戦国三英傑を紐解く

戦国三英傑の特徴と逸話

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戦国時代を象徴する人物と言えば、「織田信長」、「豊臣秀吉」、「徳川家康」の3人です。この時代、多くの武将達が野望を抱いて領土を拡大していきました。その中で、織田信長は天下人という夢間近で「本能寺の変」で倒れます。そして、豊臣秀吉が天下人の座をつかみ、徳川家康は江戸幕府を開いて、265年続いた天下泰平の世を実現させました。また、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康は、「戦国三英傑」(せんごくさんえいけつ)と呼ばれ親しまれています。そもそもなぜこのように呼ばれるようになったのでしょうか。今回は、戦国三英傑と呼ばれるようになった理由や、それぞれの特徴、逸話についてご紹介します。

三英傑と呼ばれる理由

彼らが活躍していた当時、「戦国三英傑」という呼称はありませんでした。3人をひとまとめにして比較する考え方は江戸時代に発したもので、1830~1854年(天保元~安政元年)頃には、彼らを題材にした狂歌や錦絵が流布したと考えられています。

尾張と三河出身の戦国武将

3人が戦国三英傑と呼ばれる理由は、その出自にありました。織田信長豊臣秀吉は尾張、徳川家康は三河の生まれで、ともに現在の愛知県出身。名古屋にゆかりがある人物でした。

この地域を含む中部地方は、「武田信玄」、「今川義元」、「上杉謙信」といった戦国武将達がしのぎを削っていたことで知られています。愛知は「東海道」、「中山道」、「北国街道」が交差する地点だったため、東西の文化や最新情報をいち早く入手できたことが背景にありました。また京に上洛する際の通り道だったことも関係しています。

彼らはそのような地域が輩出した戦国大名で、同じ時代に天下統一路線を推し進めました。これらの共通点が、戦国三英傑の呼び名の由来と言えます。

現代でもまつりが開かれる人気ぶり

名古屋城

名古屋城

3人のお膝元とも言える愛知県名古屋市では、毎年秋に三英傑を主役にした「名古屋まつり」が開催されています。

このまつりでは、名古屋観光に欠かせない名古屋城が無料開放されます。その他、名古屋市営の観光施設も無料、または割引料金で開放されるなど、市を挙げての一大イベントです。

メインで行なわれる郷土英傑行列は、少年鼓笛隊に始まり、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三英傑と、それにまつわる3人の姫達が名古屋の目抜き通りを練り歩く豪華絢爛なパレード。三英傑役と姫役は一般公募で選ばれるため、誰でも参加できるのが魅力。英傑役のOB会があることから、その人気ぶりがうかがえます。

三英傑の性格や特徴をひもとく

現在の愛知県出身であり、天下統一を目指したという共通点のある3人。しかし、その性格は大きく異なっていたと伝えられています。

そんな彼らの性格を端的に表した物として有名なのが、「ホトトギスの句」です。句の続きは、信長は「殺してしまえ」という苛烈さ、秀吉は「鳴かせてみせよう」という策略家ぶり、家康は「鳴くまで待とう」という忍耐強さを表しており、三英傑の性格について、分かりやすく詠んだ句と言えます。

ただし、これは後世において創作された句であり、史実ではないと言われています。

織田信長:殺してしまえ ホトトギス

織田信長

織田信長

「天下布武」を掲げ、尾張の小大名から天下人へもう一歩のところまで駆け上がった織田信長は、気難しい性格の人物でした。「信長公記」によれば、織田信長は幼いころからまげも結わず、派手なひもで髪を結び、腰には縄で「ひょうたん」や「わらじ」をくくり付けるなど、奇抜な服装で町に出ては、柿やウリを食べ歩いていたと言われています。

また、父・織田信秀の葬儀では位牌(いはい)に抹香を投げつけるという奇行に出るなど、周囲からは「大うつけ」と呼ばれていました。「うつけ」とは空っぽという意味で、これが転じて「うつけ者」とは常識から外れた人物を指します。

これらに加えて、家臣の意見にほとんど耳を貸さず、自分に反対する者を容赦なく罰したとされていることから、残虐で非道というのが一般的な織田信長像です。

例えば、織田信長に謀反を起こした「荒木村重」(あらきむらしげ)の一族郎党を皆殺しにしたり、織田信長を暗殺しようとした「杉谷善住坊」(すぎたにぜんじゅぼう)の首を竹のノコギリで切る厳罰に処したりするなど、残虐性を語る逸話に事欠きません。

他方、織田信長は青年期から馬術や弓術、砲術や兵法といったものに熱心で、南蛮渡来の新しい物を好んだり、相手の地位に関係なく話しかけたりといった一面も持ち合わせていました。時に天才とも評される織田信長ですが、常人とは異なる感性の持ち主だったことは確かです。

そんな織田信長を高く評価していたひとりが、宣教師の「ルイス・フロイス」。ルイス・フロイスは、著書「日本史」の中で、織田信長について「まれに見る賢明で優秀な人物」と高く評価しています。

