日本刀の歴史

栗原彦三郎 現代刀保存の立役者

文字サイズ

日本の歴史上、日本刀文化は2度、存続の危機に立たされています。1度目は明治維新に伴う「廃刀令」の布告で、2度目が太平洋戦争後、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が行なった「昭和の刀狩り」でした。
それらの危機において、大きな役割を担ったのが「栗原彦三郎」(くりはらひこさぶろう)です。ここでは、日本刀の復興に生涯を捧げた栗原彦三郎の生き様について、日本刀とのかかわりを中心にご紹介します。

栗原彦三郎とは

田中正造との出会い

栗原彦三郎

栗原彦三郎

栗原彦三郎は、1879年(明治12年)に栃木県阿蘇郡閑馬の里(現在の佐野市)で生まれました。

旧家の次男として、祖母や父の薫陶(くんとう:人格・品位のある人からの影響によって、人格が磨かれること)を受けて成長したこともあり、幼くして政治に興味を抱いていたとも言われています。

それが表出したのは栗原彦三郎が数え年で10歳のことでした。当時、栃木県議会議員を務めていた「田中正造」(たなかしょうぞう)を訪ね、「弟子入り」を志願したのです。

突然の小さな訪問者に、田中正造が発したのは、「わざわざおいでくだされたのは、何のご用かな」という言葉でした。これに対して栗原彦三郎少年は、「おじさんの子どもになりたくて来ました」と答えたと言われています。

さらに「わしには、田んぼも金もわずかしかないが…」と続けた田中正造に対して、少年は「僕は、おじさんの養子になって、魂を譲ってもらいます」と返したのです。こうしたやり取りの3年後、栗原彦三郎は、田中正造を頼って出奔(しゅっぽん:逃げ出して行方をくらますこと)します。東京で学ぶことを志した結果でした。

このときは、一旦、帰郷するように諌められて従いましたが、翌年、再度上京。

田中正造と共に「大隈重信」(おおくましげのぶ)を訪ねると、大隈重信邸に寄食(きしょく:他人の家に身を寄せて世話を受けること)することを決めたのです。

念願だった東京での遊学を始めた栗原彦三郎が学んだのは「東京英和学校」(現在の青山学院)。同校で学んでいた1896年(明治29年)秋、郷里・栃木県で大事件が発生します。「渡良瀬川」(わたらせがわ)の洪水によって、流域一帯に「足尾銅山」(あしおどうざん)の鉱毒被害が発生したのです。

「足尾銅山鉱毒事件」と言えば、田中正造の活躍が知られています。田中正造は、衆議院議員を辞職し、「明治天皇」に足尾銅山における現状の直訴を試みるなど、被害者の救済運動に奔走。

最終的には、強制的に廃村となり、「藤岡町」(ふじおかちょう)に編入されていた谷中村(やなかむら:現在の栃木県栃木市)に移住しました。一連の鉱毒被害救済運動の初期段階において、栗原彦三郎は、田中正造に影のように寄り添って活動していたと言われています。

2人の関係は、田中正造が谷中村に移住したあとは疎遠になりましたが、田中正造の存在が、政治家・栗原彦三郎の「礎」(いしずえ)となったことに変わりありません。

政治家・栗原彦三郎

1913年(大正2年)、田中正造がこの世を去ります。享年71歳。入れ替わるように、栗原彦三郎の政治的な動きが活発になりました。

1917年(大正6年)に設立された「中外新論社」が発行する月刊誌「中外新論」を中心に、自らの考えを積極的に発信するようになります。

1922年(大正11年)には、いわゆる「普通選挙法」の審議中だった衆議院の議場に、傍聴席から蛇が投げ込まれるという前代未聞の事件が発生。

栗原彦三郎は、その主犯として懲役3ヵ月の実刑判決を受けて収監されたのです。1923年(大正12年)の「関東大震災」発生時、栗原彦三郎は、刑務所のなかにいたと言われています。

