「三日月宗近」(みかづきむねちか)は、数ある日本刀の中でも特に名刀と言われている「天下五剣」(てんがごけん)の1振に数えられています。
三日月宗近の最大の特徴は、その名の由来にもなった三日月形の「打ちのけ」(刃の模様)です。天下五剣の中で最も美しいと言われている刀身の優美な太刀姿と刃の縁に沿って浮かび上がるいくつもの三日月形の文様は観る者を魅了します。
そんな三日月宗近を作刀した平安時代の刀工「三条宗近」(さんじょうむねちか)や、三日月宗近を所持していた室町幕府13代将軍「足利義輝」(あしかがよしてる)のエピソード、そして三日月宗近の独特な刀身の形状や刃文などについて詳しく解説します。
江戸時代の名刀リスト「享保名物帳」(きょうほうめいぶつちょう)にも名を連ねている三日月宗近とは、いったいどのような刀なのでしょうか。
様々な「名刀」と謳われる刀剣を詳しくご紹介します。
「三日月宗近」は、平安時代の刀工「三条宗近」が打った太刀(たち)で、 「天下五剣」の1振に数えられています。
天下五剣とは、数ある中でも特に名刀と言われている日本刀で、数珠丸恒次(じゅずまるつねつぐ)、童子切安綱(どうじぎりやすつな)、鬼丸国綱(おにまるくにつな)、大典太光世(おおでんたみつよ)、そして三日月宗近のことです。
三日月宗近の作刀時期は10~12世紀と言われています。刀身に「鎬」(しのぎ)と「反り」のある日本刀としては最古の作品のひとつで、江戸時代の書物「享保名物帳」にも名を連ねています。
享保名物帳とは、江戸幕府8代将軍「徳川吉宗」(とくがわよしむね)の命を受けて編纂された権威ある名刀リストのこと。記載している刀剣のうち250振を「名物」として格付けしていました。
三日月宗近の号「三日月」は、雲の合間に浮かぶ三日月のように見える刃文が由来。その美しさは、「天下五剣の中でも最上級」、「名物中の名物」と称されています。
室町時代の足利家、安土桃山時代の豊臣家、そして江戸時代の徳川家と、時の権力者に寵愛されてきた三日月宗近は、現在「東京国立博物館」に収蔵。1951年(昭和26年)には国宝に指定されました。
いまでは、若い世代からも注目される三日月宗近。その美しい太刀姿を観るため多くの刀剣ファンが刀剣展示会を訪れ、時を忘れて見入ってしまうそうです。
三条宗近は平安時代の刀工で、刀工集団・三条派の創始者です。三条という名は、京の三条(現在の京都市中京区三条町)に住んでいたことが由来となっています。
三条宗近は貴族の生まれで、三日月宗近にも見られる優美な作風は、その生まれが影響しているとの説も。日本刀作りを学んだのは大和(現在の奈良県)、もしくは薩摩(現在の鹿児島の西部)と言われています。
三条宗近は、作刀した作品に「宗近」または「三条」と銘を切りました。「銘を切る」とは、茎(なかご)に刀工の名を入れることで、三日月宗近には三条と銘が切られているのです。
三条宗近は、三日月宗近以外にも数々の刀剣を作刀していますが、その中には現存していないにもかかわらず、伝説として語り継がれて存在感を放つ名刀があります。それは「小狐丸」(こぎつねまる)、「今剣」(いまのつるぎ)、「岩融」(いわとおし)の3振です。
まず、小狐丸は後一条天皇の命により作刀されました。三条宗近と狐の精霊が協力して作刀したという伝説が残っており、その伝説をモチーフにした能の謡曲「小鍛冶」(こかじ)もあります。小鍛冶とは、山で鉄を作る「大鍛冶」(おおかじ)に対するもので、大鍛冶の作った鉄をもとに、様々な道具や刀剣を作った職人達の総称です。
小狐丸は後一条天皇に献上されたのち、九条家という名門貴族の手に渡りましたが、それから行方不明になりました。
次に、今剣は三条宗近に作刀されたあと、現在の京都府京都市左京区にある「鞍馬寺」(くらまでら)に奉納された短刀です。