豊臣秀吉:鳴かせてみよう ホトトギス

豊臣秀吉

豊臣秀吉

豊臣秀吉は好奇心が強く、人を上手く味方に付けることができる性格、いわゆる「人たらし」でした。自らの懐で織田信長の草履を温めておいたというエピソードは有名ですが、豊臣秀吉については、史実・創作を含めてこうした逸話が枚挙に暇がありません。このような部分からも、人に気に入られる素質があったことが分かります。

豊臣秀吉は一般的に、小さなことにこだわらない度量の広い人として知られていますが、実際は、狭量で世間の目を気にする部分もありました。そのため、自身の評判が良くなるような盛大な茶会を開催したり、華美な軍装を好んだりしたのです。

もっとも、自分を非難する落書きを見つけた際は、犯人を見つけ出し、鼻や耳を切り落として磔(はりつけ)にするなど残虐な一面もありました。その一方で、心温まるエピソードも残しています。

そんな豊臣秀吉について、ルイス・フロイスは織田信長とは対照的に「悪知恵の働く抜け目のない策略家」と辛口に記しました。

徳川家康:鳴くまで待とう ホトトギス

徳川家康

徳川家康

徳川家康は、忍耐強い性格の持ち主だったと言われています。徳川家康が江戸に幕府を開き、徳川家が日本を統治した江戸時代は、265年もの間続いていく日本史上特筆すべき時代となりました。

まさに戦国時代最高の成功者と言える徳川家康ですが、天下を取った時には59歳。その10年ほどあとにはこの世を去っています。

幼少期の大半を人質として駿府(現在の静岡県)などで過ごした徳川家康は、人質から解放されたのちも辛抱強く実力を蓄え、最終的には武士の最高峰である「征夷大将軍」にまで上り詰めました。このような背景から、徳川家康の忍耐強さを推し量ることができるのです。

また、徳川家康は倹約家でもあったため、家臣が豪華な屋敷を造ることを禁じ、自らも質素な生活を送りました。このような地道で慎重な性格が、彼を天下人へと導いたのです。徳川家康が天下を取れたのは長生きだったからとも言われています。

それぞれの武将のエピソード

ホトトギスの句から読み取ることのできるのは、「織田信長=短気な激情家」、「豊臣秀吉=知略・策略を巡らせる策士」、「徳川家康=忍耐強く粘り強い」タイプの武将だったということ。彼らには、その性格が色濃く反映されたエピソードが残されています。ここでは3人の武将にまつわる逸話をご紹介します。

織田信長の逸話

茶道具

茶道具

様々な物に関心を寄せた織田信長ですが、特に熱心だったのが「茶の湯」です。名だたる茶道具を集めようと「名物狩り」を行なうほどで、特に足利将軍家由縁の物を好んでいたと言われています。これは天下に権威を示すためで、入手した茶道具は、恩賞として家臣らに与えるなど、政治に使われました。

甲斐の攻略で活躍した「滝川一益」は、恩賞として「珠光小茄子」(じゅこうこなすび)という茶器を望みましたが、与えられたのが関東管領の地位と上野一国の加増だったため落胆したと言われています。戦国武将の間における茶道具は、それほど大きな意味を持っていたのです。ただし織田信長の場合は、政治のためだけではなく、純粋に茶の湯を楽しんでいたと考えられています。

また、織田信長は無類の刀剣好きでもありました。様々な日本刀をコレクションしていた織田信長ですが、その中でも有名なエピソードとともに語り継がれているのが、短刀「不動行光」(ふどうゆきみつ)です。

この短刀は織田信長のお気に入りで、酒に酔うと気分よく不動行光について歌っていたと言われています。ある日、「刻鞘[きざみざや:巻鞘に習って刻み目を入れた]の数を言い当てた者にこの刀をやろう」と織田信長が言い出したところ、答えを知っていた小姓「森蘭丸」は口を閉ざしました。その正直さに感心した織田信長は、森蘭丸にこの愛刀を贈ったのです。

不動行光は「本能寺の変」で焼失したと言われていますが、「小笠原忠真」が拝領したという異説もあります。

織田信長由縁の日本刀

短刀  銘  来国光(名物塩河来国光)
短刀 銘 来国光(名物塩河来国光)
来国光
鑑定区分
重要文化財
刃長
25.6
所蔵・伝来
本多美濃守
忠政所持→
本多家伝来→
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

豊臣秀吉の逸話

1583年(天正11年)に近江国伊香郡(滋賀県長浜市)で起こった「賤ヶ岳の戦い」(しずがたけのたたかい)は、豊臣秀吉と「柴田勝家」の戦いとして有名です。豊臣秀吉はこの戦いに勝ち、織田信長の後継者として、天下人への新たな一歩を踏み出しました。

