武道に見る武士の文化

大相撲の起源と武士

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屈強な体格の力士が、土俵のなかで激闘を繰り広げる相撲。そんな相撲の歴史に武士がかかわっているのはご存知ですか。当時の武士は相撲を鍛錬として嗜んでおり、なかでも戦国武将の織田信長は、城に1,500人の力士を集めて試合見物をするほどの相撲好きでした。意外にも武士とかかわりが深い相撲の起源や、相撲と刀剣・日本刀の関係についてご紹介します。

相撲の起源

大相撲を語る上で、相撲道という言葉がよく用いられます。道と言うからには、武士道と関係があるように聞き取れますが、相撲の起源や、歴史の中の武士とどのようなかかわりがあるのでしょうか。

野見宿禰と當麻蹶速

野見宿禰と當麻蹶速

相撲の起源は、「日本書紀」に記載されている紀元前23年(垂仁天皇7年)に、野見宿禰(のみのすくね)と當麻蹶速(たいまのけはや)が天皇の前で力比べをしたことが起源。

この戦いは、野見宿禰が相手を絶命するまで執拗に攻撃を加えていることから、相撲というよりは死闘をもって力比べをしたにすぎませんが、この2人が相撲の始祖とされています。

このあとに、相撲を取る人間は、地の邪気を祓い清める四股を踏む行為によって、神事と深くかかわっていくのです。

武士の鍛錬としての相撲

相撲には神事としての歴史と、肉体の鍛錬のための歴史があります。肉体の鍛錬のための相撲は、792年(延暦11年)の健児(こんでい)の制から始まって、徴兵制を推し進めるため、相撲が選抜競技とされました。

武技として相撲を積極的に取り入れたのは、武士中心の社会へと変わった保元・平治の乱(1156・1159年)からになり、武士の実戦技術として相撲が根付いていきます。

武家として相撲を好んだのは源頼朝でした。源氏の守護神社である鶴岡八幡宮にたびたび相撲を奉納して上覧(天皇や将軍など身分の高い人がご覧になること)もしていました。

鎌倉時代以降は、相撲が余興という色合いからは離れていき、武家の鍛錬として受け継がれていったのです。ここから武家相撲が始まっていると言われています。武家相撲の場合は、余興というよりも、闘争心溢れる男らしいパワーを共有していたのでしょう。 戦国武将もことのほか相撲を好みました。屈強な力士達を実践力として武将達が競って召し抱えていったのです。

ことに織田信長は大変相撲を好んだことが知られています。上覧相撲はたびたび行なわれていましたが、大規模なものでは、安土城下に1,500人を集めた上覧相撲もありました。

  • 織田信長

    織田信長

  • 安土城 天主閣跡

    安土城 天主閣跡

勝った強い力士に褒美を与え、召し抱えもしていました。戦国の世において、男らしく強い者こそが求められていたのです。 天下泰平の徳川の時代には、相撲好きの大名が武士として相撲取りをお抱えにし、スポンサーとなって江戸時代の相撲の歴史を支えていきました。

勧進相撲で芸能化した相撲

宮中行事としての相撲節会(すまひのせちえ)は12世紀後半には廃れますが、相撲を生業とした相撲取り達は活躍の場を移して歴史を繋げていきます。

鎌倉時代に入ると、寺社や橋の建立のために寄付を募る勧進(かんじん)と言われる行為が盛んに。本来は仏教布教の活動行為を言いますが、室町時代には芸能を催して、見物料を取ることを勧進興行と言うようになります。

相撲もこの勧進の一環として、最初は寺社仏閣の寄付金集めのために勧進相撲をしていましたが、やはり相撲も、見物料を取る芸能のような立ち位置になっていったのです。戦国時代には、様々な形式での相撲が催されます。戦国武将に召し抱えられる相撲取りもいれば、興行で収入を得る相撲取りとして活躍する人もいました。

横綱の「誇り」としての日本刀

徳川家斉

徳川家斉

江戸時代初期には相撲興行が娯楽として盛んになります。

その発展に貢献したのは、第11代将軍・徳川家斉(とくがわいえなり)でした。

大衆娯楽に興味があった徳川家斉は、相撲も好み、上覧相撲を5回開催しています。現在の大相撲の原型は、徳川家斉の相撲好きから発展を遂げたと言えるでしょう。

なかでも、力のある力士は兵(つわもの=強者)の象徴として、大名に召し抱えられ「武士」の身分と帯刀を許されました。相撲の世界において太刀は、力士の地位や誇りを示す象徴として重要な役割を持っていたのです。