その後、赤坂区議、東京市議を務めた栗原彦三郎が国政に打って出たのは、1928年(昭和3年)2月の第16回衆議院議員総選挙でした。初の「普通選挙」として実施されたこの選挙に、栃木2区から出馬した栗原彦三郎は、「立憲民政党」から公認はおろか、推薦すらも得ることができず、非公認という立場でしたが、当選を果たします(のちに立憲民政党に所属)。

足尾銅山坑道

足尾銅山坑道

代議士となった栗原彦三郎の「初仕事」は、第55回帝国議会初日の4月23日に行なった「足尾銅山鉱毒に関スル質問主意書」の提出。足尾銅山鉱毒被害についての質問を投げかける「主意書」については、栗原彦三郎によって、ことあるごとに衆議院に提出されました。

国政の場において、故郷・栃木の窮状を訴えかける。この点において、栗原彦三郎は田中正造の後継者であったと言えるのです。

栗原彦三郎は、初当選を果たしたあとの第17、18回の衆議院議員総選挙においても当選。3期連続で衆議院議員を務めました。

しかし、1936年(昭和11年)2月に行なわれた第19回衆議院議員総選挙では、「国民同盟」の公認候補として栃木2区から立候補したものの落選。

これを機に、政界を離れることを決断した栗原彦三郎は、議員活動と並行して行なっていた日本刀の復興事業に傾注(けいちゅう:ひとつのことに力を注ぐこと)していきます。

政治をテコにして日本刀を再興するという、大隈重信の助言を容れた栗原彦三郎は、代議士として活動する一方で、日本刀の世界でも人脈を構築。

こうした積み重ねによって、栗原彦三郎の刀剣界における影響力は格段に増大し、より幅広い支援を得られる状況となっていました。

栗原彦三郎と日本刀

日本刀鍛錬伝習所の設立

栗原彦三郎と、日本刀のかかわりは、栗原彦三郎の少年時代にさかのぼると言われています。

1893年(明治26年)に父「栗原喜蔵」が、刀匠の3代「稲垣将応」(いながきまさのり)、及びその一族を栃木県内の自宅に招き、「日本刀鍛錬所」を開設。この原体験が基となり、1907年(明治40年)3月に栗原彦三郎は>東京都内に最初の伝習所となる「日本刀伝習所」を興します。

もっとも、明治新政府による廃刀令以降、日本刀需要が冷え込んだことで、刀匠が激減しているなど、当時の刀剣界は逆風の真っ只中。簡単にはいきません。

この伝習所はわずか2年ほどで閉鎖となり、その後も2度再興を試みましたが、いずれも閉鎖に追い込まれるなど、日本刀復興への道は険しいものとなっていました。

日本刀鍛錬伝習所

日本刀鍛錬伝習所

そんななか、1933年(昭和8年)7月5日、栗原彦三郎は、東京・赤坂の自宅敷地に「日本刀鍛錬伝習所」を開設します。当時、栗原彦三郎は衆議院議員3期目の任期中。前述した3度の失敗からの「4度目の正直」を目指したのです。

栗原彦三郎主催の日本刀鍛錬伝習所が開設された3日後、陸軍の全面的な支援の下で「財団法人 日本刀鍛錬会」の鍛錬場竣工奉告祭が「靖国神社」で行なわれました。戦争が深まっていくなか、くしくも2つの日本刀鍛錬場が誕生したのです。

靖国神社の境内に設置された、日本刀鍛錬会による鍛錬場は、そこで養成された「靖国刀匠」らによって、陸軍向けの軍刀制作を行なうことが主な任務。言わば武器を製造する拠点でした。

これに対し、日本刀鍛錬伝習所の主目的は、日本刀復興を担う刀匠の養成。「伝習所」の3文字には、栗原彦三郎が抱いていた日本刀復興に向けた、刀匠を育成するという信念が表れていると言えます。

そのため、意欲のある者に対しては門戸を開き、ときには私財を投じて伝習所の経営が行なわれました。後述する「日本刀学院」を合わせると、ここから巣立っていった刀匠の数は、150人を下らないと言われています。

