中国・四国地方の戦国大名

宇喜多家の歴史と武具(刀剣・甲冑)

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戦国時代という下克上の世を勝ち上がり、ついには天下人・豊臣秀吉に重用される地位まで上り詰めた宇喜多家。しかし、その華々しさから一転、天下分け目の合戦後は没落し、不遇の時を過ごすことになります。時にしたたかに、急成長を遂げながらも、時代の波にのまれていった宇喜多家の歴史と、ゆかりのある刀剣や甲冑(鎧兜)についてご紹介します。

宇喜多家の来歴

宇喜多家の家紋「剣片喰」

宇喜多家の家紋「剣片喰」

15世紀後半には、備前国(びぜんのくに:現在の岡山県東部)東南部を領地としていた宇喜多家。

もともとは、この地域を支配していた「赤松家」(あかまつけ)に仕えていた「浦上家」(うらがみけ)の家臣でした。

「宇喜多能家」(うきたよしいえ)は、「浦上村宗」(うらがみむらむね)に従う高官として、備前砥石城(岡山県瀬戸内市)を居城に戦場でも大いに活躍しますが、時代はやがて戦国時代へ。中国地方で力を持っていた尼子家が備前国にも勢力を伸ばし、また、宇喜多能家は同じ浦上家の家臣の「島村観阿弥」(しまむらかんあみ)の奇襲を受けて自害してしまいます。

宇喜多家の変遷

宇喜多能家の孫である「宇喜多直家」(うきたなおいえ)は、父である「宇喜多興家」(うきたおきいえ)が早くに亡くなったこともあり不遇の幼少期を過ごしますが、浦上家に仕えるようになると次第に頭角を現します。

やがて、主君である「浦上宗景」(うらがみむねかげ)をも凌ぐ力を持つようになった宇喜多直家は、浦上宗景と対立するようになります。1573年(天正元年)に、浦上宗景が時の権力者・織田信長から播磨国(はりまのくに:現在の兵庫県南部)・美作国(みまさかのくに:現在の岡山県北東部)・備前国の領有を認められると、宇喜多直家は安芸国(あきのくに:現在の広島県西部)の毛利家と手を結び、ついに浦上家を退けその領地を我が物としました。

おのずと織田信長と対峙する形となった宇喜多直家は、織田信長の命のもと中国地方へ進出する豊臣秀吉とも争いますが、同時に家臣を通して織田側への接近を試み、最後は豊臣秀吉の取り次ぎもあり毛利家から離反します。そして今度は豊臣秀吉と組んで毛利家との攻防を繰り広げるなど、その人生は下剋上や調略に満ちたすさまじいものでした。

宇喜多秀家

宇喜多秀家

宇喜多直家が病死すると、幼くして家督を継いだ「宇喜多秀家」(うきたひでいえ)は、豊臣秀吉に何かと目をかけられながら育つことになります。

本能寺の変により織田信長が命を落としたことで、豊臣秀吉と毛利家の争いは収束しますが、宇喜多秀家はその後も毛利の監視役となるなど、豊臣秀吉の天下統一に貢献しました。

豊臣秀吉は宇喜多秀家をとても気に入っていたと言われ、寵愛していた養女「豪姫」(ごうひめ)をその正室にしています。こうして、宇喜多家と豊臣家は主君と家臣以上の特別な関係となり、宇喜多家は豊臣家の一門として扱われるようになりました。

宇喜多秀家は国内のみならず豊臣秀吉の朝鮮出兵でも活躍し、ついには「前田利家」(まえだとしいえ)や「毛利輝元」(もうりてるもと)などの名だたる武将達と肩を並べ、豊臣政権の「五大老」(ごたいろう)に任ぜられます。

しかし、若くして異例とも言える大出世は、豊臣秀吉の後ろ盾あってこそであることは明白でした。豊臣秀吉の死後、徳川家康が勢力を伸ばすなか、宇喜多家では「宇喜多騒動」と呼ばれる内紛が起こります。この騒動で「戸川達安」(とがわみちやす)、「岡越前守」(おかえちぜんのかみ)、「花房秀成」(はなぶさひでなり)などの有力家臣が揃って宇喜多家を去り、宇喜多秀家は次第に大名としての求心力を失っていきました。

さらにその直後に起こったのが、関ヶ原の戦いです。騒動の混乱が収束もままならないなかで態勢を立て直すことは難しく、西軍に味方して戦いましたが惨敗し、宇喜多秀家は敗走します。本拠地としていた岡山城(岡山県岡山市)は、かつての家臣で徳川方についた戸川達安、「浮田左京亮」(うきたさきょうのすけ)に明け渡され、その後は「小早川秀秋」(こばやかわひであき)の居城となりました。

宇喜多秀家は、同じ西軍の将であった「島津忠恒」(しまずただつね)を頼って薩摩藩へ逃れ、再起に望みをかけますが、決定された処分は八丈島(東京都八丈町)への流刑でした。宇喜多秀家が息子やわずかな家臣とともに流された八丈島で、宇喜多家は長く続く江戸時代を過ごします。その罪が許されたのは、徳川幕府が倒れたあとの1869年(明治2年)。八丈島から出ることが叶ったのは、さらにその翌年のことでした。

宇喜多家の最盛期を担った宇喜多秀家。肖像画に描かれる、微笑みをたたえたやわらかな表情とは裏腹に、その人生は激動の連続でした。家が没落し、史料も少ないなか、それでも多くの人の関心を集めるのは、そのドラマチックな歴史に惹かれるからではないでしょうか。

歴史上の人物が活躍した合戦をご紹介!

