北海道・東北地方の戦国大名

南部家の歴史と武具(刀剣・甲冑)

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南部家は、鎌倉時代から東北地方の小国・奥州糠部郡(おうしゅうぬかのぶぐん:現在の青森県東部と岩手県北部)に居を構え、戦国時代から江戸時代の動乱期にかけて、勢力を拡大しました。そして、南部藩とも呼ばれる盛岡藩(岩手県中部から青森県東部)を治めるほどの地位を確立していきます。今回は鎌倉時代から明治時代まで、この地を統治してきた南部家の歴史や家臣をはじめ、南部家ゆかりの刀剣や甲冑(鎧兜)についてご紹介します。

南部家の出自

南部家の家紋「南部鶴」

南部家の家紋「南部鶴」

南部家の初代は「南部光行」(なんぶみつゆき)。南部光行は、「源頼朝」とともに鎌倉幕府の創建に貢献した甲斐源氏一族の出身で、平安時代に甲斐国南部領(かいのくになんぶりょう:現在の山梨県南巨摩郡南部町)を治めていたこともあり、「南部」と名乗りはじめました。

その後、源頼朝が奥州征伐で平泉の藤原氏に攻め入った際、南部光行が手柄を立てたことにより、源頼朝から奥州糠部郡(おうしゅうぬかのぶぐん)を拝領。

それ以降、周辺諸国に侵攻し、戦国時代には、その広大さから「三日月の円くなるまで南部領」と詠われるほどに領地を拡大しました。この川柳には、月が三日月の頃に南部領に入っても領地を出るときには満月になってしまう、という意味が込められています。

南部家は鎌倉時代に南部光行が興してから、戦国時代を生き抜き、首尾よく世を渡り、東北地方の名家として明治時代まで繁栄を続けました。その長い歴史と広大な領地の中には、熾烈な後継者争いや内乱がありながらも、天下の時流を見極める目を持つ当主や、一生をかけて主君を支える家臣の活躍がありました。

乱世を駆け抜けた当主達と後継者争い

南部光行が興した南部家は、戦国時代から江戸時代にかけて急激に勢力を拡大させていきました。24代当主「南部晴政」(なんぶはるまさ)の代には、周辺諸国に幾度も攻め入り、現在の青森県岩手県全土と秋田県の北東部を治めるなど領地を広げ、南部家が明治時代まで奥州を統治する礎を築きます。

そんな南部晴政には長らく男児が生まれず、従兄弟関係である南部晴政の叔父「石川高信」(いしかわたかのぶ)の息子、のちに26代当主となる「南部信直」(なんぶのぶなお)を娘婿として迎えて跡取りの座に据えました。ですが、年老いた南部晴政に念願の男児・南部晴継(なんぶはるつぐ)が生まれると、南部晴政は南部信直を疎ましく思うようになります。跡取りの座をめぐり、南部晴政は南部信直を、南部信直は南部晴継を襲撃するように。

そして、南部晴政は家督を13歳の息子・南部晴継に譲りますが、直後に南部晴継は病死とも暗殺とも言われる死を遂げてしまいます。その後、南部信直が当主となるも、暗殺疑惑が付きまとっていたこともあり、南部家の家臣であった「九戸政実」(くのへまさざね)が南部信直の当主就任に納得せず、「九戸政実の乱」を起こします。

しかし、南部信直は「豊臣秀次」(とよとみひでつぐ)らと乱を鎮圧。この期を境に、南部家は豊臣家公認の大名として名を連ねることとなりました。また、27代当主であり盛岡藩初代藩主ともなる「南部利直」(なんぶとしなお)は、豊臣秀吉の没後は徳川方に付き、徳川家康の天下統一に協力。その功績のおかげか、盛岡藩の藩主として同地を治め続けることを許されました。