帝国美術院展覧会における日本刀

日本刀鍛錬伝習所の開設に続いて、日本刀の復興に向けた取り組みは、1933年(昭和8年)12月の衆議院に対する「帝展第四部ニ刀剣追加ニ関スル建議案」提出でした。

「帝展」とは「帝国美術院展覧会」の略称で、1907年(明治40年)に創設された「文部省美術展覧会」を敬称する唯一の官展(かんてん:政府主催の美術展覧会)。それぞれの分野の登竜門として、最も高い権威を誇っていました。

その第4部(美術工芸の部)への出品が認められれば、日本刀が美術品として認知度を上昇させることは確実。そうすることで、すそのが広がり、刀匠のレベルも上がっていくことが期待されていたのです。

栗原彦三郎による建議案は、翌年3月に衆議院で可決。これにより、同年11月の「第15回帝国美術院展覧会」の出品対象に、日本刀が追加されたのです。もっとも、展示方法の不手際や審査の不透明性などもあり、帝展における日本刀出品は、必ずしも成功裏に終わったとは言えませんでした。

加えて、文部省(現在の文部科学省)による帝国美術院改組の方針などもあり、帝展への日本刀の出品自体は、1回で終わってしまいます。ただ、低迷していた刀剣界が、新たな1歩を踏み出したことに変わりありません。

大日本刀匠協会の結成

日本刀の帝展への出品が認められたことで、何らかの事情によって日本刀制作を休止していた刀匠が日本刀制作を再開するなど、潜在的な刀匠の数が相当数に上っていたことが確認できたと言われています。

そこで栗原彦三郎は、次なる策を打ち出しました。それが「大日本刀匠協会」の設立です。前述した帝展における日本刀の扱いは、刀匠たちにとっては決して納得いくものではありませんでした。

そのため、逆境下にあった刀匠をはじめとした刀剣関係者を結集して、組織化することで、日本刀にまつわる人々の地位向上が期待されていたのです。

大日本刀匠協会が正式に設立されたのは、1935年(昭和10年)6月。同時期に東京都内において「新作日本刀大共進会」が開催されています。

その5ヵ月前には、協会によって「昭和の御番鍛冶」構想が発表されました。「御番鍛冶」とは、鎌倉時代に「後鳥羽上皇」(ごとばじょうこう)によって組成された、1ヵ月交代で後鳥羽上皇の下で鍛刀に勤しんだ選りすぐりの刀鍛冶集団のこと。

当代を代表する刀匠の手で制作された日本刀奉献(ほうけん:神仏や目上の人に献上すること)する制度を設計したことからも、栗原彦三郎が日本刀を単なる武器であるとは見ていなかったことが分かるのです。

大日本刀匠協会の本部は、前述した日本刀鍛錬伝習所に設置されます。会員は刀匠に限られず、「研磨師」、「鞘師」(さやし)などの職人はもちろん、日本刀の売買などを行なう「刀剣商」など、日本刀にまつわる、ありとあらゆる人が含まれました。

協会は、1935年(昭和10年)の第1回を皮切りに、8度に亘って「新作日本刀展覧会」を主催(文部省後援)。そこでの入賞が刀匠たちの目標となったのです。

新作日本刀展覧会については、「賞を乱発しすぎる」という批判の声もありましたが、栗原彦三郎は「刀匠1,000人を養成することを念願しており、たとえ非難を受けようとも、最も良い方法であると信じる」と述べ、刀剣界の復興に向けて並々ならない意欲を示しました。

新作日本刀展覧会への出品数は、年を追うごとに増加。なかでも新人の数が目立って多かったと言われています。さらに、「大日本刀匠協会」という組織ができたことで、地方の刀匠が中央からの技術指導を受け、独学では身に付けることが難しい技術を習得し、追求することが可能になりました。

こうした刀匠間での切磋琢磨によって、日本刀の制作技術は著しく向上します。栗原彦三郎の建議によって、日本刀の帝展への出品が可能となってから、終戦までは11年。このわずかな期間で、危機的な状況にあった日本刀は、質的な面においても、大きく復興を遂げたと言えるのです。

