名家に代々伝えられた日本刀

京都所司代・板倉家と天秤と称された薙刀

文字サイズ

江戸幕府によって設置された「京都所司代」(きょうとしょしだい)は、京の治安を維持するために置かれた行政機関で、鎌倉幕府の「六波羅探題」(ろくはらたんだい)や室町幕府の「所司代」(しょしだい)を参考に定められた役職です。京都所司代の主な任務は、現代で言うところの裁判官の職務。市中で起こる様々な事件や騒動の解決のために裁判を行なうなど、社会の秩序を維持する重要な役割を果たしていました。ここでは、親子2代で京都所司代を務めた板倉家(いたくらけ)と共に、「板倉重宗」(いたくらしげむね)が所持していた「天秤」(てんびん)の号を持つ「薙刀」(なぎなた)についてご紹介します。

誰もが認める名奉行 板倉勝重

板倉宗家初代・板倉勝重のルーツ

板倉好重

板倉好重

板倉氏のルーツは源氏にあり、「源義家」(みなもとのよしいえ)から5世代下った「足利泰氏」(あしかがやすうじ)の次男「渋川義顕」(しぶかわよしあき)が祖であると言われています。

その後、渋川義顕の子孫が三河国額田郡小美村(みかわのくにぬかたぐんおいむら:現在の愛知県岡崎市)に住み、板倉勝重の父「板倉好重」(いたくらよししげ)が「松平好景」(まつだいらよしかげ)の家臣となりました。

1561年(永禄4年)4月、板倉好重は「善明堤の戦い」(ぜんみょうつつみのたたかい)に参陣し、三河国で「松平元康」(まつだいらもとやす:のちの徳川家康)と争っていた「吉良義昭」(きらよしあき)と交戦した末に戦死。板倉好重には3人の子がおり、次男の板倉勝重は、幼い頃に出家して三河国内の「永安寺」(えいあんじ)で僧侶となっていました。

徳川家康が永安寺にいる板倉勝重の存在を知ったのは、自らに仕えていた板倉好重の3男・板倉定重(いたくらさだしげ)の戦死を受けて板倉家の遺族を調べさせたとき。徳川家康は板倉勝重を迎えるため、家臣を永安寺に送りました。そして板倉勝重は36歳にして還俗。徳川家康に仕えることとなり、僧侶時代の知見をもとに、名奉行として類稀なる才能を発揮していったのです。

なぜ板倉勝重は町奉行に抜擢されたのか?

板倉勝重

板倉勝重

博識で思慮深い人柄を見込まれた板倉勝重は、奉行所での仕事に従事。早くから頭角を現し、裁判に追われ、多忙な日々を送っていました。

板倉勝重は検視(犯罪の有無を明らかにするために行なわれる死体状況の捜査などの刑事手続)を行なう際に、その鋭い観察眼を発揮して事件の真相を解明。度々、同僚達を感嘆させていたと言われています。

例えば、縊死者(いししゃ:縄などで首を絞めて死に至った人)を調べた際に、板倉勝重が他殺を見抜いたときのこと。その理由について上司に問われた板倉勝重の答えはこうでした。「自ら縊(くび)る者と他人が縊って殺された者の違いは、縄目の血の寄り具合で分かる」。

また、殺人事件の検視のために出張した際には「生きた人間を殺したのではなく、屍(しかばね:死体)を斬って工作してある」と報告。その理由を問われると、板倉勝重は「死後に加えた刀痕には内側へ皮が捲れて入るが、存命中に加えた刀痕は外側へ開くので分かる」と答えました。

このように、板倉勝重が刑事裁判実務に造詣が深かったのは、僧侶時代に、古代中国の法令について記した書物などを読んでいたためであると言われています。こうした活躍を受け、徳川家康は板倉勝重に居城としていた「浜松城」下の取り締まりを命じ、その後「駿府城」(すんぷじょう)へ移る際には、板倉勝重を駿府の町奉行に抜擢。さらには江戸に幕府を開いたときにも帯同するなど信頼を深めていきました。

京都所司代としての板倉勝重

1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」後、徳川家康は、自身の長女「亀姫」(かめひめ)を正室に迎えていた「奥平信昌」(おくだいらのぶまさ)を、京都の守護職として京都所司代に任命します。しかし、適任ではないと判断して翌年に罷免。代わって任命したのは、当時、江戸町奉行を務めていた板倉勝重でした。

