「新刀」とは、1596年(慶長元年)から1764年(宝暦14年/明和元年)に作られた日本刀のことを言います。1721年(享保6年)に刀剣書「新刀銘尽」(あらみめいづくし)が出版されて、「新刀」(あらみ)という言葉が流行語となり定着しました。その新刀を代表する刀匠が、「長曽弥虎徹」(ながそねこてつ)、「野田繁慶」(のだはんけい)、「大和守安定」(やまとのかみやすさだ)の3人です。それぞれの人物と作風、代表作をご紹介します。
「新刀の刀工」をはじめ、日本刀に関する基礎知識をご紹介します。
新刀期は交通手段が発達したことにより、人や資材の移動が簡単になりました。それにより
美濃伝や備前伝などそれぞれの伝法を持った刀匠が、江戸や大阪などに広く分布するように
なったのです。
その中でも、全国に幅広く分布したのが美濃伝の刀匠です。織田信長や豊臣秀吉、徳川家康の配下である武将達が全国に散らばり城主となりましたが、その武将達の出身地が美濃に近かったことで、各々は地元である美濃の鍛冶を引き連れて全国に移動したのです。これが要因となって各地に美濃伝が伝わり、新刀の発達に貢献しました。
5つの地域に伝わる刀剣作りの歴史と特徴をご紹介します。
「虎徹」(こてつ)と呼び親しまれている、「長曽弥虎徹」(ながそねこてつ)は、1605年(慶長10年)生まれ。「長曽弥」とは地名で、現在の滋賀県彦根市長曽根のことです。本名は「興里」(おきさと)で、通称は「三之丞」(さんのじょう)。元々は、越前国(現在の福井県)で甲冑師をしていましたが、太平の世になって戦がなくなり甲冑(鎧兜)の注文が減ったため、50歳を過ぎてから刀工となった人物です。
長曽弥虎徹は古い鉄を溶かして日本刀を作ったのが特徴で、当初は「古鉄」と銘を切っていました。しかし、中国の歴史家「司馬遷」(しばせん)が著した「史記」に、「虎に母を殺された李広という男がいた。虎だと思って矢を射たところ、それは虎ではなく石だったが、その威力で石が粉々にくだけた。憎い虎を倒すという一念があれば、石をも徹することができるのだ」という故事があるのを知り、同音の「虎徹」に改名したと言われています。
銘は古鉄、虎徹、乕徹など6種類以上。長曽弥虎徹が存命中から偽物が出回ったため、かなりの頻度で銘が変更されました。なお、「乕」とは、虎の略字です。作風は反りが浅く、数珠刃(じゅずば:数珠の玉のように頭が揃った刃文)で、非凡な切れ味と優れた刀身彫刻が特徴です。
1779年(安永8年)に出版された刀剣書「新刀弁疑」(しんとうべんぎ)では最高ランクの「新刀最上作」に、1797年(寛政9年)に出版された刀剣の切れ味を格付けした「懐宝剣尺」でも、最高ランクの「最上大業物」に選ばれています。
刀工「長曽祢虎徹」の情報と、制作した刀剣をご紹介します。
美濃青野藩(現在の岐阜県大垣市)の藩主で、江戸幕府の若年寄を務めた「稲葉正休」(いなばまさやす)が、自裁(じさい:自分で自分の命を絶つこと)のために虎徹に打たせたと言われる1振です。長曽弥虎徹は、悩みながらもこれを引き受け、精魂込めて完成させ、1678年(延宝6年)に亡くなりました。このような理由で「最後の虎徹」と呼ばれています。
しかし、稲葉正休は最後の虎徹を自裁に使用しませんでした。この刀を使って、1684年(貞享元年)に江戸幕府の大老「堀田正俊」(ほったまさとし)を刺殺するという大事件を起こしたのです。
徳川綱吉
稲葉正休は、堀田正俊を老中次室に呼び出し、「天下のため覚悟」と叫びながら、この脇差で斬殺。堀田正俊の左肩から脇下までを貫通したと言われています。ところが稲葉正休は、老中「大久保忠朝」らによってすぐにその場で取り押さえられ、斬り殺されてしまったのです。
そのため、なぜ稲葉正休が堀田正俊を刺殺したのか、その動機は不明。なお、時の江戸幕府5代将軍「徳川綱吉」が大老の堀田正俊を疎ましく思い、稲葉正休を唆(そそのか)したのではないかと言われています。
その証拠に、将軍・徳川綱吉はこの脇差を密かに引き取り、葵紋を刻ませたと言われているのです。
その後、稲葉家は絶家・廃藩。脇差は、現在も稲葉家のお墓がある日蓮宗報恩山宗延寺(そうえんじ:東京都杉並区)の寺宝となっています。
脇差 銘 虎徹
銘 | 時代 | 鑑定区分 | 所蔵・伝来 |
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虎徹 | 江戸時代 | ― | 稲葉正休→ 宗延寺 |
