中国・四国地方の戦国大名

尼子家の歴史と武具(刀剣・甲冑)

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尼子家は、戦国時代に山陰地方を中心として栄えた戦国大名です。戦国時代中期には、「尼子経久」(あまごつねひさ)や「尼子晴久」(あまごはるひさ)によって中国地方に勢力を広げた尼子家。今回はそんな尼子家の来歴や、尼子家に仕えた家臣達、尼子家ゆかりの刀剣や甲冑(鎧兜)などについてご紹介します。

尼子家の来歴

尼子家の家紋「平四つ目結」

尼子家の家紋「平四つ目結」

尼子家の祖は、「尼子高久」(あまごたかひさ)。尼子高久は、近江源氏の流れをくむ京極家「京極高秀」(きょうごくたかひで)の次男として生まれました。

のちに尼子高久は、近江国(おうみのくに:現在の滋賀県)の守護代(守護に代わって土地を治める役職)として近江国甲良荘尼子郷(現在の滋賀県甲良町)に移り、尼子を称したことが始まりと言われています。

1395年(応永2年)には、京極家が守護(将軍から地域の監督権を許された役職)を務める、出雲国(いずものくに:現在の島根県東部)の守護代(守護の下に置かれた代官)に、尼子高久の子で2代目当主「尼子持久」(あまごもちひさ)が任じられ、月山富田城(がっさんとだじょう:島根県安来市)に入城。以降、尼子家は月山富田城を拠点として勢力を広げます。

尼子経久の活躍

1478年(文明10年)に尼子持久の孫・尼子経久が4代目当主として家督を継承します。尼子経久は室町幕府への納税を拒否するなど独立色を強めていったため、幕府や守護である京極家、周辺勢力からの反発もあり、守護代の座を剥奪されてしまうのです。

しかしその後、主君の「京極政経」(きょうごくまさつね)と和睦することで再び守護代に返り咲くと、守護である京極家が同時期に家督争いで力を落としていたこともあり、主君の影響を退けて出雲国を実質的に支配するようになります。

武力で成り上がり戦国大名となった尼子経久は、1512年(永正9年)以降、備後国(びんごのくに:現在の広島県東部)を皮切りに、石見国(いわみのくに:現在の島根県西部)や伯耆国(ほうきのくに:現在の鳥取県中部・西部)、備中国(びっちゅうのくに:現在の岡山県西部)などに次々と侵攻。各地を支配し、有力武将と手を結ぶことで、山陰・山陽にまたがる広大な勢力圏を築き上げ、「十一ヶ国太守」(11の国を治める守護大名)と呼ばれるほどになりました。

しかし1530年(享禄3年)、尼子経久の三男で出雲国の名家・塩冶家(えんやけ)に養子として送られていた「塩冶興久」(えんやおきひさ)が、尼子経久に対し反乱を起こします。

この反乱は、塩冶興久が尼子家に不満を持つ支配地域の有力武将など、各地の反尼子家の勢力を味方に付けて反旗を翻した大規模なものでした。ですが隣国の周防国(すおうのくに:現在の山口県東南部)を領地とする大内家が尼子家側に回るなど、外部の支援もあり尼子経久が反乱を鎮圧。塩冶興久は自害することとなりました。

尼子家勢力の衰退と滅亡

塩冶興久の反乱を鎮めた尼子経久は、1537年(天文6年)に隠居し家督を尼子晴久に譲ります。

尼子晴久は過去の合戦で討死にした尼子経久の長男「尼子政久」(あまごまさひさ)の子で、尼子経久の孫に当たります。尼子経久の代では、勢力圏の統治を手を結んだ各国の有力武将に任せることも多かったのですが、尼子晴久は有力武将を自らの家臣とすることで支配下に置き、積極的に支配地域の中央集権化に取り組んでいきました。そのため尼子家に反抗的で独立色の強い武将に対しては、領地を削減するなど勢力を弱めさせ、反乱を未然に防ぐことに注力しました。

また1551年(天文20年)には、周防国の大名「大内義隆」(おおうちよしたか)が家臣「陶晴賢」(すえはるかた)の謀反により死亡し大内家の勢力が衰え、尼子家が中国地方の最大勢力となります。中国地方一の大名となった尼子晴久は、将軍「足利義輝」(あしかがよしてる)から山陰山陽8国(出雲・隠岐・伯耆・因幡・美作・備前・備中・備後)の守護を正式に任じられ、名実共に有力大名となりました。

尼子晴久はその後も、叔父の「尼子国久」(あまごくにひさ)を党首とする尼子家最大の軍事勢力であり、尼子家家臣の精鋭が集まり独立勢力になり始めていた軍事集団・新宮党(しんぐうとう)を粛清するなど、さらに中央集権化を図りました。

しかし1560年(永禄3年)に尼子晴久が急死。子の「尼子義久」(あまごよしひさ)が当主となりますが、尼子晴久の死を知った安芸国(あきのくに:現在の広島県西部)の「毛利元就」(もうりもとなり)が尼子家の領地への攻勢を強めます。大内家の没落によって急成長した毛利家の侵攻により次々と領地を奪われ、1566年(永禄9年)には尼子義久の居城である月山富田城も落城。尼子義久は降伏し、毛利元就によって幽閉されることとなり、大名としての尼子家は滅亡しました。