京都所司代の当時の任務は、第一に禁中(きんちゅう:天皇が住む宮中)の守護と京都の庶政を掌ることと、8ヵ国の裁判。8ヵ国とは、京都に近い山城国(やましろのくに:現在の京都府南部)、大和国(やまとのくに:現在の奈良県)、河内国(かわちのくに:現在の大阪府東部)、和泉国(いずみのくに:現在の大阪府南西部)、摂津国(せっつのくに:現在の大阪府北中部)、兵庫県南東部)の五畿内と、丹波国(たんばのくに:現在の京都府、兵庫県の一部地域)、播磨国(はりまのくに:現在の兵庫県南西部)、近江国(おうみのくに:現在の滋賀県)です。

このように京都所司代は、京とその周辺における行政と司法の全権を掌握していました。自身の娘婿(親族)に代わって大役を任せるほど、徳川家康の板倉勝重に対する評価が高まっていたと言えます。板倉勝重はその期待に応えて手腕を発揮。京の治安維持などに尽力したのです。

正義を貫く人格者!板倉重宗

板倉勝重の後任・板倉重宗の生き方

板倉重宗

板倉重宗

板倉勝重は2代将軍「徳川秀忠」(とくがわひでただ)からも、継続して京都所司代に任じられるなど、19年間に亘って京都所司代を務めました。

1620年(元和6年)に辞職を願い出た板倉勝重は、後任に長男「板倉重宗」(いたくらしげむね)を推挙します。板倉重宗への引き継ぎを済ませた板倉勝重は隠居し、1624年(寛永元年)4月、83歳でこの世を去りました。

父・板倉勝重の後任となった板倉重宗は、1586年(天正14年)に駿府で生まれ、幼い頃から2代将軍・徳川秀忠の「小姓」(こしょう:身分の高い人の側に仕える少年)を勤めていました。「大坂冬の陣・夏の陣」では小姓組頭と歩行衆(かちしゅう)の頭を兼任し、6,000石を拝領。その後、板倉重宗は父の後継として京都所司代に就任する際に、2万7,000石を拝領したことに加え、父の遺領の相続や幕府からの加増によって、石高は最終的に5万石に達しました。

名奉行と称された父と同様に、板倉重宗も京都所司代という大役に適した人格の持ち主。裁判において、板倉重宗は公正かつ慎重に吟味をした上で判決を下すことから、「断獄[だんごく:罪を裁くこと]の神」と称えられます。

また、政務の合間を縫って文人の「石川丈山」(いしかわじょうざん)や、儒学者の「野間三竹」(のまさんちく)、歴史学者の「松永昌三」(まつながしょうぞう)などと交流。彼らの自宅も度々訪れるなど、様々な知識・価値観を吸収していきました。

誓願寺

誓願寺

さらに板倉重宗は、京都誓願寺の僧「安楽庵策伝」(あんらくあんさくでん)の談話が巧みだという噂を聞きつけると、安楽庵策伝を自宅に招いて笑話を聞いていたと言われています。

この笑話を編纂(へんさん)して書物にした「醒酔笑」(せいすいしょう)は、笑話集のさきがけとなり、のちに日本で多くの笑話本が書かれることとなったのです。その後、安楽庵策伝は「落語の祖」と称されました。

板倉重宗は、安楽庵策伝の談話を通じて常識や下情(かじょう:庶民生活の様子)を知り、頓智(とんち)が人の心を動かす大きな力を持っていることを学習したのです。

板倉重宗が行なった「最後の仕事」

1654年(承応3年)、板倉重宗は老齢を理由に30年以上に亘って務めた京都所司代の辞職を願い出ます。そして、後任として江戸から上洛した「牧野親成」(まきのちかしげ)を補佐。このとき、板倉重宗は難題な事案5件について、自らの意見を詳細に書き連ねて牧野親成に引き継ぎました。

その後、牧野親成が所司代となった直後、板倉重宗の意見を素に裁判が行なわれ、民衆は「板倉重宗さえ長きに亘って解決できなかった事件を、次の京都所司代は明白に裁いた」と牧野親成の手腕を称賛したのです。立つ鳥跡を濁さず。板倉重宗らしい最後の仕事だったと言えます。

京都所司代の職を辞した2年後の1656年(明暦2年)4月、板倉重宗は下総国関宿藩(しもふさのくにせきやどはん:現在の千葉県野田市)5万石の藩主になります。そして同年12月1日、71歳でこの世を去りました。

「天秤」の号を持つ板倉重宗の薙刀

板倉重宗が板倉重勝から正式に京都所司代を継承することとなった際、板倉重勝は板倉重宗に「来国光」(らいくにみつ)の日本刀を与えたと言われています。このとき、板倉重勝は板倉重宗に対して改めてこう伝えました。

