後鳥羽上皇と御番鍛冶
御番鍛冶の刀工
後鳥羽上皇と御番鍛冶
御番鍛冶の刀工

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愛刀家であった「後鳥羽上皇」(ごとばじょうこう)により、各月交替で作刀を担当する「御番鍛冶」(ごばんかじ)が任じられました。ここでは、御番鍛冶を務めた刀工について、月ごとに詳しく解説していきます。

奉授工 粟田口久国・一文字信房

御番鍛冶の中で、師匠と言える地位の「師徳鍛冶」(しとくかじ)を拝命したのは2名。その2人とは、現在の京都市東山区北西端の地区である、粟田口(あわたぐち)で栄えた刀工集団の開祖「粟田口国家」(あわたぐちくにいえ)の次男「粟田口久国」(あわたぐちひさくに)と、福岡荘(ふくおかのしょう:現在の岡山県邑久郡)で隆盛した刀工集団「福岡一文字派」(ふくおかいちもんじは)の「一文字延真」(いちもんじのぶまさ)の子「一文字信房」(いちもんじのぶふさ)。

これは「奉授工」(ほうじゅこう)と呼ばれ、上皇に鍛刀技術の手ほどきをする師範役であり、作刀の相槌(あいづち:師が槌を打つ合間に弟子が槌を打つことを許されること。現代の相槌の語源)などを行なう役目です。

これによって、久国と信房は御番鍛冶を取り仕切る役を務めることとなり、御番鍛冶に任じられる刀鍛冶は、山城国の粟田口派と、備前国の福岡一文字派の刀工がそのほとんどを占め、さらに、備中国青江(現在の岡山県倉敷市)の刀工一派「青江派」を加え、月ごとの勤番を担いました。

久国は、自ら閏月(うるうづき)番も担当。「閏月」とは、一般的に「旧暦」とも呼ばれる「太陰太陽暦」(たいいんたいようれき)において、3年に1度加えられる月のこと。その1年は13ヵ月になります。

また、久国は「大隅権守」(おおすみごんのかみ)、信房は「長原権守」(ながはらごんのかみ)という「受領名」(ずりょうめい)を授けられました。受領名とは、主に室町時代から戦国時代にかけて、職人が一種の称号として名乗ることを許された「国守」(こくしゅ)の官名です。後鳥羽上皇に会って共に作刀するためには官位が必要であったとされ、刀工としては初めて受領することとなりました。

正月:一文字則宗 備前

「一文字則宗」(いちもんじのりむね)は、福岡一文字派の祖で備前国(現在の岡山県)の刀工であり、「古一文字」(こいちもんじ)とも呼ばれる刀工のひとりです。

御番鍛冶としては正月番を担いましたが、特筆すべき点は、16葉の「菊紋」を切るのを許されたことで、それによって則宗が打った一連の作品は「菊一文字」(きくいちもんじ)、もしくは「菊一文字則宗」と呼ばれることになりました。菊は後鳥羽上皇が好んだ自身の印であり、のちに皇室の印として定着していきます。

しかし、実際には、則宗の作品で菊紋の切られた日本刀(刀剣)は現存しません。そのため、一説には「菊一文字則宗」とは「菊御作」(きくごさく)と混同した、後世の誤伝(ごでん:間違って伝えられること)ではないかと考えられています。

則宗が打った作品は、古備前(こびぜん)の鍛冶よりも技工性が感じられ、作風は姿が細身で腰反りが高く付いて上品。刃文(はもん)は小乱(こみだれ)で、(なかご)は雉子股茎(きじももなかご)となること多いのが特徴です。則宗が制作した一連の日本刀(刀剣)を、「則宗」と総称することもあります。

太刀 銘 則宗

太刀 銘 則宗

2月:青江貞次 備中

「青江」とは、備中国青江(現在の岡山県倉敷市)で栄えた刀工集団です。開祖は「青江守次」(あおえもりつぐ)。平安時代末期から南北朝時代まで優れた刀工を輩出しました。