この脇差の銘が切られた万治3年は1660年。長曽弥虎徹がちょうど55歳の頃です。長曽弥虎徹は50歳から刀工になったので、かなり初期の作品と言えます。「浦島太郎」の刀身彫刻が施されていることから、「浦島虎徹」と呼ばれる脇差です。
浦島太郎と言えば、日本のおとぎ話。昔々、浦島太郎が亀を助けたお礼に竜宮城に連れられて、乙姫様にもてなされ、帰って玉手箱を開けたところ白髪の老人になってしまったという誰もが知っているお話です。
しかし、彫刻をよく観ると、長く延びた筍をもった男が描かれているだけで、亀もいなければ玉手箱もありません。したがって本当は、中国・呉で有名な故事をモチーフにしているのではないかと言われています。それは、親孝行の「孟宗」(もうそう)が病気の母の好物を求めて冬に竹林に入ったところ、筍を得ることができたという話。孝心があればあり得ないことが起こるという、とても良いお話なのです。
なお現在、食用の筍を採るためにいちばん栽培されている竹は、この故事にちなんで「孟宗竹」(もうそうちく)と正式名称が付けられているとのこと。どうやら本刀の押形所有者が「浦島太郎」と断言し、それが流布しただけのようです。
本刀は、重ねが薄くわずかに反りがあり、鍛えは板目肌が流れて地沸がよく付き、刃文は小湾れ(このたれ)に互の目交じりで小足が入り、匂口しまり小沸も付き冴えています。刀身彫刻も人物の表情が柔和で、とても繊細。
偽物が多い長曽弥虎徹ですが、鳥取藩主・池田家に伝来した正真正銘の逸品。鍛刀だけでなく、彫刻も一流と言われた長曽弥虎徹の甲冑師時代の技術が活かされた1振です。
「野田繁慶」(のだはんけい)は、生没年未詳ですが、江戸時代初期の刀工。本名は「小野善四郎」で、三河国(現在の愛知県東部)にて代々「鉄砲鍛冶」を営む家に生まれました。
やがて江戸に出て、はじめは江戸幕府お抱えの鉄砲鍛冶「胝惣八郎」(あかがりそうはちろう)に入門し、「清堯」(きよたか)と名乗ります。たいへん腕が良く、老体の師に代わって、江戸幕府初代将軍・徳川家康の鉄砲鍛冶として、召抱えられることになったのです。
徳川家康が将軍職を「徳川秀忠」に譲り、江戸から駿府に隠居するとき、共に駿河に移ると、鉄砲の他日本刀にも清堯の「彫銘」(ほりめい)を切り、錬刀をはじめました。彫銘とは、彫鏨(ほりたがね)を用いて彫刻のように彫る方法。主に、鉄砲鍛冶が行なう銘の入れ方です。
徳川家康が亡くなって江戸に戻ると、今度は本格的に刀工に転身。「繁慶」と彫銘を切りました。駿府には、日本刀鍛刀の腕利きが集まったので、野田繁慶の師は名工「越前康継」だったのではないかと言われています。
作風は、刃文が沸深く金筋・砂流し盛んにかかる激しい相州伝ですが、地鉄は「ひじき肌」と呼ばれる独特のもの。大板目で、地沸、地景が頻りに入り、海草のひじきを思わせることから名付けられました。誰にも真似することができず、鉄砲の鍛法を用いていたのではないかと考えられています。
刀工「繁慶」の情報と、制作した刀剣をご紹介します。
徳川秀忠
野田繁慶と言えば、江戸幕府2代将軍・徳川秀忠とのやりとりが有名です。
あるとき、野田繁慶の刀を高く評価していた徳川秀忠が、鑑定家の本阿弥に見せてみました。
すると、「これは相州正宗です」と言うではありませんか。徳川秀忠は、「これは新刀、繁慶だよ」と間違いを正すと、本阿弥は「正宗と同じ五行の鉄相があるので、繁慶正宗です」と返したとのこと。
「正宗」と言えば、鎌倉時代の相州伝の名工で、伝法が難しく絶えてしまった秘伝でした。徳川秀忠は野田繁慶を呼び出し、この話を喜ぶと思って「正宗の相伝を受けているのか」と尋ねたところ、「正宗ごときに間違えられるとは無念しごく」と涙をためて悔しがったのです。徳川秀忠は感心して、褒美を与えたほどでした。
そして、徳川秀忠は、全国の一の宮や大社に鉄砲や日本刀の寄進を命じ、野田繁慶にも作刀させました。野田繁慶の奉納刀は、大坂の住吉大社の1振の他に、高野山の金剛三昧院に2振、出雲の日御碕神社(ひのみさきじんじゃ)に1振あります。
本刀は長さが81.81cmと長大で、地鉄は大肌目流れて、地沸が厚く付き、ひじき肌が表れ、刃文は互の目乱れ、足・葉がよく入って荒沸が付き、匂口は沈みごころという野田繁慶の典型作かつ出色の1振。
野田繁慶は信仰心が高く、「自分は天神の夢のお告げによって刀を打つのだ」と豪語していたと言われています。
刀 銘 小野繁慶/奉納接州住吉大明神御宝前
銘 | 時代 | 鑑定区分 | 所蔵・伝来 |
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小野繁慶/ 奉納接州住吉 大明神御宝前 |