  • 皇室・公家に関連する刀剣の歴史などをご紹介します。

  • 皇室・公家に関連する刀剣の歴史などをご紹介します。

鍛刀報国

軍刀修理団

軍刀修理団

栗原彦三郎と日本刀のかかわりについて語るとき、軍刀制作・修理事業を外すことはできません。

1937年(昭和12年)に「日中戦争」が勃発すると、栗原彦三郎は、「軍刀修理団」を結成して大陸に赴くなど、その動きは迅速で積極的でした。

それだけではなく、幾度となく自作の日本刀を軍刀として提供。さらには、全国の刀匠に軍刀の増産を呼びかけています。

そのため、栗原彦三郎は軍刀制作に積極的だったという印象がありますが、実情はむしろ逆。当初は軍刀制作に否定的だったと言われています。

その象徴的な出来事が、前述した日本刀鍛錬伝習所の初期において師範を務めた「笠間繁継」(かさましげつぐ)との伝習所運営をめぐる対立です。

伝習所の生徒の訓練と伝習所の維持に寄与するとして、笠間繁継が軍刀制作を推し進めようとしたのに対して、栗原彦三郎は断固としてこれを退けたと言われています。

この2人の確執が尾を引くことで、日本刀復興が遅滞・頓挫してしまうことを危惧した明治から昭和前期にかけての国家主義運動家「頭山満」(とうやまみつる)が、東京・渋谷の自宅敷地内に「常磐松刀剣研究所」(ときわまつとうけんけんきゅうじょ)を開設。笠間繁継を迎え入れることで収束を図ったのです。

栗原彦三郎にとって、日本刀は単なる武器ではありませんでした。もちろん切れ味を重視することに変わりはありませんが、精神的な部分に、より重きを置いていたのです。

そのため、日本刀制作に携わる刀匠には、単なる鍛刀技術以上のものが求められました。

栗原彦三郎にとっての日本刀復興とは、古来受け継がれてきた伝統を重んじ、その担い手を輩出すること。にもかかわらず武器としての日本刀である軍刀制作の道を選んだのは、国家の危機が目前に迫っていたため。

「鍛刀報国」(たんとうほうこく)の4文字を掲げて軍刀増産を呼びかけた栗原彦三郎でしたが、最後まで武器に特化した量産刀の象徴とされていた、いわゆる「昭和刀」の制作は容認しなかったと言われています。

日本刀学院の設立

1941年(昭和16年)12月、「太平洋戦争」が始まり、全面的な世界戦争に突入しました。その1ヵ月前、神奈川県座間に開校したのが日本刀学院です。

前述した日本刀鍛錬伝習所以来、栗原彦三郎にとっては5度目の日本刀鍛錬所の開設。1936年(昭和11年)に政界から離脱し、日本刀復興に傾注後、5年目にして、ようやく念願だった本格的な刀匠養成機関の開設にこぎ付けたのでした。

当時、日本全国における刀匠の数は500人ほどだったと言われています。彼らが制作できるのは年間で7,000振が限界でした。そのため、増大する軍刀需要には到底、追いつくことはできません。

日本刀学院には、こうした軍刀需要にこたえるべく、刀匠の短期養成のための機関という側面があったことは事実です。

前述のように、栗原彦三郎にとって、日本刀の位置づけは、単なる武器に止まらず、精神性を帯びた「日本精神の象徴」だったと言えます。

それゆえ日本刀学院が目指していたのは、日本刀制作における師範の養成。古来の伝統を受け継ぎ、全国各地において鍛刀指導に当たることのできる人材を養成することが、日本刀復興の基礎を築くことにつながるという理念に基づいた教育が施されていたのです。

資料上、日本刀学院が主催した正規の講習会は3度のみで、決して多かったとは言えません。しかし、研究のために同校を訪れた刀匠はかなりの数に上ると考えられています。

栗原彦三郎の教えを受け、併設されていた「模範鍛錬道場」で、志ある学生と共に切磋琢磨した刀匠の存在は、戦後の日本刀復興の礎となりました。

講和記念刀の制作

刀狩り

刀狩り

栗原彦三郎らの尽力に加え、軍刀需要の増大によって、息を吹き返した刀剣界は、終戦と同時にまた廃絶の危機に立たされます。

1945年(昭和20年)9月、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は、日本の武装解除の一環として、全国に日本刀をはじめとする武器の提出を命じて接収。

