日本刀の名刀と天下五剣

新々刀の刀匠

文字サイズ

「新々刀」とは、1781年(天明元年)の江戸後期から1876年(明治9年)の「廃刀令」までに作られた日本刀のことを言います。「水心子正秀」(すいしんしまさひで)が、簡素化された鍛刀法ではなく、砂鉄から玉鋼(たまはがね)を制作する復古刀を目指したことから新刀と区別されて呼ばれました。
新々刀を代表する刀匠は、「源清麿」(みなもときよまろ)、「左行秀」(さのゆきひで)、「固山宗次」(こやまむねつぐ)の3人です。新々刀を作る刀匠達について、作風や代表作をご紹介します。

新々刀の刀匠「源清麿」

「源清麿」(みなもときよまろ)と言えば、波乱万丈な幕末の天才刀工です。源清麿は、1813年(文化10年)、小諸藩(現在の長野県小諸市)の郷士(農村に居住する武士)の子として誕生しました。本名は、山浦内蔵助環(やまうらくらのすけたまき)。

17歳のときに兄・山浦真雄(やまうらまさお)と共に、上田藩のお抱え刀工「河村寿隆」(かわむらとしたか)に師事して「備前伝」を取得。山浦環は「一貫斎正行」と初銘を切ると、師・河村寿隆から、自分より勝ると言われ「秀寿」のを贈られています。ただし、秀寿の銘は1834年(天保5年)に1度用いたのみでした。

背が高くなかなかの美男子と言われ、18歳のときに旧家・長岡家の婿養子になり長男をもうけたものの、19歳のときに妻子を捨て家出。しかし、23歳のとき一念発起して刀工よりも武士を志し、江戸幕府の軍学者で剣豪の「窪田清音」(くぼたすがね)に入門しました。

ところが窪田清音は、山浦環が武士以上に刀工として天賦の才があることを見抜き、山浦環の大成を願って、屋敷内に鍛冶場を設けるのです。山浦環はその助言にしたがって、「正行」と銘を切り、鍛刀に専念しました。

1842年(天保13年)に長州藩(現在の山口県萩市)家老「村田清風」の誘いで駐槌(ちゅうつい:滞在してし作刀すること)し、1844年(天保15年/弘化元年)に小諸に帰郷したのち、1845年(弘化2年)江戸四ツ谷に移住。

1846年(弘化3年)に師・窪田清音の一字を貰い、「源清麿」に改名しています。作風は、江戸に出てからは「相州伝」に絞って鍛刀を行ない、特に晩年からは左文字を理想として、本位の大互の目乱を焼きました。地鉄(じがね)は柾目肌。豪壮なのに重ねは厚くなく、品格ある姿が特徴です。「四ツ谷正宗」と持て囃され、自他共に認める天才刀工となりました。新々刀最上作。

しかし、深川の芸者と駆け落ちしたり、尊皇攘夷運動に参加したりと波乱の人生。ついに、酒の吞みすぎで酒毒(アルコール依存症)に。思うように鍛刀できなくなったことを悲観して、1854年(嘉永7年/安政元年)に割腹自殺。42歳という若さでした。

刀 銘 山浦環正行
刀 銘 山浦環正行
山浦環正行
鑑定区分
重要刀剣
刃長
75.6
所蔵・伝来
小栗家伝来→
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

刀 銘 山浦環正行天宝十年八月日武器講-百之一

山浦環の素質を見抜いた窪田清音は、「武器講」を考案。武器講とは、山浦環が1振を3両(1両は現在価格にして約13万円なので約52万円)で作り、窪田清音の門人に売るというシステム。依頼があれば山浦環の学びになるし、門人は大量生産品ではない特注の日本刀を安値で買うことができるというものでした。

そもそも窪田清音の門人は、旗本(御金持ち)の子息が多く、これは安いと評判になり、依頼はあっと言う間に100件・300両もの金が集まったのです。その記念すべき最初の1振が、この刀。

本刀は、南北朝時代の長巻直しに範を取ったもの。刃文は互の目乱れ(ぐのめみだれ)に沸(にえ)の縞模様が長く走った傑作で、重要美術品になっています。

1振3両は、当時としても破格の安さ。手を抜けない山浦環はやり切れなかったのか1度逃亡し、師・窪田清音が大激怒したという話が残されています。しかし最近の研究では、山浦環は逃亡したのではなく、窪田清音の計らいで長州に赴いたのだと言われているのです。