江戸時代 | ― | 徳川秀忠 (小野繁慶) →住吉大社 |
「雌雄剣」(しゆうけん)とは、日本刀の大(打刀)と小(脇差)を、動物の雄と雌に例えた一対のこと。雄が大、雌が小となります。
野田繁慶の雌雄剣は、1624年(寛永元年)8月に、高野山金剛三昧院(こんごうさんまいいん:現在の和歌山県)に寄進した2振の日本刀です。刃長は、雄剣が2尺4寸5分(約74cm)、雌剣が2尺3寸6分(約72cm)。雄剣は弘法大師の宝物、雌剣は大師宝前の灯明料として奉納されました。
野田繁慶は信仰心が高いと言われていましたが、反面で妻を娶らず、遊郭(ゆうかく:遊女屋が集まる地域)に入りびたっていたことでも有名でした。野田繁慶の最期は、吉原(現在の東京都中央区人形町にあった遊郭地域)で、斬殺されることになります。犯人は分かっておらず、酒に酔って喧嘩の果てに斬られたという説や、辻斬り(武士が自分の腕を磨くために無差別に斬ること)にあったなど諸説あります。
また、雌雄剣は別々に置くと、互いに泣き出すなどと言われることも。野田繁慶には妻がいなかったため子どももなく、「ひじき肌」という独特の技法もついに伝承されませんでした。
「大和守安定」(やまとのかみやすさだ)は、1618年(元和4年)生まれ。紀伊国(現在の和歌山県)の石堂出身で、本名は飛田(富田)宗兵衛。
江戸に出て、名工「二代康継」に入門し、神田白銀町(現在の東京都千代田区神田)で作刀をしました。50歳を過ぎて作刀をはじめた長曽祢虎徹に、かなり影響を与えた人物と言われています。
切れ味が抜群で「三つ胴截断山野加右衛門六十八歳永久花押」(人体を3つ重ねてよく斬れた刀という意味)など、裁断銘が多く付いているのが特徴です。ただし、反りが浅く剣先が細いため扱いが難しく、使用者を選んだと言われています。
「山田朝右衛門」が刊行した懐宝剣尺で、長曽祢虎徹が大業物だったのに対して大和守安定が良業物だったのは、この差なのかもしれません。
幕末に人気を博し、天才剣士と呼ばれた新撰組の「沖田総司」(おきたそうじ)や、同じく新撰組の「大石鍬次郎」(おおいしくわじろう)が愛用していたことで有名ですが、残念ながら現存はしていません。
「ヲトリ沸」(踊り仏)とは、江戸初期に流行した言葉で、仏が踊り出すと肩の袈裟(けさ:仏様が身に付ける衣服)が落ちることから、「袈裟斬り」と同じ意味だと言われています。袈裟斬りとは、仏様の肩に掛かった袈裟に沿わせるように、相手の左肩から右腰にかけて一文字に斬り下げること。
なお、この袈裟斬りをされると、よっぽどのことがない限り、命は助からないと言われています。転じて、ヲトリ沸(踊り仏)とは、日本刀の切れ味がとても優れていることを讃えた呼び名なのです。
この安定のヲトリ沸(踊り仏)は、二ツ胴切落。人体を2つ重ねて斬れた刀という意味ですが、安定には「天下開闢以来五ツ胴落」(人体を5つ重ねて斬れた刀という意味)の裁断銘がある、とてつもない切れ味の日本刀も存在します。
刀 銘 大和守安定 ヲトリ佛 一生風前雲/
(金象嵌)二ツ胴切落 山中勘三郎智重(花押)<ヲトリ仏>
銘 | 時代 | 鑑定区分 | 所蔵・伝来 |
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大和守安定 | 江戸時代 | ― | ― |
大和守安定を愛刀としたことで有名なのが、沖田総司です。沖田総司は、奥州白川藩(現在の福島県)藩士の子。江戸の市ヶ谷で「天然理心流」4代家元の「近藤勇」(こんどういさみ)から剣術を学んで10代で皆伝を取り、天才剣士と呼ばれました。
その後、脱藩して新撰組に加盟し活躍。1864年(文久4年/元治元年)の「池田屋事件」で使用した「加州清光」が修理不可能となって、近藤勇が使用していた長曽根虎徹に似た安定の1振を愛用したと言われますが、現物は所在不明です。
本刀の号は、「篭瓶」(かごつるべ)。篭瓶とは、籠(竹・籐・柳などの材料)で編んだ釣瓶(桶)のこと。籠で編んだ桶には水が溜まらないことから、水も溜まらぬ切れ味という意味で、切れ味が特に優れていることを讃えて名付けられました。
大和守安定の篭瓶は、四ツ胴切落。人体を4つ重ねて斬れた日本刀という意味です。
脇差 銘 (金象嵌)篭瓶 大和守安定/
(金象嵌)四ツ胴截断 寛文六年六月廿九日 山野加右衛門永久(花押)<籠釣瓶>
銘 | 時代 | 鑑定区分 | 所蔵・伝来 |
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大和守安定 | 江戸時代 | ― | ― |