また、江戸時代前半(1650年頃)には最高位である「横綱」の地位が確立されましたが、彼らに与えられた太刀の中には、当時の名だたる刀匠によって制作され、造もいわゆる「大名ごしらえ」と呼ばれる絢爛華美な物が多かったと言います。この流れは以降も連綿と続き、現代でも大相撲の横綱土俵入りの際に華やかさと、凛とした厳かな緊張感を添えています。

2017年に大阪歴史博物館の「大相撲と日本刀」展に出展されたこともある第69代横綱・白鵬関が所有する太刀は、奈良県の重要無形文化財保持者である月山貞利氏(がっさんさだとしし)の作で月山派の独特な地肌と一直線の刃文が見事なできばえの太刀です。また「」も金梨子地塗三つ葵紋蒔絵太刀拵(きんなしじちぬりみつあおいもんまきえたちごしらえ)と、まさに大名ごしらえの1振となっています。

さて、この横綱土俵入りは、行司・露払い(横綱を先導する役)・横綱・太刀持ちの順に入場します。太刀持ちの力士は横綱と同部屋か一門で関脇以下の力士のうち、最も番付の高い力士が務めます(過去には横綱大鵬の太刀持ちを大関の大麒麟が努めた例もありました)。また、部屋が異なる場合は、横綱と対戦する日もありますが、その場合には番付の序列で2番目の力士が交代します。

つまり、太刀持ちは、土俵入りにおいて横綱に次ぐ格式を有することになります。このことからも大相撲において太刀がいかに神聖で大切に扱われているかを知ることができます。

行司の「覚悟」を示す脇指

大相撲と刀剣・日本刀と言えば、もうひとつ忘れてはいけないのが、行司の持つ「脇指」です。

脇指も横綱の太刀と同様に、すべての行司が身に付けられる訳ではありません。行司にも力士と同様に番付があり、横綱にあたる最高位が立行司(たてぎょうじ)、以下、三役、幕内、十枚目(十両)、幕下、三段目、序二段、序ノ口と分かれ、最高位の立行司だけに帯刀が許されています。

また、立行司には代々引き継がれている名跡があり「木村庄之助」(きむらしょうのすけ)と「式守伊之助」(しきもりいのすけ)がそれにあたります。立行司は、結びの一番を裁き、その扱いも横綱と同格です。さらに木村庄之助と式守伊之助の2人という定員があるため脇指を身に付けられる行司も2人のみとなります。

そしてこの脇指には横綱、大関の重要な相撲を裁くため、差し違えたときは切腹するという、行司の覚悟を示す意味があります。ただし、実際に差し違えにより切腹した行司は、過去から現在に至るまでひとりもいませんので、これからも安心して相撲観戦をお楽しみ下さい。

相撲の風習や暗黙の了解

土俵

土俵

大相撲には相撲界どころか、国民にさえも一般常識として受け入れられている、暗黙の了解があります。

土俵が女人禁制なのはよく知られているところですが、これは、血(月経)が穢れであるという神道の考えからきており、土俵が四神に守られている神聖な場所であるためです。

女性が力士として土俵に上がれないのはもちろん、優勝者へ賜杯を渡す行為さえ認められていません。女性大臣が相撲協会から賜杯授与の役目を拒否されたのは記憶に新しいところ。相撲の歴史は男の闘いの歴史であり、男らしくあるべき姿の伝統を受け継いでいるのです。

横綱の存在には特に暗黙の了解が多くあります。強さと共に品格も求められ、素行が悪いと横綱審議会から注意され、国民からもバッシングを受けることも。 これは相撲が、スポーツではなく国技であるということと関連しています。日本の伝統を受け継ぐ体現者は、高い人徳もかね備えていなくてはならないというのが、暗黙の了解となっています。

また、15戦中8勝以上の勝ち越しが求められていて、優勝争いにも絡んでいないといけないプレッシャーも常にあるのです。負け越したら引退とよく言われていますが、引退していない横綱もなかにはいます。勝ち続ける強さと引き際の美学を求めるところは、男らしくかつ武士道的な要素が含まれているのです。

勝ってもガッツポーズをしたり、勝ち誇ったりしてはいけない風習は武道と同じです。武道の代表である剣道や柔道でもガッツポーズをしてはいけません。やはり相撲も武道のひとつなのでしょう。相撲道という考え方は、世界に誇る日本の武士道の流れから派生していると言えます。

現代の相撲

現在の大相撲における様式の原型は、江戸時代の風習そのままを受け継いでいます。髷(まげ)や着物など、日常生活でさえ江戸時代の風習のままです。

外国人力士が増えても、伝統や風習は何ひとつ変えていません。外国人力士が日本の伝統を受け継いでいるのです。品格が求められるのも、日本人の精神、武士道を受け継いでいるのでしょう。

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