戦争において、帝国陸軍兵士が軍刀を手に最後まで戦ったことから、日本刀については、徹底的な捜索が行なわれたと言われ、その大半が焼却・海洋投棄などの方法によって廃棄処分されました。

戦後、商工・文部・農林・運輸省によって発令された共同省令「兵器・航空機等の生産制限に関する件」によって、新たに日本刀を制作することもできません。戦後の混乱も手伝い、多くの刀匠が苦境に立たされたと言われています。

1952年(昭和27年)4月、前述した共同省令の一部改正によって、「通産大臣」(現在の経済産業大臣)の許可を受けることを条件に日本刀の制作が可能になりました。

栗原彦三郎が動いたのは、その4ヵ月前の1951年(昭和26年)12月。東京・神田で有志十数人と行なった会合で、「サンフランシスコ講和条約」の締結を記念して、国内関係者、締結国の高官に贈呈し、主要な神社に奉納するための日本刀制作を提案しました。

前述のように、当時は日本刀制作が不可能な状況。唐突とも思える提案に、参加者達は半信半疑でしたが、その目には日本刀復興への道がはっきりと見えていたのです。

サンフランシスコ講和条約

サンフランシスコ講和条約

共同省令一部改正について、情報を入手していた栗原彦三郎は、いち早く300振の制作許可を得ます。共同省令の一部改正から1ヵ月後の5月のことでした。

そこから栗原彦三郎は、約1ヵ月をかけた全国行脚を開始します。目的は、全国各地の刀匠達に、直接、「講和記念刀」の制作を依頼することでした。

当時73歳。交通網の整備が十分だったとは言えないなかの全国行脚は、杖なしで歩くことが難しくなっていたと言われている栗原彦三郎に取って、容易なことではありません。

訪問した先々で、刀匠を前に熱弁をふるうその姿は、燃え尽きる直前最後の命の炎を燃やしているようだったとも言われています。

講和記念刀の制作依頼のための全国行脚を終えた1952年(昭和27年)9月、栗原彦三郎は脳梗塞で倒れ、療養生活に入ります。一時は病状も快復に向かったものの、1954年(昭和29年)5月5日、永眠しました。享年75歳。

栗原彦三郎の人生の最終盤における講和記念刀制作事業は、結果として未完に終わりましたが、講和記念刀を制作した刀匠達は、戦後、美術刀剣として蘇った日本刀制作の担い手として、現代刀の保存・発展を主導しました。

戦前、戦後と2度に亘って日本刀復興の道を切り開くことに生涯を捧げた栗原彦三郎は、現在、家族と共に生まれ故郷・栃木県佐野市で眠っています。

栗原彦三郎ゆかりの刀匠

栗原彦三郎にとって、次代を担う刀匠の養成はライフワークでもありました。東京・赤坂の自宅敷地に開設した日本刀鍛錬伝習所や神奈川・座間に開校した日本刀学院では、日本古来の日本刀精神と技術を次世代へと伝授する場所だったのです。

これらの施設では、意欲のある者には、常に門戸を開く方針が貫かれました。これにより、刀匠を志した多くの若者が栗原彦三郎の教えを受けるために門をたたいたのです。

その結果、2つの養成機関を合わせて150人を下らない刀匠が羽ばたいていったと言われています。門弟のうち、「出世頭」と言えるのが「宮入昭平」(みやいりあきひら)、「天田昭次」(あまたあきつぐ)の2人です。

共に「文化財保護法」第71条第2項に基づく「重要無形文化財」の各個認定の保持者、いわゆる「人間国宝」に認定されています。

宮入昭平は、1913年(大正2年)長野県生まれ。家業の鍛冶屋を手伝い、幼いころから農具などの鍛冶を行なって生計を立てました。刀匠を目指したのは1937年(昭和12年)、24歳のとき。