太刀 銘 為窪田清音君 山浦環源清麿製/弘化丙午年八月日

「弘化丙牛年」とは、1846年(弘化3年)のこと。山浦環は1842年(天保13年)に、師・窪田清音が提案した武器講が嫌になって長州に逃亡。激怒していた師・窪田清音にお詫びをするために作刀したと伝えられるのが、この日本刀なのです。

本刀は、堂々とした太刀姿。刃文は小湾れ(このたれ)に互の目(ぐのめ)交じり深く沸付き、鋒/切先(きっさき)は中延びごころで、帽子は乱れ込んで掃けかかって、秀逸。山浦環が改名し、源清麿と銘を切った最初の作品と言えます。

ところで、新撰組の「近藤勇」は「虎徹」を愛刀としていたと有名ですが、実はその刀は虎徹ではなく源清麿だったのではないかと言われています。近藤勇に売った刀屋が「近藤勇に源清麿を虎徹と偽って売った」と親族に告白していたのです。

近藤勇は、「池田屋事件」で「下拙刀は虎徹故に哉、無事に御座候」と手紙に書いている通り、沖田総司など他の剣士の刀は修復不能なほど折れたのに、近藤の刀は無事でした。天才・清麿の日本刀だったからこそ折れなかったのではないかと、この噂がいっそう源清麿人気を高めたのです。なお、近藤勇の愛刀については諸説あります。

太刀 銘 為窪田清音君 山浦環源清麿製/弘化丙午年八月日

太刀 銘 為窪田清音君 山浦環源清麿製/弘化丙午年八月日

時代 鑑定区分 所蔵・伝来
為窪田清音君
山浦環源清麿製
/弘化丙午年
八月日
江戸時代 重要美術品 窪田清音
→個人

新々刀の刀匠「左行秀」

左行秀

左行秀

「左行秀」(さのゆきひで)は、1813年(文化10年)に筑前国(現在の福岡県)で、浪人「伊藤又兵衛盛重」の次男として生まれました。本名は、豊永久兵衛(のちに久左衛門)です。

江戸で細川正義の門人「清水久義」(しみずひさよし)に入門。「信国久兵衛」と名乗っていましたが、のちに筑前(現在の福岡県)の左文字の末裔と名乗り、「左行秀」に改名しました。

1846年(弘化3年)に、土佐藩山内家のお抱え刀工「関田勝広」に招かれて移住し、1856年(安政3年)に土佐藩の刀工・鉄砲鍛冶として、召し抱えられることに。

1860年(安政7年/万延元年)に、江戸・深川砂村の土佐藩邸(砂村藩邸)にて鍛刀しますが、1868年(明治元年)、のちに明治の政治家となる「板垣退助」(いたがきたいすけ)と不和があり、土佐へと戻っています。これより、「東虎」と改名。

なお、左行秀は嘉永(1848年)頃から作風が変化しました。それまでの丁子乱れを焼いていた備前伝から沸・匂(におい)が深く、互の目乱を焼く相州伝になっています。そのため、同じく相州伝を得意とした源清麿の双璧と言われているのです。さらに「土佐正宗」と讃えられ、15代土佐藩藩主の「山内容堂」(やまうちようどう)から「今様正宗」と絶賛されました。新々刀最上作。

しかし武士の時代は終わり、左行秀が57歳の1870年(明治3年)に廃刀令が出たために、左行秀ほどの名工が廃業してしまうことに。晩年は嫡男「幾馬」と横浜でのんびり暮らし、1887年(明治20年)に75歳で天寿を全うしました。

刀 銘 左文字三拾九代孫筑州住左行秀 嘉永二年二月吉日

左行秀は、自ら左文字の末裔とアピールしていました。左文字とは、「左安吉」(さのやすよし:通称は左衛門三郎慶源)を祖とし、銘に「左」の一字を切る、鎌倉時代後期から室町時代に活躍した筑前国の一派のこと。左安吉は、相州伝を確立した「正宗」の高弟で、作刀した「宗三左文字」(そうざさもんじ)は、「織田信長」が愛刀としたことでも有名です。