青江派の刀工は、年代別に「古青江」(こあおえ)、「中青江」(ちゅうあおえ)、「末青江」(すえあおえ)に分けることができ、鎌倉時代中期までの古青江と、南北朝時代の末青江は明らかに異なる特徴があり、その中間に位置する作品を中青江と呼び分類しています。末青江の小板目鍛えの地鉄(じがね)は、古青江と比べて詰んで冴え、映りは立って潤いがあり、逆足(さかあし)の入る直刃調(すぐはちょう)の焼刃が特徴。

青江守次の長男として生まれた「貞次」(さだつぐ)は、御番鍛冶の2月番を担当しました。日本刀(刀剣)の鑑定で知られる「本阿弥家」(ほんあみけ)から、無銘の青江物として最高の評価を受けています。

東京国立博物館

東京国立博物館

東京国立博物館に所蔵されている「太刀 古青江貞次」は、重要文化財に指定された逸品。

地鉄は板目肌が立ち、「澄肌」(すみはだ)と呼ばれる黒い斑点が現れています。刃文は小乱刃に小丁子刃交じり。刃中に小沸が良く付いて、(よう)が入るなど、複雑な変化を見せています。

太刀 古青江貞次

太刀 古青江貞次

3月:一文字延房 備前

福岡一文字派の「延房」(のぶふさ)は、師徳鍛冶である一文字信房の子であり、父と共に御番鍛冶として3月番を勤めました。また、後鳥羽上皇から「全国鍛冶長者」(日本国鍛冶長者とも)に任じられた延房ですが、父の信房と名前が似ていることもあって、同一人物だとする説もあります。そのため、情報が混同されている部分があり、父の方が全国鍛冶長者で、延房は「備前鍛冶奉行」に任じられたとも言われているのです。

「太刀 延房」の刃文は、所々に小互の目乱れ(こぐのめみだれ)風の足が入るなど華やかで、刃幅に広狭があり、父・信房作の作品より良く冴えています。ただし、同じ福岡一文字の則宗や「助宗」(すけむね)ほど、刃文に大きな粒子の(にえ)付きがなく、焼刃は霞みがかったような細かい粒子のが主体。地肌(じはだ)は大肌(おおはだ)が混じりますが、余り目立ちません。は延房、または延房作と切られています。

また延房は、宇都宮家が家宝として代々伝えている宝刀「壺切丸」(つぼきりまる)の作者としても有名になりました。

太刀 延房作

太刀 延房作

4月:粟田口国安 山城

「粟田口国安」(あわたぐちくにやす)は、粟田口派の開祖である粟田口国家の3男で、師徳鍛冶である粟田口久国の弟です。御番鍛冶では4月番を勤めることになり、「山城守」(やましろのかみ)の官名を受領したと伝えられています。

刀身彫刻である(ひ)のある作品が多く、兄弟の中では一番肌立つと言われ、後鳥羽上皇が所持したとされる「吹毛剣」(すいもうけん)も伝承されていますが、現存している作品は少数しかありません。

ちなみに、吹毛剣は明代の中国で書かれた伝奇時代小説の大作「水滸伝」(すいこでん)の登場人物「楊志」(ようし)が持っていた名刀と同じ名前です。関係は不明ですが、その名の由来は、髪の毛を刃に吹きかけるだけで切れてしまうほどと言われる切れ味にあります。

東京国立博物館に所蔵されている「太刀 銘 国安」は重要文化財。刃文がやや潤んだ小乱れであるところに、国安の特徴が出ています。腰反りが強く、元幅に比べて先幅は細め。銘のある国安の日本刀(刀剣)は少なく、貴重です。

太刀 銘 国安

太刀 銘 国安

5月:青江恒次 備中

「青江恒次」(あおえつねつぐ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した刀工。青江派の開祖である守次の次男で、青江派は現在の岡山県倉敷市にある備中国青江で栄えました。恒次の兄・貞次と弟・次家(つぐいえ)も有名な刀工で、多くの名作を残しています。

重要文化財である「数珠丸恒次」(じゅずまるつねつぐ)は恒次を代表する作品で、「天下五剣」(てんがごけん)の1振です。天下五剣とは、特に名高い5振の日本刀(刀剣)を指す名称で、数珠丸恒次の他に「童子切安綱」(どうじぎりやすつな)、「鬼丸国綱」(おにまるくにつな)、「三日月宗近」(みかづきむねちか)、「大典太光世」(おおてんたみつよ)があります。

