歴史上の人物と日本刀

朝香孚彦と靖国刀の靖光

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1876年(明治9年)、明治新政府が発した「廃刀令」によって、それまで「武士の魂」とされていた日本刀の実用品としての需要は衰退。刀匠や金工師、鞘師など日本刀制作にかかわってきた大多数の職人は廃業を余儀なくされるなど、日本刀は「冬の時代」を迎えていました。大正時代に入ると、日本刀の材料である「玉鋼」(たまはがね)を精製する日本古来の「たたら製鉄法」が廃絶。しかし、風前の灯となっていた刀剣文化が息を吹き返しました。そのきっかけは、皮肉にも戦争の拡大。昭和初期、日本が軍国主義の道を進むにつれて、刀剣は「軍人の魂」として、需要が拡大。「日本刀鍛錬会」が創設され、「靖国神社」の境内に鍛錬所が設置されました。そこで制作された軍刀が「靖国刀」です。見た目が美しく、実用性の高い靖国刀は、恩賜刀(天皇から与えられる日本刀)としても用いられました。 ここでは、昭和初期の刀剣をめぐる状況と共に、元皇族で陸軍軍人の「朝香孚彦」(あさかたかひこ:元皇族・朝香宮孚彦王)に贈られた靖国刀「靖光」(やすみつ)についてご紹介します。

陸軍省が発足させた「日本刀鍛錬会」とは?

戦争拡大に伴う上質な軍刀需要の増大

荒木貞夫

荒木貞夫

1933年(昭和8年)、当時の陸軍大臣「荒木貞夫」(あらきさだお)が中心となり、陸海軍将校などの軍刀整備を行なうための財団法人として「日本刀鍛錬会」が組織されました。

その背景には、1931年(昭和6年)に勃発した「満州事変」や翌年の「第1次上海事変」など、戦争が拡大していくのに伴って、武器としての軍刀の需要が急激に高まっていったことがあります。

日本刀鍛錬会の発足時の幹部として顔を並べていたのは、荒木の他、陸軍省軍務局長「山岡重厚」(やまおかしげあつ)、海軍大佐「倉田七郎」(くらたしちろう)らでした。軍政の中心にいた彼らの指揮の下、日本刀鍛錬会は約10年間で8,100振もの靖国刀を制作するなど、昭和初期における刀剣制作の中心地となったのです。

廃刀令をはじめとした明治新政府の「士族解体政策」の影響によって、実用品としての刀剣需要は衰退の一途を辿り、日本刀制作に携わる職人の大多数は廃業。そのため、明治時代以降における日本刀制作は、限られた刀工によって細々と続けられている状態でした。

そして大正時代に入ると、材料となる「玉鋼」を生産する「たたら製鉄法」が廃絶。平安時代から受け継がれてきた日本刀鍛錬の伝承は風前の灯となっていました。そのため、日本刀鍛錬会が発足した当時、主流となっていたのが機械生産の「工業刀」。刀剣をめぐる環境は最悪と言ってもいい状況でした。

もっとも、工業刀の品質は、伝統的な鍛錬法によって制作された日本刀には及びません。戦争が拡大していく中で、必要となるのが殺傷能力の高い武器。「折れず、曲がらず、よく切れる」という特長を有する伝統的な鍛錬法によって制作された日本刀が注目されたのは、自然な流れだったと言えます。

靖国神社境内に設けられた鍛錬所

靖国神社 拝殿正面

靖国神社

日本刀鍛錬会発足の翌年、東京府東京市麹町区(こうじまちく:現在の東京都千代田区)にある靖国神社の境内に、日本刀の鍛錬所を設けることが決定しました。

主任刀匠に命じられた「宮口靖廣」(みやぐちやすひろ)による指導の下、陸軍省建築課技師の「内藤太郎」(ないとうたろう)と「柳井平八」(やないへいはち)の設計によって、境内西端にあった弓道場跡に鍛錬所棟と炭庫1棟を建設。