本刀は、「左文字三拾九代孫」と銘が切られた1振。地鉄は小板目肌が細かくよく詰み、刃文は湾れ(のたれ)に沸荒く、匂口が冴えて覇気があり、まさに新々刀最上作。自らの出自という覚悟を示した、渾身の力作と言えるのです。

刀 銘 左文字三拾九代孫筑州住左行秀 嘉永二年二月吉日

刀 銘 左文字三拾九代孫筑州住左行秀 嘉永二年二月吉日

時代 鑑定区分 所蔵・伝来
左文字三拾九代
孫筑州住左行秀
嘉永二年二月
吉日
江戸時代 重要美術品

刀 銘 於土佐本國筑前左行秀嘉永元年申秋應阪本直方需造焉

土佐国(現在の高知県)の出身の左行秀は、実家から徒歩5分のところに「坂本龍馬」(さかもとりょうま)の実家があったと言われています。特に坂本龍馬の兄「坂本直方」(さかもとなおかた)は、左行秀に作刀を依頼した史実が残されています。

本刀は、その史実通り「阪本直方需造焉」と銘が切られた1振。1848年(嘉永元年)は、ちょうど左行秀が土佐藩工・関田勝広宅にて鍛刀をはじめて2年が経った頃で、相州伝上位を思わせるような傑作を多く作った頃です。

伝承によると、坂本直方から坂本龍馬が譲り受け、友人「甲藤馬太郎」(かっとううまたろう)の持つ甲冑(鎧兜)と交換し、以降、甲藤家に伝えられている日本刀。高知県立坂本龍馬記念館にて展示公開されたこともありました。

刀 銘 於土佐本國筑前左行秀嘉永元年申秋應阪本直方需造焉

刀 銘 於土佐本國筑前左行秀嘉永元年申秋應阪本直方需造焉

時代 鑑定区分 所蔵・伝来
於土佐本國筑前
左行秀嘉永元年
申秋應阪本直方需造焉
江戸時代 坂本直方
→坂本龍馬
→甲藤家

新々刀の刀匠「固山宗次」

「固山宗次」(こやまむねつぐ)は、新々刀期における備前伝刀工の第一人者です。

1803年(享和3年)奥州白河(現在の福島県白河市)生まれ。兄は、刀工の「固山宗平」(こやまむねひら)。通称は「惣兵衛」。「加藤綱英」(かとうつなひで)に師事し、備前伝の華やかな丁子を得意としました。

白河藩「松平家」のお抱え刀工となり、松平家が転封するのに従って、1823年(文政6年)に桑名藩がある現在の三重県桑名市へと移住し、1831年(天保2年)頃には桑名藩の江戸藩邸にて活躍。1834年(天保5年)頃に尾張でも鍛刀しています。1845年(弘化2年)には備前介を受領。1852年(嘉永5年頃)からは四ツ谷左門町にて鍛刀しました。

一生涯、備前伝のみを作刀しましたが、嘉永の頃から頭が揃った互の目丁子を焼いた物が多くなり、晩年は互の目を連続して焼いているのが特徴です。新々刀上々作。

没年は不明ですが、1870年(明治3年)の銘が切られた短刀があることから、享年は70歳前後と言われています。

短刀 銘 備前介宗次 慶応二年十一月日
短刀 銘 備前介宗次 慶応二年十一月日
備前介宗次
慶応二年
十一月日
鑑定区分
特別保存刀剣
刃長
29.6
所蔵・伝来
山田朝右衛門吉亮 →
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

刀 銘 天保八年十一月應武田常貞需/固山宗次作之 同年十二月十九日於千住誠之/太々土壇仏

固山宗次は、備前伝一筋に作刀した人物です。刃文が華やかなのはもちろん、切れ味にも優れ、華実兼備の名工と言われました。江戸時代後期から明治時代初期まで作刀しましたが、特に天保年間の作品が素晴らしく、「天保の宗次は黙ってでも買え」と言われているほどです。

本刀は、まさに1837年(天保8年)に作刀された1振。地鉄は板目肌で、刃文は互の目に小丁子という逸品です。

固山宗次は、「山田朝右衛門」などと親交があったため、裁断銘の付く作刀が多くありますが、本刀も「太々土壇仏」と裁断銘が切られています。「太々」とは、人間の肩から胸回りのことで最も斬りにくい部分。これを真っ二つにぶった斬ったという証拠が付いた銘なのです。なお、裁断銘も固山宗次本人の手で切られています。