南部家にゆかりのある刀剣・甲冑

南部家にゆかりの刀剣甲冑(鎧兜)をご紹介します。

刀剣

雉子尾雌雄御太刀拵(きじおしゆうおんたちこしらえ)
雉子尾雌雄御太刀拵

雉子尾雌雄御太刀拵

雉子尾雌雄御太刀拵は、鳥の頭のかたちを柄頭に据えた鳥頸の太刀(とりくびのたち)と呼ばれる太刀拵。柄頭が金製の雉子尾雌御太刀拵と赤銅製の雉子尾雄御太刀拵という、雌雄で1組として扱われています。

室町時代に、14代「南部義政」(なんぶよしまさ)が挙げた功績により、将軍・「足利義教」(あしかがよしのり)から拝領。江戸時代初期に理由は不明ながら焼けて失われたため、現在残っている太刀拵は、1677年(延宝5年)に資料をもとに忠実に復元された複製です。

南部家の所有する宝物を記した「御宝蔵御腰物帳」(ごほうぞうおこしものちょう)において、筆頭に記載されるなど、南部家にとって非常に重要な宝物でもありました。

現在は、岩手県指定有形文化財として、もりおか歴史文化館(岩手県盛岡市)に収蔵されています。

鷹頭御陳太刀拵(たかがしらごじんたちこしらえ)
鷹頭御陳太刀拵は、江戸時代初期に制作されたとされる柄頭に鷹の頭が付いた太刀拵です。を彩る鷹の尾模様や金無垢がふんだんに使用されている細工は、明治時代に作られた目録でも絶賛されるほどのつくり。

江戸時代、金が盛んに産出された盛岡藩ならではの一品で、現在は岩手県指定有形文化財として、花巻市博物館(岩手県花巻市)に収蔵されています。

鳳凰御陳太刀拵(ほうおうごじんたちこしらえ)
鳳凰御陳太刀拵は、33代「南部利視」(なんぶとしみ)が拵えさせた、柄頭に鳳凰の頭が付いた太刀拵。全体に赤銅を多く用いて制作されているのは、雉子尾雌雄御太刀拵にならい、金製の鷹頭御陳太刀拵と対を成す太刀拵であるため。

現在は、岩手県指定有形文化財として花巻市博物館に収蔵されています。

銘濃州之住長俊(めいのうしゅうのじゅうながとし)
銘濃州之住長俊は、28代「南部重直」(なんぶしげなお)が加藤嘉明(かとうよしあき)の娘と結婚する際、加藤家から贈られたです。放下通し(ほうかとおし)とも呼ばれ、南部家の行列の先頭には、この槍が飾られていました。

現在は、岩手県指定有形文化財として、岩手県立博物館(岩手県盛岡市)に収蔵されています。

甲冑

白糸縅褄取鎧(しろいとおどしつまどりよろい)
白糸縅褄取鎧

白糸縅褄取鎧

白糸縅褄取鎧は、南北朝時代の根城南部氏7代「南部信光」(なんぶのぶみつ)が、「後村上天皇」(ごむらかみてんのう)から拝領したと言われている甲冑(鎧兜)です。

「卯の花縅」(うのはなおどし)と呼ばれる技法に代表される、白を基調とした精緻で端正な作りや大きさで、南北朝時代の代表的な甲冑(鎧兜)。

現在は、国宝として櫛引八幡宮(青森県八戸市)に収蔵されています。

黒羅紗地唐獅子牡丹文二枚胴具足(くろらしゃじからじしぼたんもんにまいどうぐそく)
黒羅紗地唐獅子牡丹文二枚胴具足

黒羅紗地唐獅子牡丹文二枚胴具足

黒羅紗地唐獅子牡丹文二枚胴具足は、29代「南部重信」(なんぶしげのぶ)が着用していた甲冑(鎧兜)。

朱・白・緑・浅黄・紺・朽葉(くちば)など、何種類もの色糸を使用してに施された唐獅子牡丹文の刺繍が特徴です。

この甲冑(鎧兜)は南部重信の観賞用に制作され、戦で使用する物ではありませんでした。

現在は岩手県指定有形文化財として、もりおか歴史文化館に収蔵されています。

金小札茶糸縅二枚胴具足(きんこざねちゃいとおどしにまいどうぐそく)
金小札茶糸縅二枚胴具足は、黒羅紗地唐獅子牡丹文二枚胴具足と共に、南部重信が所有していた甲冑(鎧兜)です。1,500枚近い小札すべてに金が塗られた豪華なつくりは、江戸時代初期に金が豊富に産出された盛岡藩ならでは。

