北海道・東北地方の戦国大名

津軽家の歴史と武具(刀剣・甲冑)

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津軽家は元々、大浦の姓を名乗っていました。姓を変えた背景には、従属していた南部家を裏切り、戦国大名へと成り上がったという歴史があります。その後、戦国時代から江戸時代にかけて、その名の通り津軽地方(青森県西部)を治めました。一族の波乱に満ちた歴史とともに、津軽家が愛用した刀剣や甲冑(鎧兜)についてご紹介します。

津軽家の来歴

津軽家の家紋「津軽牡丹」

津軽家の家紋「津軽牡丹」

津軽と名乗る前の姓・大浦家は、鎌倉時代後期の南部家13代当主「南部守行」(なんぶもりゆき)の七男「久慈則信」(くじのりのぶ)の孫、「大浦光信」(おおうらみつのぶ)が初代当主です。

大浦光信は、羽後国(うごのくに:秋田県のうち鹿角市と小坂町を除いた大部分と、山形県の飽海郡、酒田市)の安東家(あんどうけ)の備えとして、「八戸政経」(はちのへまさつね)の指示で津軽地方の鼻和郡種里(はなわぐんたねさと:青森県西津軽郡鯵ヶ沢町種里町)に派遣され、種里城(青森県西津軽郡鯵ヶ沢町種里町)を築城し、大浦家を名乗りました。

そののち、赤石城(青森県西津軽郡鯵ヶ沢町日照田町)を築城し、弟の「一町田信建」(いっちょうだのぶたて)に城を任せます。1502年(文亀2年)には大浦城(青森県弘前市)を築城し、のちに2代当主となる養子「大浦盛信」(おおうらもりのぶ)に守らせました。

大浦盛信が当主に就任して数年後の1533年(天文2年)、南部家家臣「石川高信」(いしかわたかのぶ)が大浦家所有の大光寺城(青森県平川市)を攻め落とし、大浦城に迫るも撃退。その後、南部家と和睦しました。

3代当主「大浦政信」(おおうらまさのぶ)は、1541年(天文10年)、三味線河原の戦いで石川城(青森県弘前市)城主の石川高信不在を機に、石川城近くにある南部家の拠点・和徳城(青森県弘前市)を攻めて城主「小山内満春」(おさないみつはる)を討ち取ります。

しかし、小山内満春の子「小山内永春」(おさないながはる)が小山内満春に加勢し、盛り返され討死。4代当主「大浦為則」(おおうらためのり)は、1532~1555年(天文元年~天文24年)に新たに堀越城(青森県弘前市)を攻め落とし、弟の「大浦守信」(おおうらもりのぶ)に守らせました。

5代当主であり、のちに大浦姓から津軽姓を名乗ることになった「津軽為信」(つがるためのぶ)は、1571年(元亀2年)堀越城から石川城、和徳城を奇襲し、石川高信を自害に追い込み、当時の和徳城主「小山内満安」(おさないみつやす)も討ち取ります。1585年(天正13年)には油川城(青森県青森市)を攻略し、外ヶ浜(青森県東津軽郡)を制圧。1588年(天正16年)には南部家傘下にいた稗貫郡(岩手県中部)の浪岡家を討ち、津軽地方全域をほぼ統一しました。

1589年(天正17年)、「石田三成」を介して「豊臣秀吉」に馬と鷹を献上し、津軽三郡(平賀郡・鼻和郡・田舎郡)ならびに合浦(青森県青森市)の所領を認められます。1590年(天正18年)に近衞家当主「近衛前久」(このえさきひさ)の養子となり、近衛家紋の使用が許され、大浦から津軽に姓を改めました。

一代で成り上がった津軽家。南部家を裏切り独立し、津軽一帯を勢力下に置くなど、世をうまく渡ってきた一族と言われています。江戸時代以後は積極的に政治に携わり、その名を馳せました。

津軽家ゆかりの弘前城

豊臣秀吉

豊臣秀吉

津軽為信は津軽地方の統一を成し遂げたのち、豊臣秀吉から津軽三郡の領有を認められました。4万5千石の領地を得た津軽為信は、1594年(文禄3年)大浦城から堀越城に移り、領地の基礎作りを始めます。

1603年(慶長8年)には徳川幕府の成立とともに外様大名のひとりとして津軽全土の領有を承認され、高岡(青森県弘前市)に新たな町割りを行ない、次々と領地の開拓を進め「高岡城」の築城を計画。

その際、家臣の沼田祐光(ぬまたすけみつ)に兵法、立地、陰陽五行の思想などから検討し、藩政の拠点となる築城の地を決めさせます。そうして選ばれたのが、四方を四神が守護する四神相応の地である高岡でした。

その後、津軽為信は高岡城の完成を見ることなく1607年(慶長12年)に長男「津軽信建」(つがるのぶたけ)のあとを追うように58歳で病没。二男「津軽信堅」(つがるのぶかた)はすでに死亡していたことから、三男「津軽信枚」(つがるのぶひら)が津軽為信の跡を継ぎました。