宇喜多家が愛用した刀剣・甲冑

宇喜多家が愛用した刀剣甲冑(鎧兜)をご紹介します。

刀剣

鳥飼来国次(とりかいらいくにつぐ)
宇喜多家に渡る以前は、書家である「鳥飼宗慶」(とりかいそうけい)や豊臣秀吉が所有していた短刀です。宇喜多秀家は、この日本刀を豊臣秀吉から拝領し、かの関ヶ原の戦いでも身に付けていたと伝えられています。戦のあと、刀は徳川家康の手に渡り、さらに加賀藩の前田家、そして山城淀藩の稲葉家へ。

1933年(昭和8年)に国が制定した重要美術品に指定され、現在は黒川古文化研究所(兵庫県西宮市)に収蔵されています。

鳥飼来国次

鳥飼来国次

薙刀 銘 伯耆国住広賀(なぎなた めい ほうきのくにずみひろよし)
宇喜多秀家所有であった渡海龍(とかいりゅう)。前田家から宇喜多秀家に嫁いだ豪姫が、西軍に味方し敗北した関ヶ原の戦いで八丈島へ流罪になり、その1年後、加賀前田家へ引き取られる際に同家へ伝来しました。

一時期行方が分からなくなっていましたが、前田家支流・上野国七日市前田家にあるのが分かり、そのまま明治を迎えました。

現在は刀剣ワールド財団(東建コーポレーション)にて所蔵しています。

薙刀 銘 伯耆国住広賀
薙刀 銘 伯耆国住広賀
伯耆国住広賀作
天正二年八月日
鑑定区分
保存刀剣
刃長
55.8
所蔵・伝来
宇喜多秀家 →
加賀前田家伝来 →
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

甲冑

紅糸素懸縅銀箔押二枚胴具足(べにいとすがけおどしぎんぱくおしにまいどうぐそく)
紅糸素懸縅銀箔押二枚胴具足

紅糸素懸縅銀箔押二枚胴具足

宇喜多直家の甥である「宇喜多基家」(うきたもといえ)が、毛利家と刀を交えた「八浜合戦」で討ち死にした際に着用していたと伝えられる、室町時代後期の甲冑(鎧兜)です。

烏帽子形のは鉄で形取られ、金箔を押した物。与太郎神社(岡山県玉野市)で、足の神様として祀られる宇喜多基家は「与太郎様」として親しまれ、この甲冑(鎧兜)も「与太郎甲冑」の通称で呼ばれています。

岡山県指定重要文化財で、現在は大賀島寺(岡山県瀬戸内市)が所蔵しています。

宇喜多家を支えた家臣

宇喜多忠家(うきたただいえ)
宇喜多直家の弟である宇喜多忠家。兄・宇喜多直家に代わって数々の戦へ出陣し、活躍しました。一方で、宇喜多直家を心から信用してはおらず、顔を合わせる際は衣服の下に鎖帷子(くさりかたびら)と呼ばれる防具を身に付けていたという逸話も残っています。

宇喜多直家の死後は、跡を継いだ宇喜多秀家の後見人となると同時に豊臣秀吉にも仕え、双方の間を取り持ちました。

浮田左京亮(うきたさきょうのすけ)
宇喜多忠家の長男であり、のちに「宇喜多詮家」(うきたあきいえ)とも呼ばれています。

宇喜多秀家に仕えた浮田左京亮ですが、内政をめぐって度々主君と対立し、「宇喜多騒動」の当事者となります。その仲介をした徳川家康とつながりを得たことをきっかけに、関ヶ原の戦いでは徳川家康率いる東軍に付くことになりました。

明石掃部(あかしかもん)
宇喜多家を揺るがした「宇喜多騒動」で中立を保った人物で、キリシタンでした。それまでは主に戦の場で活躍するに留まり、政務にはかかわらない「客分」(きゃくぶん)として扱われていましたが、有力家臣が相次いで抜けた混乱のなか、その立て直しを任され奔走しました。

関ヶ原の戦いで宇喜多家が敗れたあとは浪人となり、一時期は筑前福岡城福岡県福岡市)の「黒田長政」(くろだながまさ)に仕えますが、1614年(慶長19年)の「大坂の陣」に豊臣方として参戦し、敗走したと伝えられます。

宇喜多家の歴史と武具(刀剣・甲冑)

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毛利家は鎌倉時代から江戸時代まで続いた武家で、鎌倉幕府の御家人「大江季光」(おおえのすえみつ)が興しました。室町時代の後期には「三本の矢」で有名な「毛利元就」(もうりもとなり)が当主になり一気に領土を拡大します。 その後、毛利元就の孫である「毛利輝元」(もうりてるもと)は豊臣政権下で最高職となる「五大老」(ごたいろう)の座に就き、「関ヶ原の戦い」では豊臣側(西軍)の総大将になります。そして豊臣側(西軍)が敗れると、毛利家は領地の大部分を失ってしまうのでした。 徳川幕府の元、毛利家は長州藩を治めながら少しずつ力を蓄えます。江戸時代末期になると、毛利家が治めていた長州藩が徳川幕府と対立。倒幕を目指す薩摩藩と同盟を結び、近代日本の礎を築くことになります。 そんな毛利家の歴史や、ゆかりの刀剣・甲冑(鎧兜)を紹介します。

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