「人を斬るも斬られるも、また我が身を護るも人の身を護るも、これみな刀の徳である。されども刀は狂人の用も為す物である。そなたの職務の上においては慎んでこの刀を狂人に渡さぬように心得、公事の裁きをせられよ」

板倉重勝は名刀と共に、京都所司代としての心得も伝えようとしたのです。

また、板倉重宗は京都所司代の在職期間中に、摂津国で活躍した刀工「河内守国助」(かわちのかみくにすけ)に注文して制作させた薙刀を所持していました。この薙刀の号は「天秤」。天秤は、司法における公平さの象徴とされており、父・板倉重勝の教えに倣って公明正大な裁判を行なった板倉重宗の様子を表現して、この号が付けられたのではないかと言われています。

本薙刀を鍛えた初代河内守国助は、伊勢国(いせのくに:現在の三重県北中部)出身と伝えられ、新刀の祖と称される「堀川国広」(ほりかわくにひろ)の門人となり、のちに初代「和泉守国貞」(いずみのかみくにさだ)と共に大坂へ移住。大坂新刀界の代表的な刀工となりました。

初代河内守国助は作品数が少なく、堀川一門でも上位に位置付けられている名工。本薙刀は、河内守国助を名乗った直後に制作された作品であると言われています。

薙刀 銘 河内守国助
薙刀 銘 河内守国助
河内守国助
寛永三年二月
吉日
鑑定区分
重要刀剣
刃長
49.6
所蔵・伝来
板倉家→
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

京都所司代・板倉家と天秤と称された薙刀

京都所司代・板倉家と天秤と称された薙刀をSNSでシェアする

「名家に代々伝えられた日本刀」の記事を読む


鍋島家と肥前国住陸奥守忠吉

鍋島家と肥前国住陸奥守忠吉
「特別重要刀剣」に認定されている「刀 銘 肥前国住陸奥守忠吉」は、「佐賀藩」(現在の佐賀県佐賀市)別称「肥前藩」(ひぜんはん)の藩主「鍋島家」に伝来した名刀です。肥前国(ひぜんのくに:現在の佐賀県、長崎県)の戦国大名「龍造寺家」(りゅうぞうじけ)の家臣であった鍋島家は、龍造寺家宗家の断絶後「徳川家康」に認められ、佐賀藩の藩主に就任しました。 特別重要刀剣に認定の刀 銘 肥前国住陸奥守忠吉についてご紹介すると共に、この刀剣を所有していた鍋島家や、江戸時代初期の刀工で「最上大業物」(さいじょうおおわざもの)に列せられる名工「陸奥守忠吉」(むつのかみただよし)についても解説します。

鍋島家と肥前国住陸奥守忠吉

尾張徳川家家老・竹腰家に伝わる名刀

尾張徳川家家老・竹腰家に伝わる名刀
「刀 無銘 伝長義」を所持していたとされるのは、尾張徳川家家老・竹腰家(たけのこしけ)です。竹腰家の初代「竹腰正信」(たけのこしまさのぶ)は、尾張徳川家の初代藩主「徳川義直」(とくがわよしなお)と異父兄弟の関係。竹腰正信と徳川義直は共に成長し、やがて竹腰正信は家老へ、徳川義直は藩主へと大きく躍進していきます。そして、刀 無銘 伝長義を作刀したとされるのは、南北朝時代の刀工「長義」(ながよし/ちょうぎ)。最年少で「正宗十哲」に名を連ねた名工です。竹腰家と刀 無銘 伝長義についてご紹介します。

尾張徳川家家老・竹腰家に伝わる名刀

柳河藩主・立花家と無銘の名刀 国宗

柳河藩主・立花家と無銘の名刀 国宗
「立花宗茂」(たちばなむねしげ)は、筑後国柳河藩(ちくごのくにやながわはん:現在の福岡県柳川市)の藩主を務めた戦国武将。文武に秀で「武士の中の武士」として当時から高い評価を得ていました。しかし、「関ヶ原の戦い」で西軍に与したことで改易処分を受け、一時は放浪の身となってしまいます。そののち、徳川家家臣「本多忠勝」などの協力を得て、再び大名へと返り咲きました。柳河藩主・立花家と無銘の名刀 国宗では、立花宗茂の経歴と共に立花家に伝来した無銘の名刀「国宗」(くにむね)をご紹介します。