出雲国の守護代から成り上がり守護となった戦国大名の典型とも言える尼子家。一時的とはいえ中国地方の覇者にまでなった理由は、西へ東へと常に領地拡大を図る意気軒昂な主君や没落後も再興を信じて逆境に立ち向かい続けた忠義を重んじる家臣達の存在があったからかもしれません。

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山中鹿介幸盛と尼子家再興運動

毛利家の侵攻を受け滅亡した尼子家でしたが、その後も尼子家再興を望む家臣達により、毛利家へ抵抗する動きが興ります。

「山中鹿介幸盛」(やまなかしかのすけゆきもり)ら尼子三傑と呼ばれる家臣団が中心となり、1568年(永禄11年)に出家していた尼子国久の孫「尼子勝久」(あまごかつひさ)を還俗させ擁立、御家再興の旗印としました。山中鹿介幸盛らは3度にわたって抵抗し、3度目となった1577年(天正5年)には、尼子勝久が「織田信長」の家臣として「豊臣秀吉」の中国攻めに従軍します。そこで豊臣秀吉軍が攻め落とした上月城兵庫県佐用郡)に入城し守備を任されることに。

山中鹿介幸盛と毛利輝元の戦い

山中鹿介幸盛と毛利輝元の戦い

しかし、山中鹿介幸盛の守る上月城は、城を奪われた宇喜多家の要請を受け進軍してきた「毛利輝元」(もうりてるもと)の大軍に包囲されてしまい、援軍の派遣が望めないと判断した豊臣秀吉から脱出・撤退の指示を受けます。

山中鹿介幸盛や尼子勝久は豊臣秀吉の指示に従わず抗戦の道を選びますが、毛利輝元に補給路を断たれ兵糧攻めを受けて落城。主君である尼子勝久は自害、山中鹿介幸盛も人質として護送中に暗殺されてしまい、尼子家の再興を目指す勢力は消滅しました。

尼子家ゆかりの刀剣・甲冑

尼子家ゆかりの刀剣甲冑(鎧兜)をご紹介します。

刀剣

兵庫鎖太刀(ひょうごくさりのたち)
兵庫鎖太刀は、尼子晴久が1552年(天文21年)に須佐神社(島根県出雲市)に奉納したとされる日本刀です。

腰に下げる帯執に兵具用の鎖を付け、細部の金物に細かな彫刻と鍍金を施した華麗なが特徴。

現在は重要文化財に指定され、須佐神社に収蔵されています。

兵庫鎖太刀

兵庫鎖太刀

三日月宗近(みかづきむねちか)
三日月宗近は、尼子家の家臣・山中鹿介幸盛が所持していたとされる日本刀です。天下五剣のひとつに数えられ、「三日月」の名前を持つこの刀は、三日月を信仰した山中鹿介幸盛が刀装に三日月を配したことから呼ばれるようになった説があります。

現在は国宝として、東京国立博物館東京都台東区)に収蔵されています。

三日月宗近
三日月宗近
三条
鑑定区分
国宝
刃長
80
所蔵・伝来
足利家 →
徳川秀忠 →
東京国立博物館

刀剣に関する基礎知識をご紹介します。

甲冑

色々糸縅胴丸(いろいろいとおどしどうまる)
色々糸縅胴丸

色々糸縅胴丸

色々糸縅胴丸は、尼子経久が佐太神社(島根県松江市)に奉納したと伝えられる甲冑(鎧兜)です。

前立(兜前部の飾り)は、中央に「天照皇大神宮」、鍬形(左右に広がる前立)には「八幡大菩薩」、「春日大明神」の神号が切透かされていることが大きな特徴です。

現在は国の重要文化財に指定され、島根県立古代出雲歴史博物館(島根県出雲市)に寄託されています。

尼子家を支えた家臣

山中鹿介幸盛(やまなかしかのすけゆきもり)
山中幸盛の甲冑

山中鹿介幸盛の甲冑

山中鹿介幸盛は、尼子義久や尼子勝久に仕え、尼子三傑のひとりとして尼子家再興運動を主導した武将です。

山中鹿介(やまなかしかのすけ)の名でも知られ、三日月を信仰し、再興を目指すにあたって「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈った逸話が有名です。

三日月の前立と鹿角の付いた兜の甲冑(鎧兜)を所用しており、のちの浮世絵でもその姿で描かれています。江戸時代には主君に忠義を尽くす忠臣として取り上げられ、広く知られるようになりました。

立原久綱(たちはらひさつな)
立原久綱は尼子家に仕えた武将で、山中鹿介幸盛と同じく尼子三傑のひとりです。山中鹿介幸盛の叔父にあたり、尼子義久が毛利家に降伏し尼子家が滅亡した際、毛利家から家臣の誘いを受けますが、それを断り山中鹿介幸盛と共に尼子家再興のために尽力しました。

上月城の落城によって毛利家に捕われ人質となりますが、護送途中で脱走。その後は江戸時代まで生き延びました。

尼子家の歴史と武具(刀剣・甲冑)

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