刀 銘 天保八年十一月應武田常貞需/固山宗次作之 同年十二月十九日於千住誠之/太々土壇仏

刀 銘 天保八年十一月應武田常貞需
/固山宗次作之 同年十二月十九日於千住誠之/太々土壇仏

時代 鑑定区分 所蔵・伝来
天保八年十一月
應武田常貞需/
固山宗次作之
同年十二月十九日於千住誠之
/太々土壇仏
江戸時代 三重県指定
文化財

刀 銘 備前国長船住景光 元亨二年五月日(棟に)文久二年五月 応山田吉年好 備前介宗次写之

固山宗次は、四ツ谷左門町にて鍛刀していましたが、向かいに源清麿が引越してきて、挨拶がなかったため果たし状を送ったという逸話が有名です。源清麿とは、酒が好きでよく飲みくらべをしたとか、技を競い合う良いライバルだったと言われています。

本刀は、「小竜景光」(こりゅうかげみつ)の写し。本歌(写しに対して使用される言葉。元本、本物のこと)は、備前長船派3代目の「景光」が作刀し「楠木正成」(くすのきまさしげ)が佩用したと伝えられる、国宝になっている太刀です。

写しが2本あるのは、6代山田朝右衛門が「生ぶ姿」の写しを発注し、のちに7代山田朝右衛門が「磨上」の写しを発注したため。単なる模倣ではなく、本歌に迫るような迫力のある1振です。両者とも、固山宗次の一代傑作と言われています。

刀 銘 備前国長船住景光 元亨二年五月日(棟に)文久二年五月 応山田吉年好 備前介宗次写之

刀 銘 備前国長船住景光 元亨二年五月日
(棟に)文久二年五月 応山田吉年好 備前介宗次写之

時代 鑑定区分 所蔵・伝来
備前国長船住
景光 元亨二年
五月日(棟に)
文久二年五月
応山田吉年好
備前介宗次写之
江戸時代 個人蔵

新々刀の刀匠

新々刀の刀匠をSNSでシェアする

「日本刀の名刀と天下五剣」の記事を読む


天下三作とは

天下三作とは
日本には、古くから「鍛冶屋の魂」と「匠の技」を持ち、名刀を作り上げた刀工達が各地にいました。その中でも、山城国(現在の京都府)の「粟田口吉光」(あわたぐちよしみつ)、相模国(現在の神奈川県)の「正宗」(まさむね)、越中国(現在の富山県)の「郷義弘」(ごうのよしひろ)の3刀工は、特に名刀工として挙げられる人物です。江戸時代、8代将軍「徳川吉宗」(とくがわよしむね)が「本阿弥光忠」(ほんあみこうちゅう)に命じて編纂させた「享保名物帳」(きょうほうめいぶつちょう:世に名高い名刀を収録した台帳)に、この「吉光」・「正宗」・「義弘」の3刀工とその作刀を「名物三作」として記載。吉光・正宗・義弘の3刀工と、その作刀は、名刀の熱心な収集家としても知られる天下人「豊臣秀吉」が愛したことでも知られ、「天下三作」(てんがさんさく)と呼ばれるようになったと言われています。

天下三作とは

天下三名槍

天下三名槍
数ある槍の中でも、特に名槍(めいそう)と誉れの高い3振を「天下三名槍」(てんがさんめいそう)、もしくは「天下三槍」(てんがさんそう)と呼びます。江戸時代には「日本号」(にほんごう/ひのもとごう)、「御手杵」(おてぎね)の2振が「西の日本号、東の御手杵」と並び称されていましたが、いつしかそこに「蜻蛉切」(とんぼぎり)が加わって、明治時代からはこの3振が天下三名槍と呼ばれるようになりました。

天下三名槍

正宗十哲

正宗十哲
日本刀の歴史の中でも、とりわけ名刀が多く作られたのが、鎌倉時代です。そして、その鎌倉時代後期に登場したのが、かの有名な「正宗」(まさむね)。正確な生没年も不明であり、銘入りの作品が極めて少ないことなどから、その存在自体を否定する学説が唱えられるほど、ミステリアスな存在です。 正宗の下で学び、名匠へと育った代表的な人物は10人いるとされ「正宗十哲」(まさむねじってつ)と称します。正宗に習い、全国にその技を広めていった彼らを知るためにも、まずは、正宗について追っていきましょう。