「源義経」(みなもとのよしつね)は、幼少の頃「牛若丸」と呼ばれ、11歳から鞍馬寺で修行をしていました。その際、鞍馬寺から今剣を授けられ、以来愛刀として身に付けていたとのこと。源義経は、平泉(現在の岩手県の南西)で自害するときも、この短刀を用いたと言われています。
最後に、岩融は武蔵坊弁慶が振るったとされる、刃の部分だけでも3尺5寸(約1m30cm)もある長大な薙刀。ただし、「義経記」には薙刀ではなく脇差であったとも記述されています。
武蔵坊弁慶の岩融に限らず、源義経の今剣、源義経の側室「静御前」の薙刀も三条宗近の作品。源義経と三条宗近の間には、不思議な縁があったのです。
足利義輝
室町幕府の13代将軍・足利義輝(あしかがよしてる)は剣術の達人であったため、「剣豪将軍」と呼ばれています。名刀を収集しており、その中に三日月宗近がありました。足利義輝が三日月宗近を手に奮戦したという話があります。
足利義輝は、家臣達に謀反を起こされて、住んでいた京都の二条御所を襲撃されました。世に言う「永禄の変」(えいろくのへん)です。
10,000の大軍に囲まれて絶体絶命の危機を迎えた足利義輝は、自ら敵を迎え撃ちました。収集していた数々の愛刀を畳に突き刺すと、斬った敵の返り血で刃の切れ味が落ちるたびに、愛刀を取り替えて応戦。多勢に無勢であるがゆえに最後には討ち取られるものの、敵を30人以上も倒したのです。
永禄の変後、三日月宗近は謀反の首謀者のひとりである「三好政康」(みよしまさやす)の手に渡り、のちに豊臣家に献上されました。
太閤「豊臣秀吉」の正室の「北政所」(きたのまんどころ)が三日月宗近を所持し、のちに尼子家の家臣・山中幸盛(やまなかゆきもり)に三日月宗近を譲ったという説があります。
山中幸盛は武芸に優れ、義に厚く、「織田信長」からも一目置かれた武将です。三日月宗近を賜った山中幸盛は、三日月を軍装に描くほど信仰していました。山中幸盛は、毛利家に滅ぼされた尼子家の再興に奔走しますが、志半ばで討たれてしまいます。しかし山中幸盛は、自分が討たれることを予見していたかのように、三日月宗近を北政所に返上していたのです。
のちに北政所が死去すると、三日月宗近は江戸幕府の2代将軍「徳川秀忠」(とくがわひでただ)に形見として贈られました。
徳川吉宗
徳川家は、三日月宗近をはじめ多くの日本刀を所持していました。
徳川吉宗の時代には、刀剣の価値を格付けする享保名物帳を編集しています。三日月宗近は名物という称号を授けられて掲載されました。
明治時代になると徳川家は財政難に陥ったため、収集していた美術品を売って金策に走ります。この際、三日月宗近も売られて、行方不明となってしまいました。
その後、三日月宗近は実業家で中島飛行機(現在の株式会社SUBARU)の2代目社長「中島喜代一」(なかじまきよいち)のもとに渡ります。
中島喜代一は、国宝級の名刀を集めたことでも有名。中島喜代一は「いつでも刀の勉強ができるように」と日本刀を集めていたそうです。
そんな中島喜代一は終戦直後、大臣を務めていた兄から、GHQによる「日本刀没収」の話を聞き、「本間順治」(ほんまじゅんじ)など日本刀の権威に連絡を取ります。それが、刀剣の保存運動のきっかけとなるのでした。
中島喜代一が所有していた三日月宗近を譲り受けたのが、「渡辺三郎」(わたなべさぶろう)です。渡辺三郎は、実業家でありながらも美術品に造詣の深い目利きでもありました。
1937年(昭和12年)頃、渡辺三郎は三日月宗近を所有していた中島喜代一に、「勉強が終わったら三日月宗近を譲って欲しい」と話を持ちかけます。渡辺三郎の熱意に押された中島喜代一は根負けし、三日月宗近は渡辺三郎の手に渡ったのです。
そして、渡辺三郎が亡くなったあと、三日月宗近は東京国立博物館に寄贈されました。
