歴代天皇家と刀剣の歴史

草薙剣と皇室の刀剣

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日本の皇族は、「記紀神話」(ききしんわ:「古事記」と「日本書紀」の総称)に登場する「高皇産霊神」(たかみむすびのかみ)を皇祖神(こうそしん:「皇室の祖」と言われる神のこと)とする一族です。記紀神話には、多数の刀剣が登場し、その多くが皇室に伝承されています。
皇位継承の証「三種の神器」のひとつ「草薙剣」(くさなぎのつるぎ:「天叢雲剣」[あめのむらくものつるぎ]とも言われる)や、皇太子に授けられる「壺切御剣」(つぼきりのみつるぎ)を代表とする数々の刀剣。皇室に伝承する刀剣の来歴や伝説をご紹介します。

皇室を代表する神剣 草薙剣

八岐大蛇を退治する須佐之男命

八岐大蛇を退治する須佐之男命

皇室を代表する刀剣と言えば、「草薙剣」(くさなぎのつるぎ)です。草薙剣は、記紀神話(ききしんわ)に登場する神剣(しんけん:神の力が宿った聖なる刀剣)のこと。

記紀神話は、「須佐之男命」(すさのおのみこと)が乱暴狼藉を働いた罪によって、天界の「高天原」(たかまがはら:神々が住まう場所)を追放される場面からはじまります。

追放された須佐之男命は、出雲国(現在の島根県)の斐伊川(ひいがわ)上流「鳥髪」(とりかみ)の地に降り立ち、人を求めてさらに上流を目指しました。

すると、1軒の家に行き着きます。須佐之男命が中を覗き込むと、老夫婦とひとりの娘が泣いていました。須佐之男命は、老夫婦達と次のようにやり取りをします。

「お前達は何者だ。なぜ泣いている。」
「私の名は足名椎(あしなづち)と申します。妻は、手名椎(てなづち)、そして娘は櫛名田比売(くしなだひめ)です。私達には、8人の娘がおりました。しかし、八岐大蛇(やまたのおろち)に7人を食べられてしまったのです。今年もまた、八岐大蛇が来る時期となり、最後の娘を失うことが悲しくて泣いていました。」
「八岐大蛇とは、どのような姿をしているのだ。」
「頭と尾を8つ持ち、8つの谷山に渡るほど大きな体をした大蛇です。人間では、到底敵いません。」
「ならば、神であれば退治できるだろう。私は天神である。強い酒を用意して、8つの容器に入れるが良い。」

須佐之男命はそう言うと、娘・櫛名田比売を櫛の姿に変えて、自身の髪に挿しました。老夫婦が8つの酒を用意したのち、八岐大蛇が現れます。須佐之男命は、八岐大蛇の8つの頭にそれぞれひとつずつ酒を与え、泥酔させました。

そして、眠り込んだ八岐大蛇に向かって「十拳の剣」(とつかのつるぎ)を振り下ろし、その体に何度も斬り付けます。尾のひとつに剣を突き立てたとき、固い何かが邪魔をして刃先が欠けてしまいました。須佐之男命は妙に思い、その尾を細かく切り裂くと、中から1振の太刀が現れます。この剣こそが、のちに草薙剣と呼ばれる太刀です。

草薙剣

草薙剣

草薙剣は、須佐之男命が高天原に献上したため、しばらくは高天原にありましたが、天上世界の神が地上世界を統治する「天孫降臨」(てんそんこうりん)に際して、「天照大御神」(あまてらすおおみかみ)の孫「邇邇芸命」(ににぎのみこと)に授けられたことから、皇統継承の神剣として宮中に安置されました。そののち、「伊勢神宮」へ渡ったと言われています。

草薙剣伝説

日本武尊を窮地から救う

日本武尊

日本武尊

「日本武尊」(やまとたけるのみこと)は、記紀神話に登場する英雄です。草薙剣を佩用した人物として知られており、日本武尊が東国遠征へ向かった時のある逸話が、草薙剣の名称由来となっています。

日本武尊が東国に向かう途中、天照大御神を祭祀とする伊勢神宮に立ち寄った際のこと。日本武尊は、叔母の「倭比売命」(やまとひめのみこと)から秘蔵の神剣、及び「火急の際に開くように」と小さな袋を授けられます。

そののち、ある国に到着したとき、同地の地方長官が大きな野原を指して「この原の真ん中には大きな池があり、大変荒ぶる神が住み着いています。」と告げました。話を聞いた日本武尊は、「退治してやろう。」と勇み、野原へと踏み込みますが、その矢先に地方長官が野原に火を放ちます。実は、地方長官ははじめから日本武尊を謀殺するつもりだったのです。