正宗十哲

新刀の代表刀匠

新刀の代表刀匠
「新刀」とは、1596年(慶長元年)から1764年(宝暦14年/明和元年)に作られた日本刀のことを言います。1721年(享保6年)に刀剣書「新刀銘尽」(あらみめいづくし)が出版されて、「新刀」(あらみ)という言葉が流行語となり定着しました。その新刀を代表する刀匠が、「長曽弥虎徹」(ながそねこてつ)、「野田繁慶」(のだはんけい)、「大和守安定」(やまとのかみやすさだ)の3人です。それぞれの人物と作風、代表作をご紹介します。

新刀の代表刀匠

天下五剣とは

天下五剣とは
素晴らしい名刀を賛美して、「天下五剣」(てんがごけん)と呼ぶ言葉があります。具体的に、どの日本刀のことを言うのか、ご存知でしょうか?どんなところが優れているのか。なぜ「5」という数字なのかなど、詳しくご紹介します。

天下五剣とは

童子切安綱

童子切安綱
「天下五剣」(てんがごけん)の1振に数えられる、太刀「童子切安綱」(どうじぎりやすつな)を作刀したのは、平安時代の刀工「大原安綱」(おおはらやすつな)です。「童子切」という号は、「源頼光」(みなもとのよりみつ)が「酒呑童子」(しゅてんどうじ)という鬼を切った伝説に由来しています。数ある日本刀の中でも特に名刀と言われた天下五剣の中でも最も古いことから、特別な地位を確立している名刀中の名刀。今回はそんな童子切安綱について、ご紹介していきます。

童子切安綱

三日月宗近

三日月宗近
「三日月宗近」(みかづきむねちか)は、数ある日本刀の中でも特に名刀と言われている「天下五剣」(てんがごけん)の1振に数えられています。 三日月宗近の最大の特徴は、その名の由来にもなった三日月形の「打ちのけ」(刃の模様)です。天下五剣の中で最も美しいと言われている刀身の優美な太刀姿と刃の縁に沿って浮かび上がるいくつもの三日月形の文様は観る者を魅了します。 そんな三日月宗近を作刀した平安時代の刀工「三条宗近」(さんじょうむねちか)や、三日月宗近を所持していた室町幕府13代将軍「足利義輝」(あしかがよしてる)のエピソード、そして三日月宗近の独特な刀身の形状や刃文などについて詳しく解説します。 江戸時代の名刀リスト「享保名物帳」(きょうほうめいぶつちょう)にも名を連ねている三日月宗近とは、いったいどのような刀なのでしょうか。

三日月宗近

鬼丸国綱

鬼丸国綱
数ある名刀の中でも特に名刀と言われた「天下五剣」(てんがごけん)の1振に数えられる「鬼丸国綱」(おにまるくにつな)は、鎌倉時代の刀工「粟田口国綱」(あわたぐちくにつな)が作刀した太刀です。鬼丸の号(ごう:呼び名)は、かつての所持者「北条時政」(ほうじょうときまさ)を苦しめた小鬼を退治したという逸話に由来。ここでは、数々の逸話を有する「御物」(ぎょぶつ:皇室の私有財産)である鬼丸国綱をご紹介します。

鬼丸国綱

大典太光世

大典太光世
「天下五剣」(てんがごけん)の1振に数えられる「大典太光世」(おおでんたみつよ)は、戦国武将「前田利家」(まえだとしいえ)を先祖とする旧加賀藩主・前田家に伝わる日本刀です。前田利家や、その娘である「豪姫」(ごうひめ)といった人物にかかわり、前田家の歴史と共に長い時を亘って来ました。鎺(はばき)の裏には、梅をモチーフにした前田家の家紋が入っています。大典太光世には、前田家の人々が生きてきた証しが込められているのかもしれません。ここでは、前田家伝来の名刀であり、天下五剣の1振でもある大典太光世についてご紹介します。

大典太光世

注目ワード
注目ワード