1609年(慶長14年)にようやく幕府から高岡城の築城許可が下り、2代藩主・津軽信枚が築城に取りかかりました。その翌年には五層の天守閣を構える高岡城が完成し、城下町の建設も進められます。その後も堤防などを築きながら成立した城下町は、1628年(寛永5年)に「高岡」から「弘前」へと改称し、近世都市として歩み始めました。

弘前城

弘前城

現在、弘前城(ひろさきじょう)本丸の石垣は外側に膨らむ「はらみ」がみられ、大地震などが発生した場合、崩落する危険性があると指摘されています。弘前市では2008年(平成20年)から「弘前城跡本丸石垣修理委員会」を組織し検討を重ね、天守真下から本丸東面にかけての一部、約100mと南面の約10mを修理することになりました。

天守は弘前公園有料区域内本丸に位置し、「弘前城史料館」として津軽藩政時代の歴史資料を展示、公開しています。

日本の城 弘前城 YouTube動画

「弘前城」現存12天守

津軽家が愛用した刀剣・甲冑

津軽家が愛用した刀剣甲冑(鎧兜)をご紹介します。

刀剣

津軽正宗(つがるまさむね)
津軽正宗は「相州正宗」(そうしゅうまさむね)作の日本刀で、津軽家に長く伝来したことが刀号の由来。にある「城和泉守」は、「武田信玄」の家臣であった「城和泉守昌茂」(じょういずみのかみまさもち)のことで、彼が所持していたことから「城和泉正宗」(じょういずみまさむね)とも呼ばれています。

桃山時代の刀剣鑑定家である「本阿弥光徳」(ほんあみこうとく)が相州正宗作であると見極め、京都西陣に住む金工家の「埋忠重長」(うめただしげなが)が研ぎ上げて、金象嵌(きんぞうがん)の銘をほどこしました。

形状は、と刃の間にある稜線が棟側に寄った造りである「鎬造り」(しのぎづくり)で、反りはやや高く、細身の刀です。相州上工の作品の特徴である、硬軟2つの地鉄の組み合わせ鍛錬による、異質の鋼が交じって線状に強く光る地景の高い格調と、精気溢れて強く光る美しさがあります。正宗にはそれが顕著であり、津軽正宗が正宗作の中でも名刀であると言われている所以です。

現在は国宝に指定され、東京国立博物館東京都台東区)に収蔵されています。

津軽正宗(城和泉正宗)
津軽正宗(城和泉正宗)
正宗磨上本阿(花押) 城和泉守所持
鑑定区分
国宝
刃長
70.8
所蔵・伝来
城景茂 →
津軽家

甲冑

黒小實勝色縅甲冑(こくしょうじつかちいろおどしかっちゅう)
黒小實勝色縅甲冑

黒小實勝色縅甲冑

黒小實勝色縅甲冑は、津軽信政が着用した甲冑(鎧兜)です。には、金のひげをたくわえた龍頭の前立と、窪みの中に金を埋める「沈金」の技法を施した鹿角の脇立があります。吹返には鍍金の牡丹の丸文金物を据えており、の編み上げは紺色の紐。

大袖と菱縫(ひしぬい)は深い藍色である褐色(かちいろ)で縅していますが、これは褐色の読みが「勝ち」に通じ、縁起が良いためだと言われています。

現在は、高照神社(青森県弘前市)に収蔵されています。

津軽家を支えた家臣・大浦三老

小笠原伊勢(おがさわらいせ)
小笠原伊勢は、「大浦三老」のひとりに数えられる津軽為信が当主に就いたときからの忠心でしたが、1597年(慶長2年)に出家しました。

「いにしえのよろいを今は脱ぎかえて衣一重をとおす矢もなし」という言葉が伝わり、小笠原伊勢本人の心境が詠まれています。出家したのち脱藩を試み、津軽家から齋藤家を渡り、薬王山正伝寺(青森県弘前市)へ住み移りました。

兼平綱則(かねひらつなのり)
兼平綱則は、安土桃山時代から江戸時代にかけて津軽家に仕えました。兼平家は、大浦盛信の弟である「大浦盛純」(おおうらもりすみ)が兼平村(青森県弘前市)を領し、そこに兼平館を構え、兼平を姓としたことに始まりました。

兼平綱則は、和徳城攻め・大光寺城攻めなどの戦いに参陣。大浦三老のひとりとして大浦家に尽力し、数々の武功を挙げます。

森岡信元(もりおかのぶもと)
森岡信元は小笠原伊勢、兼平綱則とともに大浦三老と呼ばれ、津軽家を支えました。1567年(永禄10年)には津軽為信の野崎村軍事演習に参加し、そののち津軽為信の命令で、羽前国の最上義光のもとを訪ねます。

1575年(天正3年)に大光寺城攻めに参加し、泥に馬の足を取られた津軽為信の窮地を救い、その功績を称されて福村城(青森県弘前市)城主を任されました。しかし、関ヶ原の戦いの出陣中に謀反を疑われ、津軽為信の命令で、梶仁右衛門(かじじんえもん)により久渡寺で謀殺されました。

津軽家の歴史と武具(刀剣・甲冑)

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