1933年(昭和8年)2月25日に起工式が行なわれ、同年6月25日には鍛錬所が完成、7月8日には竣工奉告祭と鍛冶始め式が執り行なわれるなど、スピード感を持って計画が実行に移されました。

鍛錬場内には、第1鍛冶場から第5鍛冶場まであり、外観は丸窓を用いた茶室風の「数寄屋造り」を感じさせる和風建築。もっとも、鍛刀の際に水と火を使用するため、建物は鉄筋コンクリート造を採用。鍛錬場で制作された軍刀は、鍛錬場が靖国神社の境内にあったことにちなんで、「靖国刀」と呼ばれていました。

日本刀鍛錬会が靖国神社境内に鍛錬所を設けた経緯について、詳細は不明ですが、1869年(明治2年)に「明治天皇」の意思で創建された靖国神社(創建時の名称は招魂社)が刀剣との結び付きがあることと、かつて日本刀鍛錬が行なわれていた実績もあることからこの場所が選ばれたのではないかと言われています。

1945年(昭和20年)の終戦を機に日本刀鍛錬会が解散すると、鍛錬所は「靖泉荘」(せいせんそう)という名で残されました。そして、1987年(昭和62年)に内部改修が行なわれ、現在は「行雲亭」(こううんてい)という名称で茶室として利用されています。

美しさを備えた軍刀 靖国刀

靖国たたらと備前長船派を目標とした作風

たたら製鉄 玉鋼誕生物語

玉鋼を作る「たたら製鉄」の歴史を動画にてご紹介します。

たたら製鉄(玉鋼誕生物語)

日本刀鍛錬会による靖国刀の制作には、克服すべき課題が残っていました。それが材料の確保。大正時代に、日本刀の材料である玉鋼の生産が途絶えていたためです。

そこで日本刀鍛錬会は、かつて玉鋼の産地として日本一の生産量を誇っていた島根県仁多郡奥出雲町(にたぐんおくいずもまち)にある「安来製鋼所」(やすぎせいこうしょ)に委託して、玉鋼を精錬するための施設である「たたら」を、「靖国たたら」として再興させることを計画します。

靖国たたらでは、50,710㎏もの玉鋼を供給。その後、終戦による中断を経て、1977年(昭和52年)に「公益財団法人 日本美術刀剣保存協会」によって「日刀保たたら」として復活し、現在も操業を続けています。

鍛冶始め式

鍛冶始め式

また、日本刀鍛錬会における刀匠は、主任刀匠を務めていた「相州伝」(そうしゅうでん)を得意とする「笠間一貫斎繋継系宮口靖廣派」(かさまいっかんさいしげつぐけいみやぐちやすひろは)と、「備前伝」を学んだ「横山祐義系梶山靖徳派」(よこやますけよしけいかじやまやすとくは)を筆頭に、各伝の手法を修得した「池田一秀系池田靖光派」(いけだいっしゅうけいいけだやすみつは)の3派によって構成され、刀匠の全員が、陸海軍大臣から「靖」の字を冠とする刀匠名を授与されていました。

日本刀鍛錬会の指導者は、流派の異なる刀匠達に、鎌倉時代における「備前長船派」(びぜんおさふねは)の代表的な刀工である「長光」(ながみつ)や、「景光」(かげみつ)の作風を目標とすることを指示。ただし、軍刀である靖国刀は縦に吊り下げる様式だったため、鎌倉時代のような2尺5、6寸という「太刀」ではなく、一般的には2尺1、2寸というやや小振りな姿だったと言われています。

靖国神社内の鍛錬場で鍛えられた作品はすべて審査にかけられ、陸海軍の現役将官などから甲・乙・丙・不合格の4段階で評価されました。

日本刀鍛錬会創立50年の奉納刀

日本刀鍛錬会では、終戦までのおよそ12年間に、約8,100振の日本刀が制作されました。「目釘穴」(めくぎあな)を開けるための手動ボール盤以外は機械を一切用いず、伝統的な方法で膨大な数の日本刀を制作したと言われています。