日本武尊は、叔母から授けられた袋を取り出して、中から「火打ち石」を取り出しました。「これを使って迎え火を起こせば逃げられるのではないか。」と考え、神剣を抜いて周囲の草を薙ぎ払い、日本武尊は火打ち石で迎え火を起こします。この時に草を薙いだ神剣が草薙剣です。

草薙剣はそのあと、尾張国(現在の愛知県西半部)の「熱田神宮」に祀られます。

草薙剣にまつわる逸話

様々な伝説が語られる草薙剣は、たびたび災難に遭っている悲劇の神剣としても有名です。

668年(天智天皇7年)新羅(しらぎ/しんら:現在の朝鮮半島)から来た「道行」(どうぎょう)という仏僧が草薙剣を盗み、朝鮮半島に持ち帰ろうとします。しかし、暴風雨に遮られたことで計画は中止。草薙剣はそののち、無事に熱田神宮へと戻されたと言います。

また、草薙剣は公の場に決して出されることがなかったため、実際の姿形は謎に包まれていました。その姿がはじめて記録されたのは、江戸時代になってからです。「玉籤集」(ぎょくせんしゅう)という神道書には、以下のように記載されています。

「あるとき、熱田神宮に勤めていた数人の神官が、蔵に安置されていた草薙剣を盗み見た。長さは約2尺8寸(約85cm)。刃先は、菖蒲の葉のようで、中ほどにむっくりとした厚みがあり、色は全体的に白い。」

草薙剣を盗み見た神官達はそののち、重病や悪病に罹って病没。真偽は定かではありませんが、神剣を盗み見たことによる祟りではないかと言われています。

皇太子に継承される宝剣 壺切御剣

皇室に伝わる「壺切御剣」(つぼきりのみつるぎ)は、皇太子が立太子された証として授けられる剣です。

壺切御剣が授与されるようになったのは、平安時代初期の893年(寛平5年)のこと。当時の帝「宇多天皇」(うだてんのう)が「敦仁親王」(あつひとしんのう:のちの醍醐天皇)の立太子に際して、刀剣を献上したのがはじまりです。これ以降慣例化され、同剣の継承なしに立太子することは不可能になりました。

そして、そのことを象徴する事件が1016年(長和5年)に起こっています。「三条天皇」が「敦明親王」(あつあきしんのう)を立太子しようとしたところ、左大臣「藤原道長」(ふじわらのみちなが)が「敦明親王は、藤原氏の正統な後継者ではない」という理由で、壺切御剣の献上を拒んだのです。敦明親王は、仕方なく皇太子になることを諦め、宮廷の第一線から身を引きます。天皇の外戚(母方の祖父)として、思う存分権力を行使したい藤原道長にとって、自身と姻戚関係を持たない天皇の誕生は認められなかったのです。

現在、皇居で伝承される壺切御剣は2代目で、初代は1059年(康平2年)の宮廷火災で焼失。2代目の壺切御剣は、「藤原教通」(ふじわらののりみち)が献上した1振です。

なお、現在も皇居に安置されていると言われていますが、当然ながら非公開なので、詳しい形状などは一切分かっていません。

後鳥羽上皇が鍛えた刀剣

「菊」にまつわる逸話

後鳥羽上皇

後鳥羽上皇

「菊御作」(きくのごさく)は、「後鳥羽上皇」が制作に携わった御物(ぎょぶつ)の刀剣。

後鳥羽上皇は、「高倉天皇」の第4皇子として誕生。1183年(寿永2年)に天皇に即位し、1198年(建久9年)「土御門天皇」(つちみかどてんのう)に譲位して上皇となりました。

多芸多才にして芸術家肌であり、和歌と刀剣をこよなく愛した人物として知られています。「新古今和歌集」を編纂した一方で、刀剣制作にも力を注ぎ、「水無瀬神宮」(みなせじんぐう:現在の大阪府三島郡島本町にあった御所)に鍛冶場を設けて、多くの刀剣を制作させました。後鳥羽上皇が同地を鍛冶場に選んだ理由は、豊富な湧出量を誇る井戸があり、刀剣制作に不可欠な水に事欠かない点を評価したためと推察されます。

刀剣制作は、諸国から集められた優秀な刀工が月替わりで担当しました。これを「御番鍛冶」(ごばんかじ)と言います。また、御番鍛冶と共に後鳥羽上皇自身も名刀工「久国」(ひさくに:粟田口[あわたぐち]派の祖「国家」の子)を師として刀剣制作を担当。後鳥羽上皇が自ら鍛えあげた刀剣は、「御所焼」(ごしょやき)、「菊作り」、「菊御作」(きくごさく)などと呼ばれ、宮廷警護に当たる武士達に珍重されました。