この戦いの最中、豊臣秀吉は農家から大量の笠を購入し、暑さに苦しむ負傷兵達にかぶせて回ったと言われています。このとき、敵味方の区別をしなかったことから、この行為は高く評価されました。また、豊臣秀吉は飼育係の不手際でお気に入りの鶴が逃げた際も、「日本中が自分の庭だから良い」と笑って許すなど、豊臣秀吉の器の大きさを示す逸話も残っています。

豊臣秀吉は、織田信長と同じく刀剣に無類の愛着を持つコレクターでした。豊臣秀吉が収集した名物を記載した刀剣書「紙本墨書刀絵図」(しほんぼくしょとうえず)が記されたほど、刀剣コレクターとして知られています。

その中には、他の武将に所望して入手した日本刀も収録されており、そのひとつが「粟田口藤四郎吉光」作の「骨喰藤四郎」(ほねばみとうしろう)です。この刀はもともと「薙刀」(なぎなた)でしたが、戦国期に磨上げられ「太刀」になりました。

来歴には諸説ありますが、「大友貞宗」が忠誠の証しとして足利将軍家に献上し、「鬼丸国綱」(おにまるくにつな)、「大典太光世」(おおてんたみつよ)などと共に、将軍家の重宝になったと言われています。その後、将軍「足利義輝」を討った「松永久秀」が入手し、「大友宗麟」が返還を求めたため、大友家へ戻りました。

その後、豊臣秀吉の所望により献上されたため、この太刀は豊臣家に伝来。「大坂夏の陣」ののちは徳川家に渡りましたが、明治期からは豊国神社で所蔵されています。

豊臣秀吉由縁の日本刀

短刀  銘  備州長船住長義
短刀 銘 備州長船住長義
表:備州長船
住長義
裏:正平十五年
五月日
鑑定区分
重要文化財
刃長
27.7
所蔵・伝来
豊臣秀吉→
前田利家→
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

徳川家康の逸話

徳川家康の趣味の中でも有名なのが、「薬作り」です。健康志向で麦飯や魚など、質素な食事を好んでいた徳川家康は、生薬にも精通していました。その知識はかなりのもので、中国の薬学書「本草綱目」(ほんぞうこうもく)や「和剤局方」(わざいきょくほう)も読み込んでいたと言われています。1607年(慶長12年)からは本草研究も行なっていたとされており、これが幕府の薬園開設にもつながりました。

徳川家康は、1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」で、負傷した兵士にせっけんを使わせて感染症予防を行なっています。また自身が致命傷を負ったときも、侍医の判断ではなく自己治療を優先しました。徳川家康はそれだけ自分の知識に自信があったのです。

江戸時代、徳川将軍家にまつわる数多くの逸話を残した日本刀があります。それが妖刀伝説でお馴染みの「村正」です。

村正は持ち主や周囲の人間に災厄をもたらす刀で、徳川家康の祖父・父・息子らが村正の被害を受けたと言われています。徳川家康の祖父、「松平清康」は家臣によって村正で斬られ、父「松平広忠」も家臣に村正の「脇差」で刺され、嫡男「松平信康」が自害する際の介錯に使用した刀も村正でした。そのため徳川家康が徳川家に災いをもたらす日本刀として、村正を禁じたという逸話があります。

もっとも、これは後世の創作だとする説が有力。ただし1800年代に成立した幕府の正史「御実紀」(ごじっき)にも妖刀村正伝説が記載されており、当時から有名だったことがうかがえるのです。

このような伝説が生まれた背景として、村正が「妖しい魅力のある日本刀」だったことが挙げられます。村正は切れ味が鋭く、当時もっとも評価されていた実戦刀でした。そのため、天下人である徳川家康から「真田信繁/真田幸村」などの戦国武将、上級武士に至るまで幅広く愛用されていたのです。

徳川家康由縁の日本刀

刀  銘 (葵紋)於武州江戸越前康継 以南蛮鉄末世宝二胴 本多五郎右衛門所持
刀 銘 (葵紋)於武州江戸越前康継 以南蛮鉄末世宝二胴 本多五郎右衛門所持
於武州
江戸越前康継
以南蛮鉄末世宝二胴 本多五郎右衛門所持
鑑定区分
重要美術品
刃長
72.6
所蔵・伝来
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

まとめ

織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の3人は、日本史を語る上では欠かせない存在です。彼らをモチーフにした作品は、映画やゲームなど様々な分野で制作されています。戦国武将として群雄割拠の時代を勝ち抜いたことから、その戦略や統率力はビジネスの世界でも注目されるほどです。

当時、全国には彼ら以外にも多くの優れた武将がいました。それでもこの3人が圧倒的に名をとどろかせたのは、他の武将たちにはない傑出した魅力や、天下人としての資質があったからです。

織田信長はいち早く西洋文化(南蛮文化)を取り入れ、豊臣秀吉は当時の琉球王国とつながりを持ち、徳川家康は当時世界最強と言われたスペインと外交関係を築いていました。文化的な側面からみても、3人それぞれ、その功績は偉大です。彼らは戦国三英傑の呼び名にふさわしい人物だと言えるのです。

戦国三英傑の特徴と逸話

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