終戦と共に作刀が禁止されると、靖国刀匠達は離散しましたが、1954年(昭和29年)、再び作刀することが認められると、靖国刀匠達は各地で活動を再開し、現代刀工として活躍の場を広げていきました。

靖国刀については、敗戦と軍国主義の否定によって評価が分かれていましたが、その歴史背景とは別に、日本刀としての質の高さから、昭和の終わり頃から海外の愛刀家による収集が熱心に行なわれるようになります。

その後、日本における評価も上昇。1981年(昭和56年)には、かつて靖国刀匠として共に作刀していた「島崎靖興」(しまざきやすおき)、「八鍬靖武」(やくわやすたけ)、「大崎靖宗」(おおさきやすむね)、「増田靖要」(ますだやすあき)の4人が再会し、1933年(昭和8年)に発足した日本刀鍛錬会の満50年を記念して、靖国神社に刀を奉納することが決められました。

翌年、境内の鍛錬所に18人の同士が全国から集結し、奉納刀の打ち合わせを行ないました。そして、ちょうど鍛冶始めを行なった日から50年目の1983年(昭和58年)7月8日、31人の同士に見守られながら、合作した刀が松平永芳(まつだいらながよし)靖国神社宮司に手渡され、奉納されたのです。

この奉納刀は、古備前派の刀工「包平」(かねひら)の大太刀「名物大包平」に倣って作刀された1振。1981年(昭和56年)の「新作名刀展」で現代刀匠にとって最高の名誉である「正宗賞」を受賞した八鍬靖武が、上鍛えから焼き入れまでを担当しました。の表には「奉献靖国神社大前、記念日本刀鍛錬會鍛冶始満五十年」の文字と創立者、創立当時の刀匠名が刻まれ、裏には「昭和五十八年癸亥七月八日」と、奉納に携わった刀匠と関係者の名が刻まれています。

朝香宮孚彦王に贈られた軍刀 靖光

靖国刀匠は、陸海軍大学校の成績優秀な卒業生に対して授与された「恩賜刀」(おんしとう)も作刀。審査に合格した作品だけが恩賜刀として認められるため、自身の作品が恩賜刀に選ばれることは、刀匠達にとって名誉なことでもありました。

朝香孚彦

朝香孚彦

今回ご紹介する軍刀は、1940年(昭和15年)に陸軍大学校を卒業した朝香孚彦(あさかたかひこ:元皇族・朝香宮孚彦王)に贈られた恩賜刀で、靖国刀匠を代表する刀工のひとり「池田靖光」によって作刀された1振。

陸軍大学校卒業後に航空兵科に異動した朝香孚彦は、「朝香宮鳩彦王」(あさかのみややすひこおう)の第1皇子「朝香宮孚彦王」(あさかのみやたかひこおう)で、皇族として初めて飛行機の操縦桿を握った人物として知られています。戦後に皇籍を離脱することとなり、東京大学で航空工学を学んだのち、日本航空に就職しました。

作刀した池田靖光は山形県出身の刀工で、1933年(昭和8年)12月15日に日本刀鍛錬会に入会し、刀匠銘「靖光」を授かりました。靖光は「新々刀の祖」と称される「水心子正秀」(すいしんしまさひで)の流れをくむ「池田一秀」の孫。直刃に小足やネズミ足の入った刃文を得意とした刀匠で、日本刀鍛錬会では約1,100振の靖国刀を制作しました。

本刀は、軍刀でありながら唐草文様を金具に刻み、目貫(めぬき)は皇室の御下賜紋である「五三桐」(ごさんぎり)を使用。「」(さや)は黄金に輝く「金梨地」(きんなしじ)が施されており、「」(はばき)には「恩賜」という文字が刻まれています。

刀 銘 靖光
刀 銘 靖光
靖光
昭和十五年
八月吉日
鑑定区分
未鑑定
刃長
66.4
所蔵・伝来
朝香宮孚彦王 →
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

朝香孚彦と靖国刀の靖光

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