なお、「菊」の文字が冠せられている理由は、後鳥羽上皇がことのほか菊を好み、愛用の菊花紋を刀身の(なかご:刀身の中でもに収める部分)に施したため。また、後鳥羽上皇はたびたび菊花紋を使用しており、これが代々の天皇に受け継がれた結果、「菊の御紋」が皇室の紋として定着したと言われています。

小烏丸と鬼丸国綱

小烏丸

皇室にある御物には、それぞれ不思議な伝承が残っているのが特徴のひとつ。御物の太刀「小烏丸」(こがらすまる)も例外ではなく、次のような逸話が伝えられています。

ある日、「桓武天皇」(かんむてんのう)が南殿で朝拝をしていたときのこと。1羽の「八咫鴉」(やたがらす:神の使いと言われる、足が3本あるカラス)がどこからともなく飛来しました。

八咫鴉は、「我は伊勢神宮の遣いなり。」と言うと、どこかへ飛び去ってしまいます。八咫鴉が飛び去るのを見送ったあと、再び地面を見ると1振の太刀が置かれていました。以後、「小烏丸」と名付けられた太刀は、皇室の守護刀として大切にされます。

939年(天慶2年)関東で「平将門」(たいらのまさかど)が挙兵し、「常陸国」(ひたちのくに:現在の茨城県)、「上野国」(こうずけのくに:現在の群馬県)、「下野国」(しもつけのくに:現在の栃木県)の国衙(こくが:政務を司った役所)を襲撃し、「新皇」(しんのう:新たな天皇)を称する事件が起こりました。

朝廷は、平将門の従兄弟にあたる「平貞盛」(たいらのさだもり)に節刀(せっとう:天皇が、出征する将軍に与える指揮刀)として小烏丸を与え、平将門討伐を命じます。平貞盛は、太刀を振るって見事に任務を完了。褒美として小烏丸を拝領し、以後小烏丸は平家に伝わる宝剣となりました。

小烏丸の制作者は、平安時代中期に「日本刀の祖」として知られる刀工「天国」(あまくに)と言われています。「鋒/切先両刃造」(きっさきもろはづくり)と呼ばれる、鋒/切先(きっさき:刀身の先端部分)のみが両刃(もろは)となった独特の造込みをしているのが特徴です。

小烏丸
小烏丸
-
鑑定区分
御物
刃長
63
所蔵・伝来
平貞盛 →
明治天皇
東京国立博物館

大阪城・大阪歴史博物館・石切劔箭神社で刀剣巡りをしよう!
刀剣巡りができる大阪城などに加え、大阪府周辺の地域で刀剣を所蔵・展示している施設も合わせてご紹介します。

鬼丸国綱

鬼丸国綱」(おにまるくにつな)は、「天下五剣」(てんがごけん)のひとつに数えられる御物です。

鎌倉時代中期頃、幕府執権「北条時頼」(ほうじょうときより)は、眠れない日々を送っていました。眠りに就こうとするたびに、小鬼が必ず現れていたずらをしはじめるためです。

加持祈祷(かじきとう:密教におけるお払いのこと)をしても効果はなく、連日の寝不足によって英気も落ちてきた頃のこと。夢枕にひとりの老人が立ち、「私は、粟田口が鍛えた刀剣・国綱の化身である。」と名乗ります。老人は、続けてこう言いました。

「私ならば、お前を悩ませる小鬼を退治することができる。しかし、私の刀身は錆びてしまっているため、から抜くことが敵わない。小鬼を退治してほしければ、私を鞘から抜くが良い。」

北条時頼は、家臣に身を清めさせて、国綱の手入れをさせます。そして、国綱を鞘に収めたまま、壁に立てかけたその晩のこと。突如として轟音が鳴り響き、驚いた北条時頼が音の方を見ると、火鉢が真っ二つに割れており、その傍には鞘から抜けた国綱が転がっていました。そして、火鉢には北条時頼を悩ませていた小鬼の顔が浮かび上がっており、これ以降、小鬼が現れることはなくなったと言います。

国綱の太刀は、この出来事にちなんで「鬼丸」と命名され、のちに足利家の家宝となりました。そして、「豊臣秀吉」や「徳川家」に渡り、最後は皇室秘蔵の刀剣となったのです。

鬼丸国綱
鬼丸国綱
國綱
鑑定区分
御物
刃長
78.2
所蔵・伝来
北条時頼 →
新田義貞 →
斯波高経 →
足利家 →
織田信長 →
豊臣秀吉 →
徳川家康 →
皇室

皇室と刀剣

皇室にはこの他にも、様々な逸話を持つ御物や宝剣があります。

名物籠手切正宗」は、南北朝時代に制作され、明治時代に「前田家」から皇室に献上された打刀。また、同じく前田家から伝来した「吉光」(平野藤四郎)は、鎌倉時代に制作された短刀です。平野藤四郎は、現代においても皇后陛下の枕刀(まくらがたな:枕元に置くお守り刀)として用いられていると言います。