柳河藩主・立花家と無銘の名刀 国宗

中島家伝来・鎌倉時代の太刀 吉房

中島家伝来・鎌倉時代の太刀 吉房
「太刀 銘 吉房」は「御番鍛冶」(ごばんかじ)であった刀工「吉房」(よしふさ)によって鎌倉時代に作られ、航空機メーカー「中島飛行機株式会社」(なかじまひこうきかぶしきがいしゃ)で有名な「中島家」にて所持されていた刀剣です。本刀は、第2次世界大戦後に連合国から刀剣を救うきっかけにもなった1振。今回は、そんな本刀を取り巻く歴史について解説すると共に、刀工・吉房と中島家についてご紹介します。

中島家伝来・鎌倉時代の太刀 吉房

久留米藩・有馬家の名刀 繁慶

久留米藩・有馬家の名刀 繁慶
雄大な筑後平野が広がり、九州最大の河川である筑後川が流れる福岡県久留米市。「久留米」という地名の由来には諸説ありますが、久留米藩士が編纂した筑後国(ちくごのくに:現在の福岡県南部)の史書「筑後志」(ちくごし)では、古代日本で「神武天皇」(じんむてんのう)に仕えた「大久米命」(おおくめのみこと)という人物が、大きな「くるくる目」をしていたことから「くるめ」に繋がったのではないかという説が語られています。 ここでは、筑後国久留米藩で約250年間藩主を務めた有馬家と共に、有馬家に伝来した名刀「繁慶」(はんけい)についてご紹介します。

久留米藩・有馬家の名刀 繁慶

石見小笠原家伝来の宗恒

石見小笠原家伝来の宗恒
「石見小笠原家」(いわみおがさわらけ)は、鎌倉時代中期から島根県の石見を拠点として「石見銀山」(いわみぎんざん)という魅惑の山を攻防してきた豪勇な一族です。主を何度も変えながら、猛者揃いの乱世を生き抜きました。今回紹介するのは、石見小笠原家に伝わったという刀剣。ここでは、石見小笠原家にどんな歴史、特徴があるのかをご紹介します。

石見小笠原家伝来の宗恒

日向伊東氏伝来の刀 和泉守国貞

日向伊東氏伝来の刀 和泉守国貞
重要刀剣である本刀「和泉守国貞」(いずみのかみくにさだ)は、日向国飫肥藩(ひゅうがのくにおびはん:現在の宮崎県日南市)の藩主であった「伊東氏」(いとうし/いとううじ)に伝来した刀剣です。国貞の作刀は「大業物」(おおわざもの:特に切れ味の良い日本刀)に列せられており、江戸時代の剣豪達に好まれていました。ここでは、日向伊東氏の歴史と共に、本刀・和泉守国貞がどのような刀剣なのかを解説していきます。

日向伊東氏伝来の刀 和泉守国貞

館林藩秋元家伝来の水心子白熊入道正秀

館林藩秋元家伝来の水心子白熊入道正秀
「秋元家」(あきもとけ)は、「徳川家康」(とくがわいえやす)に仕えた大名です。転封(てんぽう:所領を別の場所に移すこと)を繰り返した秋元家が、最後に所領としたのが上野国館林藩(こうずけのくにたてばやしはん:現在の群馬県館林市)でした。 徳川家と深い縁があったにもかかわらず、幕末は新政府側の一員となった秋元家の歴史とはどのようなものだったのでしょうか。

館林藩秋元家伝来の水心子白熊入道正秀

谷家伝来の薙刀 無銘 長船秀光

谷家伝来の薙刀 無銘 長船秀光
本薙刀の制作者は、備前長船の刀匠であり、「最上大業物鍛冶師」(さいじょうおおわざものかじし)と称えられる「長船秀光」(おさふねひでみつ)。南北朝時代に小反り物(こぞりもの)の代表的な刀工として活動していました。 小反り物とは、長船鍛冶の嫡流(ちゃくりゅう:正統の流派)の「兼光」(かねみつ)や、傍系の「元重」(もとしげ)、「長義」(ながよし/ちょうぎ)に属さない刀工郡のこと。そんな刀鍛冶の手による、特別保存刀剣の薙刀、無銘 長船秀光は「谷家」(たにけ)に伝来しました。 ここでは、「織田信長」(おだのぶなが)や「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)にかかわりのある谷家の歴史や経歴をご紹介するのに合わせて、薙刀 無銘 長船秀光の歴史や特徴もご説明していきます。

谷家伝来の薙刀 無銘 長船秀光

注目ワード
注目ワード