現在は、岩手県指定有形文化財として岩手県立博物館に収蔵されています。

紺糸縅最上胴具足(こんいとおどしもがみどうぐそく)
紺糸縅最上胴具足は、32代「南部利幹」(なんぶとしもと)が着用しました。全国有数の鉄鉱石産地である盛岡藩から産出した鉄で制作されたことが記されている、珍しい甲冑(鎧兜)。

現在は、岩手県指定有形文化財として岩手県立博物館に収蔵されています。

卯花縅紅羅紗地唐獅子牡丹文二枚胴具足(うのはなおどしべにらしゃじからじしぼたんぶんにまいどうぐそく)
卯花縅紅羅紗地唐獅子牡丹文二枚胴具足は、35代「南部利正」(なんぶとしまさ)の元服鎧として使用された非常に華麗な装飾が施された甲冑(鎧兜)です。

現在は、岩手県指定有形文化財として岩手県立博物館に収蔵されています。

本小札紺糸毛引縅二枚具足(ほんこざねこんいとけびきおどしにまいぐそく)
本小札紺糸毛引縅二枚具足は、明治維新によって盛岡藩の最後の藩主となった、41代「南部利恭」(なんぶとしゆき)の甲冑(鎧兜)。

明治時代に入ったのち、南部利恭から盛岡八幡宮(岩手県盛岡市)へ奉納され現在に至ります。

鯰尾兜(なまずおのかぶと)
鯰尾兜

鯰尾兜

鯰尾兜は、初代藩主・南部利直が「蒲生氏郷」(がもううじさと)の養娘(むすめ)と結婚した際に、蒲生氏郷から譲り受けたです。

当時、様々な武将によって数多く作られた異形兜の中でも傑出したひとつであり、完存品という点においても貴重な存在。

現在は、岩手県指定有形文化財として岩手県立博物館に収蔵されています。

南部家を支えた家臣

北信愛(きたのぶちか)
北信愛は、戦国時代から江戸時代初期までの南部家当主4代に亘って仕えた家臣です。南部晴政と南部信直の後継者争いの際には南部信直をかくまい、南部信直が家督を継いだあとも南部家の使者として豊臣秀吉を訪ねるなど、南部家の発展に努めました。

南部利直が当主に就任した際、北信愛が隠居を申し出るも認められず、その後も心血を注いで仕え続けるなど、南部信直・南部利直親子から全幅の信頼を置かれた重鎮でした。

石川高信(いしかわたかのぶ)
石川高信は、26代当主・南部信直の実父です。石川城の城主として津軽での南部領の維持に貢献。しかし、南部家からの独立を目論んだ「津軽為信」(つがるためのぶ)の謀反により、城内で自害したとも、城外へ落ち延びたとも言われています。
九戸政実(くのへまさざね)
九戸政実は、南部家の勢力拡大時に南部晴政に仕え、多大な功績を残した優れた武将です。しかし、弟の「九戸実親」(くのへさねちか)が南部信直との家督争いに破れ、それが発端で九戸政実の乱を起こします。反乱の甲斐なく、豊臣秀次率いる軍に鎮圧され処刑されました。

南部家の歴史と武具(刀剣・甲冑)

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津軽家は元々、大浦の姓を名乗っていました。姓を変えた背景には、従属していた南部家を裏切り、戦国大名へと成り上がったという歴史があります。その後、戦国時代から江戸時代にかけて、その名の通り津軽地方(青森県西部)を治めました。一族の波乱に満ちた歴史とともに、津軽家が愛用した刀剣や甲冑(鎧兜)についてご紹介します。

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