東京国立博物館
三日月宗近が収蔵されている東京国立博物館は、東京の上野公園内にあります。1872年(明治5年)に創設された、国内で最も古い歴史を持つ博物館です。
収蔵品は美術作品や歴史資料、考古遺物など、11万7,000点以上。
また、刀剣も豊富に収蔵しており、三日月宗近以外にも「長船長光」(おさふねながみつ)、「古備前包平」(こびぜんかねひら/号:大包平)、「水龍剣」(すいりゅうけん)といった歴史的価値のある刀剣を揃えています。そのラインナップの豪華さは、刀剣好きにとっては垂涎ものです。
三日月宗近の展示は定期的に行なわれているので、機会を見つけて足を運んでみてはいかがでしょうか。
三日月宗近の美しさは、天下五剣の中でも最上級に位置付けられています。
まるで「美しい女性のよう」と謳われるその姿を、「基本情報と形状」、「造り」、「地肌」、「刃文」、「茎」、といった視点から見てみましょう。
刃長80.0cm、反り2.8cm、元幅2.9cm、先幅1.4cmが三日月宗近の基本情報。
三日月宗近は「優美な太刀姿」と言われますが、それは元幅の広さに対して先幅が狭くなっている「踏ん張りがある姿」になっているためです。
三日月宗近の基本情報
天下五剣 刀名 | 元幅 | 先幅 | 元幅と先幅の比率 |
---|---|---|---|
三日月宗近 | 2.9cm | 1.4cm | 2.07倍 |
数珠丸恒次 (じゅずまるつねつぐ) |
3.1cm | 1.8cm | 1.72倍 |
童子切安綱 (どうじぎりやすつな) |
2.9cm | 2.0cm | 1.45倍 |
鬼丸国綱 (おにまるくにつな) |
2.9cm | 2.0cm | 1.45倍 |
大典太光世 (おおでんたみつよ) |
3.5cm | 2.5cm | 1.40倍 |
同じ天下五剣の他の4振に比べ、三日月宗近は元幅と先幅の差(比率)が大きいことが分かります。
三日月宗近は、反りは鍔元が強い一方で、鋒/切先(きっさき)にはほとんどありません。幅の細さと鋒/切先に向かうにつれて緩くなる反りが相まって、刀身の曲線美は際立っています。
鋒/切先はそれほど大きくない「小峰/小切先」(こきっさき)と呼ばれる形状ですが、その切れ味の鋭さは他の日本刀に引けを取りません。
鋒/切先の種類
打ちのけ
そして最大の見所は、三日月宗近の号の由来となった独特の刃文・打ちのけです。茎に近い下半分に、刃縁に沿って三日月形の打ちのけが随所に見られます。
打ちのけは、鎌倉時代に作刀された日本刀の特徴のひとつ。その弓型の刃文がライトに照らされて浮かび上がる様は、静かな夜にただよう雲の合間からうっすらと浮かび上がる三日月を彷彿とさせます。
また、上半分は刃文が2重・3重となり、さらに「帽子」と呼ばれる鋒/切先の刃文も2重になっているなど、複雑な刃文の姿を鑑賞することができるのです。
茎は、作刀当初の姿をそのままに残した「生ぶ茎」(うぶなかご)。茎の形状は、鳥の腿(もも)のように見える「雉子股形」(きじももがた)で、目釘穴は3つ。
しかし、そのうち2つは埋められているのです。裏面には、作刀した三条宗近の銘 三条が切られています。刀工の銘は通常は表面にあるため、独特な作りです。
茎の形状
なお、「拵」(こしらえ:日本刀[刀剣]の外装)は鞘(さや)部分のみが現存しており、鞘部分は「糸巻太刀拵」(いとまきたちこしらえ)という刀装になっています。糸巻太刀拵は、鞘の上部の糸と柄糸を渡巻(わたりまき:糸を柄に巻き締めること)にしており、所々に入った紋様の華やかさが特徴。
現存している拵は、芸術性こそ高いものの安土桃山時代に作られた物なので、三条宗近の作品ではありません。三日月宗近のオリジナルの拵はどのような物だったのでしょうか。ロマンがかき立てられますね。