい状態で保存され、その力強さと格調高さを現代に伝えています。

現在は、国宝として、立花家史料館に収蔵されています。

甲冑

伊予札縫延栗色革包仏丸胴具足(いよざねぬいのべくりいろかわつつみほとけまるどうぐそく)
伊予札縫延栗色革包仏丸胴具足

伊予札縫延栗色革包仏丸胴具足

桃山時代に制作された立花宗茂の甲冑(鎧兜)で、立花家を代表する大名道具(大名が持つような豪華な道具)です。

過度な装飾は見受けられない質実剛健な具足ですが、栗色に光るの革、その下にさがる朱漆の草摺(くさずり)、さらに佩楯(はいだて)の銀箔など、力強い色彩が印象的。

現在は、立花家史料館に収蔵されています。

鉄皺革包月輪文最上胴具足(てつしぼかわつつみがちりんもんもがみどうぐそく)
鉄皺革包月輪文最上胴具足

鉄皺革包月輪文最上胴具足

伊予札縫延栗色革包仏丸胴具足と同じく、立花宗茂が身に付けた甲冑(鎧兜)です。

胴と兜を大きく飾っているのは、立花家で「月輪」(がちりん)とも記す「輪貫文」(わぬきもん)。

同じ九州の肥後熊本藩初代藩主であった加藤清正が、「蛇の目紋」(じゃのめもん)と呼ばれる同じ形の家紋を使用していたことから、立花宗茂との親交を想像させる武具とされています。

胴は、同じ時代の物と比べても大ぶりで、重量自体も約12kgと非常に重く、立花宗茂が体格の良い人物であったことを物語っています。

現在は、立花家史料館に収蔵されています。

金箔押桃形兜(きんぱくおしももなりかぶと)
立花宗茂の時代に南蛮文化の影響を受けて作られたは、名前の通り桃の実の形をかたどっています。239頭とまとまった数が残されていることは珍しく、戦場で一隊が揃いの武具を身に付けて戦っていた様子を彷彿とさせる貴重な資料です。

現在は、立花家史料館に収蔵されています。

立花家を支えた家臣

安東省庵(あんどうせいあん)
1622年(元和8年)に、柳河藩士である「安東親清」(あんどうちかきよ)の次男として誕生。初代柳河藩主・立花宗茂にその聡明さを見込まれ、次期藩主の「立花忠茂」(たちばなただしげ)が江戸へ行く際は側近として同行して、儒学を極める道へ進みます。

1637年(寛永14年)には立花忠茂とともに島原の乱を制圧するなど、武人としての勤めも果たしましたが、安東省庵の何よりの功績は柳河藩における学問と教育の発展です。京都では儒学者の「松永尺五」(まつながしゃくご)に、長崎では明(中国)の「朱舜水」(しゅしゅんすい)に師事し、朱子学や陽明学を幅広く学んで独自の学風を作り上げ、初代立花宗茂から4代目の「立花鑑任」(たちばなあきたか)まで、柳河藩主4代に仕えます。

のちに安東家が開いた家塾は、柳河藩士の子弟が通う藩校伝習館のもととなったことから、安東省庵は「柳河藩学問の祖」と呼ばれています。

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