武士の風習と日本文化のルーツ
右利きに矯正した武士
武士の風習と日本文化のルーツ
右利きに矯正した武士

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平安時代の武将である源為朝、剣豪の宮本武蔵、新撰組隊士の斉藤一など、左利きだと言われている歴史的人物は何人もいますが、武家社会において左利きであることはご法度でした。なぜ、左利きは敬遠されたのでしょうか。左利きの武士を右利きに矯正するほど厳しい、武士の習慣についてご紹介します。

武士が右利きでなければいけない理由

武士の日本刀(刀剣)は必ず左腰に差していました。武士が2本の日本刀(刀剣)を必ず左腰に差しているのは、右手で抜刀するからです。では、左利きであれば、反対側に差しても良いのでしょうか。実は、武士であれば左利きは御法度。必ず日本刀(刀剣)を左腰に差す決まりがあったのです。

右側通行の場合

右側通行の場合

武士は左側通行であったため、武士同士がすれ違うとき、お互いの日本刀(刀剣)の(こじり:の末端部分)がぶつからないようにするためでした。

日本刀(刀剣)の鐺がぶつかると非礼にあたり、もめごとの原因になります。武士が皆、同じ左側に日本刀(刀剣)を差すというルールを作ることで、武家社会の平穏維持につながっていました。

もうひとつの理由が、座って相手と対面するときのルールにあります。江戸時代に武士が正座をして相手と対面する際は、太刀を右膝頭の横に置きます。日本刀(刀剣)の抜きにくい右側に置いて、敵対心が無いことをあらわしていました。そのため、利き腕に合わせて異なる作法を用いていては、敵対心が無いことのアピールになりません。ですから、武士の子どもであれば、左利きは許されず、必ず右手で抜刀できるように矯正されました。

このような右利きの矯正は一般的に庶民にも広がっていき、日本の風習となったと考えられています。

日本が左側通行の理由は江戸時代の作法

日本の左側通行は、江戸時代の作法の名残であると考えられています。江戸時代の武士にとって、殿中の廊下を歩くときの作法は必ず左側通行。左腰に差した日本刀(刀剣)が狭い廊下でぶつかり合わないように、作法として決められていました。

また、左腰に日本刀(刀剣)があると、左側からの攻撃には不利です。右への攻撃は、抜刀した勢いで攻撃できますが、左側への攻撃には、抜刀してから一度振り向かなければなりません。そのため、左側は武士にとって防御しておくべき場所です。

市中往来の際は、特に死角となる左側を守るために、武士は左端を歩くことが、身を守る手段ともなりました。

馬も左側通行

江戸時代には車のような移動手段としていた馬の通行も左側が原則でした。江戸時代は馬に乗ることを許されたのは武士だけで、武士の作法がそのまま馬に乗るときの作法に反映されます。日本刀(刀剣)が左腰にあるため、乗馬した武士同士がすれ違うときはお互いの鞘がぶつからないように左側通行が原則だったとされています。

乗馬の通行ルールが、車の交通ルールになったと考えると、乗り物の由来の習慣として定着したとも考えられます。

江戸時代の左側通行の史料

元禄時代に日本を訪れたドイツの医師エンゲルベルト・ケンペルは、「日本誌」のなかで、長崎から京都に向かう途中、「大きな通りは左側が京都に向かう人、右側が京都から来る人」という習慣が不文律になっていると記録しており、元禄時代には日本には左側通行が根付いていたことが分かります。

左側通行は世界基準だった!?

現在は世界各国のほとんどが右側通行です。しかし、古代の轍の跡などを発掘研究すると左側通行が多かったとされています。やはり、戦乱が常であった世界の歴史上では、を持った兵士のために、左側通行が常識であったようです。

この場合は、日本の武士のように左腰の日本刀(刀剣)を守るためではなく、右利きの兵士達は右側への攻撃が有利だったからです。このように古代から人間は右利きが多く、それに対応した社会を構築していました。

世界を右側通行にしたのはナポレオンだとされています。右から攻める戦法を主にしたことで、兵も馬も右側通行になり占領していった国々へ伝播していきました。そのためヨーロッパ大陸は右側通行が多いのです。

大阪では武士が少ないからエスカレーターの左側を空ける

現在の日本の風習として、エスカレーターに乗るときは、急いでいる人に道を譲るために片側を空ける習慣が根付いています。東西文化の比較としてよく取り上げられますが、大坂には武士が少なかったから、右側に立つ習慣ができたのではないかと言われています。

東京で、エスカレーターに乗るときは左側に立ち、右側を空けます。この習慣は、左側を守る必要のあった武士の習慣の名残ではないかという説があります。

江戸には、全国260余りの藩が参勤交代制度によって江戸に屋敷を構えていました。将軍傘下の旗本・御家人も大多数に上ります。そのため江戸では、人口の半分が武士であったと言われています。

それに比べて大坂の武士の人口は少なく、商人中心の社会でした。武士の人口比率の違いから、大阪のエスカレーターは右側に立つ習慣があるという説が存在するのでしょう。

他にも、大阪万博では世界基準を試みて右側通行にしたため大阪だけ右側通行が根付いたとも言われています。

武士は左利きを隠していた

宮本武蔵

宮本武蔵

武将や大名・武士の中には左利きであったであろうと言われている人達がいます。

源為朝・宮本武蔵・松永久秀・斎藤一などがよく言われている代表ですが、残念ながら史料等の正確な記録は一切ありません。

では、なぜ左利きではないかという憶測がなされているかと言うと、自画像などから推測されているからです。斎藤一などは、左利きであったために相手が惑わされて勝つことができ、それが強いと言われるようになったという憶測になっています。

左利きをなぜ史料に残さないのでしょうか。それは、武士にとって左利きであるということは不名誉なことで、隠しておかなければいけない悪癖とされていたからです。

右利きに矯正するのは武士文化の名残

日本刀を持つ手

日本刀を持つ手

現在でも昭和生まれくらいまでは、左利きで生まれてきた人でも、右利きに矯正させられた人は多いでしょう。

左利きは一般社会では差しさわりのある特徴として、右利きに直すように訓練をさせられました。多くの左利きの人は、矯正させられたことについて納得していないということを言います。個性を潰すような行為だったのでしょう。

最近では、スポーツ競技における左利きの優位さも認知されるところとなり、個性として尊重され、矯正されることはなくなりました。両利き用の文房具の販売や、駅改札口の左利きへの対応など、左利きへのバリアフリー化も進んでいます。

江戸幕府による封建社会を維持するため、武士が右利きを強制された江戸時代でした。現在、左利きは単なる個性であり、左利きのメリットを最大限活かすことのできる自由な時代であると言えるでしょう。

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