上京した宮入昭平は、栗原彦三郎が主催していた日本刀鍛錬伝習所に入所し、日本刀の制作を学び始めました。戦時中は「陸軍造兵廠」(りくぐんぞうへいしょう:帝国陸軍の兵器製造所)で、軍から指定された刀工である「指定工」として数多くの軍刀を制作しました。

戦後、不遇な時期を過ごしたこともありましたが、1950年(昭和25年)の第59回伊勢神宮遷宮における奉納刀を制作するなど、徐々に刀匠としての地位を確立。1963年(昭和38年)には、人間国宝に認定されました。

大刀 銘 宮入昭平
大刀 銘 宮入昭平
宮入昭平
伊勢神宮御神宝控打之
鑑定区分
保存刀剣
刃長
78.8
所蔵・伝来
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

天田昭次は、1927年(昭和2年)新潟県生まれ。10歳のときに他界した父「天田貞吉」(あまたていきち)も刀匠でした。

父の墓参りのため、東京から新潟を訪れた栗原彦三郎に勧誘されて日本刀鍛錬伝習所の門をたたいたのは、小学校を卒業した1940年(昭和15年)。天田昭次は、日本刀制作を学び、軍刀制作にも従事しました。

戦後は故郷・新潟に戻り、1954年(昭和29年)に「文化財保護委員会」から作刀の認可を受けると、本格的に日本刀制作を再開。鎌倉・室町時代に制作された名刀に迫る日本刀を制作すべく「相州伝」をはじめとした様々な流派の技術を学びました。

これと並行して、自家製鉄の研究も行なうなど、意欲的に作刀を続け、生涯において3度の「正宗賞」を受賞するなど、現代刀を代表する刀匠のひとりとなります。そして1997年(平成9年)、人間国宝に認定されました。

刀 銘 天田昭次作
刀 銘 天田昭次作
天田昭次作
昭和五十六年
初冬日
鑑定区分
未鑑定
刃長
75.5
所蔵・伝来
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

栗原彦三郎一門の系譜

栗原彦三郎一門の系譜

2020年(令和二年)現在、刀匠で人間国宝に認定されているのは、6人。そのうちの2人が、戦前に日本刀鍛錬伝習所において、栗原彦三郎から直接学んだ刀匠です。

また、天田昭次と共に1997年(平成9年)に人間国宝に認定された「大隅俊平」(おおすみとしひら)の師匠は、前述した宮入昭平。すなわち、大隅俊平は、栗原彦三郎から見れば、孫弟子に当たります。

彼を含めると、現代刀における名工中の名工とも言える人間国宝の半数が、栗原彦三郎の系譜を継ぐ刀匠で占められているのです。

天田昭次と大隅俊平の2人は、2020年(令和二年)現在で、最後の人間国宝に認定された刀匠。1907年(明治40年)、東京都内に、自身はじめてとなる伝習所・日本刀伝習所を開設してから90年の時を経た時代においてもなお、刀剣界において栗原彦三郎の精神は生きていたのです。

この事実は、廃刀令以後、逆風のなかで日本刀復興に尽力した栗原彦三郎の活動がしっかりと根を張り、未来へと引き継がれてきていることを意味していると言えます。

現代刀の名工・名匠現代刀の名工・名匠
現代の日本刀を代表する作品を生み出し、突出した技術を持っている刀匠をご紹介致します。

栗原彦三郎による2振

日本刀鍛錬伝習所や日本刀学院の開設など、指導者のイメージが強い栗原彦三郎ですが、もちろん刀匠としての顔もありました。

日本刀の制作を始めた時期についての詳細は不明ですが、少年時代から鍛刀を行なっていたと言われています。田中正造を慕って上京したあとも日本刀制作を続け、出会った人々に自作の日本刀を披露。

その出来映えの良さに驚いた相手によって買い上げられたという逸話が有名です。栗原彦三郎の日本刀制作への情熱は衰えず、多忙を極めた衆議院議員時代にも、時間を見つけては日本刀鍛錬伝習所で「焼き入れ」を行なっていたと言われています。