また、皇室では天皇陛下が皇子や皇女に守り刀を下賜する儀式「賜剣の儀」(しけんのぎ)が行なわれていることでも有名。

刀剣は、古来より儀式などに用いられてきましたが、現代でも身近な「お守り」として使用されているのです。

日本の剣~神剣・鉄剣~の紹介動画

日本の剣~神剣・鉄剣~

草薙剣と皇室の刀剣

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大正天皇が手にした個性的な刀剣

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古来、皇室と刀剣は密接なかかわりを持ち、近代では「明治天皇」が愛刀家として最もよく知られています。その跡を継いだ「大正天皇」もまた刀剣を愛してやまない人物でありましたが、生誕時より病弱であり、在位期間も短かったことから、愛刀家の一面については広く知られているとは言えません。そんな大正天皇にゆかりのある刀剣のなかでも、とりわけ個性的な特徴を備えた「流星刀」(りゅうせいとう)と、戦国武将にまつわる逸話を持つ「岡田切」(おかだぎり)を中心に掘り下げ、大正天皇と稀有な刀剣との縁にふれていきます。

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正親町天皇

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第106代「正親町天皇」(おおぎまちてんのう)は、室町時代後期から衰退の一途を辿り、どん底だった朝廷の立て直しに尽力した天皇として知られています。「応仁の乱」以降、下剋上の風潮が蔓延し、全国にあった天皇直轄領は武士の侵略などによって荒廃。正親町天皇も「践祚」(せんそ:先帝の崩御または退位によって即位すること)から即位したことを対外的に示す「即位の礼」を行なうまでに3年を要するなど、朝廷は財政的に逼迫(ひっぱく)していました。そのような状況で、経済的な後ろ盾となっていたのが、ときを同じくして天下統一へとまい進していた「織田信長」。そして、「本能寺の変」で織田信長が没したあとには「豊臣秀吉」が継承します。織田信長、豊臣秀吉による天下統一路線(織豊政権)と歩みを同じくして、朝廷は危機的状況を脱し、権威も回復したのです。

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攘夷の筆頭 孝明天皇と刀剣

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「孝明天皇」(こうめいてんのう)は、激動の幕末維新期、アメリカやヨーロッパ諸国が開国と通商を要求するなか、開国路線を採る徳川幕府に対して攘夷(じょうい)を唱えて譲らず、徳川幕府崩壊のきっかけを作った人物。35歳という若さで病没するまで、国民を守るために生涯を尽くしました。孝明天皇が幕末維新期に果たした役割と、孝明天皇にまつわる刀剣についてご紹介します。

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皇族・公家の飾太刀

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皇族軍人と刀剣

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明治時代から太平洋戦争終結時まで、日本人男性には兵役の義務が課せられていました。この義務は皇族にも適用され、成年男子はすべて軍役に就く必要があったのです。いわゆる「皇族軍人」と呼ばれる人々。日本軍の軍人の腰には、諸外国の軍人が使用していた刀剣とは異なる日本独自の武器「軍刀」が下げられていました。皇族軍人と軍刀の関係についてご紹介します。

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大正天皇が下賜した刀剣

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歴代の天皇は、権力の委任や功績、さらには返礼の意味を込めたりするなどの様々な目的により、臣下に刀剣を下賜していました。123代天皇である「大正天皇」も例外ではなく、大正天皇から下賜されたと伝わる刀剣が2振、現在に至るまで存在しています。ここでは、その2振がどのような刀剣であったのかについて、下賜された人物と共にその全貌をご説明します。

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大正天皇の逸話と刀剣

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近代に入ってから即位された天皇のなかでは、もっとも在位期間が短かった「大正天皇」。そのため日本史上においては、研究対象になるための史料があまりなかったこともあり俗説ばかりが独り歩きし、その真実のお姿は長い間謎に包まれていた部分が多くありました。 しかし近年、この大正天皇が持たれていた意外な一面が次第に明らかになりつつあります。そのなかのひとつが、大正天皇は刀剣を愛してやまない人物であったということ。ここでは、大正天皇と刀剣の関係について紐解きながら、両者にまつわる逸話についてご紹介します。

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昭和天皇による軍刀・靖国刀と菊水刀

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近衛家の名刀

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古代宮廷社会にあって最大の勢力と権勢を誇った藤原北家(ふじわらほっけ)。近衛家はこの藤原北家に連なる日本の名家です。歴代の当主は、朝廷にあって常に要職にありました。明治維新の際に、近衛家は「華族令制定」に伴って公爵に列せられ、明治時代・大正時代・昭和時代前期の日本で大きな役割を果たしています。連綿たる歴史のなかで存在感を発揮してきた名門近衛家は、どのような刀剣を秘蔵していたのでしょうか。

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