栗原彦三郎が日本刀に興味を抱くきっかけとなったのは、前述のように、1893年(明治26年)に父・栗原喜蔵が、稲垣将応、及びその一族を栃木県内の自宅に招いて日本刀鍛錬所を開設したことでした。

もちろん、栗原彦三郎も日本刀鍛錬所で日本刀制作を学んだと言われています。稲垣将応は、江戸時代末期の名工「水心子正秀」(すいしんしまさひで)から下って3代目。すなわち、栗原彦三郎は、水心子正秀の系譜を継ぐ刀匠だったのです。

「昭秀」(あきひで)という銘を切っていた刀匠・栗原彦三郎は、数多くの作品を世の中に出しました。そのなかの最高傑作にして代表作と言われている1振が「刀 銘 銕火道人勲四等昭秀謹作」(かたな めい てっかどうじんくんよんとうあきひできんさく)です。

直刃調(すぐはちょう)の刃文は、頭の揃った互の目(ぐのめ)で、厚く沸(にえ)が付いて足が長く入っています。さらに「櫃内」(ひつない:刀身の平地の長方形状に鋤き下げてある部分)の表には玉追い龍、裏には天孫降臨図(てんそんこうりんず)の彫物。

刀身には「万葉集」の編纂者「大伴家持」(おおとものやかもち)の長歌「海行かば」が浮き彫りで施してあります。これらは、栗原彦三郎の門人「阿部昭忠」(あべあきただ)によるものです。

刀 銘 銕火道人勲四等昭秀謹作
刀 銘 銕火道人勲四等昭秀謹作
為奉祝聖紀
二千六百年
銕火道人
勲四等昭秀謹作
(刻印)
昭和十五年
十一月吉日
鑑定区分
特別保存刀剣
刃長
73.3
所蔵・伝来
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

刀 銘 栗原昭秀造之(昭信 代作代銘)
刀 銘 栗原昭秀造之(昭信 代作代銘)
栗原昭秀造之
皇紀
二千六百四年
八月吉日
鑑定区分
保存刀剣
刃長
61.7
所蔵・伝来
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

栗原彦三郎昭秀全記録

栗原彦三郎昭秀全記録

栗原彦三郎昭秀全記録

栗原彦三郎については、断片的な資料が残されているのみで、そこから彼のすべてを理解することは困難な状況だと言えます。

すなわち、「知る人ぞ知る」存在。そんな栗原彦三郎について、日本刀復興の軌跡をたどるという切り口で、その生涯に迫ったのが「栗原彦三郎昭秀全記録」です。

2000年(平成12年)に発行された本書のサブタイトルは「日本刀を二度蘇らせた男」。戦前・戦後における栗原彦三郎と日本刀を巡る状況を中心に、資料に基づいて丹念に事実を積み重ねることによって、日本刀の復興に生涯を捧げた栗原彦三郎の生き様を描き出しています。

「刀剣女子」という言葉が定着しているように、現代は、女性を中心に日本刀が再び脚光を浴びている時代。それは、栗原彦三郎による日本刀復興への尽力があったからこそでした。

本書は、歴史に埋もれかけていた「日本刀の復興者」の実像の一端を表舞台に登場させたと言える1冊です。

栗原彦三郎 現代刀保存の立役者

栗原彦三郎 現代刀保存の立役者をSNSでシェアする

このエントリーをはてなブックマークに追加
このエントリーをはてなブックマークに追加

「日本刀の歴史」の記事を読む


平安時代~南北朝時代

平安時代~南北朝時代
日本刀の姿は「戦」(いくさ)の発生に応じて変化してきました。日本刀の反りが生まれた優美な平安時代、日本刀の黄金期を築き上げた鎌倉時代、豪壮な作りが勇ましい南北朝時代と、その時代によって様々な魅力があるのです。ここでは、各時代の戦と日本刀の特徴についてフォーカスを当ててご紹介します。

平安時代~南北朝時代

室町時代~安土桃山時代

室町時代~安土桃山時代
日本刀の姿は、室町時代以降も「戦」(いくさ)の発生に応じて変化していきます。合戦の戦術が変化することによって、日本刀も室町時代や安土桃山時代に合わせて変化していくのです。引き続き、各時代の戦と日本刀の特徴についてご紹介します。

室町時代~安土桃山時代

江戸時代~明治時代

江戸時代~明治時代
刀剣・日本刀は、1596年をもって古刀から新刀へと分類が変化します。新刀になって以降、江戸時代に入り戦が減っていくことで、刀剣・日本刀はまた独自の進化を遂げていくのです。そんな中での、江戸時代以降における刀剣・日本刀の変遷についてご紹介します。

江戸時代~明治時代

古刀・新刀・新々刀・現代刀の変遷

古刀・新刀・新々刀・現代刀の変遷
刀剣・日本刀が現在の「日本刀」と呼ばれる反りがある形となったのは平安時代までさかのぼります。刀剣・日本刀は1,000年以上の時を経て、各時代の影響を受けながら時代に応じた特色を持ち現在まで伝わっているのです。ここでは、刀剣・日本刀における時代の特色についてご紹介します。

古刀・新刀・新々刀・現代刀の変遷

上古刀

上古刀
「上古刀」(じょうことう)とは、奈良時代以前に制作された「日本刀」で、反りのない直刀のことを指します。「大刀」(たち)の字が当てられ、厳密にはまだ日本刀とは呼ばれていませんでした。ここでは、便宜上上古刀も日本刀と表記し、その歴史や特徴について解説していきます。

上古刀

古刀

古刀
「古刀」(ことう)とは、901年(延喜元年)以降の平安時代中期から、安土・桃山時代末期の1596年(慶長元年)までに制作された、反りのある刀剣・日本刀を指します。古刀が登場する以前は、反りのない、真っ直ぐな「直刀」(ちょくとう)が主流でした。刀剣・日本刀に反りが付いた理由には、武士の台頭と密接なつながりがあるのです。古刀が誕生し普及した理由と、古刀の代表的な刀工を、時代を追って述べていきます。

古刀

末古刀

末古刀
「末古刀」(すえことう)とは、室町時代末期から安土桃山時代にかけて制作された刀剣・日本刀の総称です。文字通り「古刀」(ことう)の末期という意味であり、当時は戦乱が多く、かつ最も激しかった時代でもあります。そのような乱世に作られた末古刀は、どんな特徴を備えていたのでしょうか。ここでは、この末古刀の特徴をご紹介します。

末古刀

慶長新刀

慶長新刀
刀剣・日本刀の時代区分は、古い順に「古刀」(ことう)、「新刀」(しんとう)、「新々刀」(しんしんとう)、「現代刀」(げんだいとう)と表されます。1595年(文禄4年)までの古刀から、1596年(慶長元年)からの新刀への移行期に制作されたのが、「慶長新刀」(けいちょうしんとう)です。慶長新刀は、古刀の特徴を十二分に受け継ぎながら、新しい時代にも目を向けた、過渡期特有の個性を持つことになりました。そこで慶長新刀が、どのような刀剣・日本刀なのかをご紹介します。

慶長新刀

新刀

新刀
安土桃山時代末期から江戸時代中期にあたる、1596年(慶長元年)~1763年(宝暦13年)までに制作された刀剣・日本刀が「新刀」(しんとう)です。それ以前の「古刀」(ことう)から新刀へ移行する期間、すなわち1596年に始まる慶長年間に作刀された作品を、別に「慶長新刀」(けいちょうしんとう)と呼ぶこともあります。 新刀という名称の由来は、江戸時代中期の講釈師「神田白龍子」(かんだはくりゅうし)の著作、1721年(享保6年)出版の「新刃銘尽」(あらみめいづくし)と、1729年(享保14年)出版の「続新刃銘尽」(ぞくあらみめいづくし)の中で、1596年(慶長元年)に作刀された刀剣・日本刀を新刀、または「新刃」(あらみ)と表記されたことが始まりです。それが流行して新刀の呼び名が定着しました。 ここでは、新刀の特徴と、新刀期を前期、中期、後期の3つに分け、それぞれの時代背景や、代表的な刀工についてご紹介します。

新刀

注目ワード

注目ワード