数珠丸は、もともと「日蓮」(にちれん)が「身延山」(みのぶさん)に入山する際の護身用として寄進された太刀だと伝えられています。日蓮が入山したのは53歳で、そこから亡くなる61歳まで愛刀として所有・保管していました。不正を打破し、正義を明らかにするという意味で「破邪顕正の剣」(はじゃけんしょうのけん)とし、日蓮がその柄に数珠を巻いていたのが名前の由来とされています。

本興寺

本興寺

現在は、兵庫県尼崎市にある法華宗(本門流)の本山、本興寺(ほんこうじ)に所蔵。11月3日の文化の日に行なわれる「虫干し会」で一般公開されます。この日には、名刀を一目見るため多くの刀剣ファンが集まるとのこと。

一方、最近の研究では、数珠丸に切られた銘の位置や茎の鑢仕上げ(やすりしあげ)などが一般的な青江派の作品と異なることから、古備前物とする説もあります。

数珠丸恒次

数珠丸恒次

6月:粟田口国友 山城

「粟田口国友」(あわたぐちくにとも)は、山城国(現在の京都府)粟田口派の刀工です。粟田口派は、現在の京都市東山区である粟田口で興され、鎌倉時代初期から中期にかけて栄えました。開祖である国家の息子6人を「粟田口六兄弟」と呼び、国友は長男にあたります。

国友は、左衛門尉(さえもんのじょう:京の内裏の警備を司る仕事)にも任命され、「藤林左衛門尉」(ふじばやしさえもんのじょう)と称した名工です。御番鍛冶12名体制では6月を、御番鍛冶が24名体制だとする説では「備前国包道」(びぜんのくにかねみち)と共に、1月の番鍛冶を担当したと言われています。

作風は、粟田口一門の中でも特に気品にあふれ、地肌は木の年輪のような小杢目肌(こもくめはだ)。刀工の銘は、佩表(はきおもて)に「国友」の2文字が刻まれました。

熱田神宮

熱田神宮

現存する作品は数点のみですが、そのうちの1振が熱田神宮宝物館(あつたじんぐう:名古屋市熱田区)に所蔵されている「太刀 銘 国友」です。

この太刀は、資料として貴重であるのはもちろんのこと、長さ75.8cm、反り2.2cmの高貴な姿が特色で、名刀とされています。

太刀 銘 国友

太刀 銘 国友

国友は、「古刀銘尽大全」(ことうめいじんたいぜん)によれば、1213年(建保元年)に67歳で没しました。

また、国友の子や孫が有名な刀工であることも良く知られており、息子「則国」(のりくに)の「太刀 銘 則国」は京都国立博物館に所蔵。孫である「国吉」(くによし)の「鳴狐」(なきぎつね)は東京国立博物館に所蔵されています。

7月:一文字宗吉 備前

「宗吉」(むねよし)は、「福岡一文字」の開祖・則宗の娘婿にあたる刀工です。一文字派は、鎌倉時代初期から南北朝時代末期にかけて約300年にも亘って栄えました。一文字派には、この福岡一文字の他に「吉岡一文字派」や「片山一文字派」など、様々な流派が存在します。

福岡一文字派が開かれた福岡(岡山県東部)は、皇室の荘園だったこともあり、後鳥羽上皇の御番鍛冶12名には福岡一文字派から7名が選ばれました。もちろん、地理的な条件だけでなく鍛冶の腕も確かな刀匠が揃っていたため、時代を代表する流派としての地位を築いたと言えます。

福岡一文字派の中でも鎌倉時代初期の則宗、助宗、宗吉、「成宗」(なりむね)、「宗忠」(むねただ)などの刀工を古一文字(こいちもんじ)と呼び、別格として扱われているのです。古一文字の作品は、いずれも刃文が美しく、造りもしっかりとしています。

宗吉も7月の番鍛冶に選ばれた他、「隠岐国御番鍛冶」(おきのくにごばんかじ)にも挙げられたと伝わるほどの名匠です。作風は、焼幅が狭くおとなしい印象があり、地肌は福岡一文字の中で最も弱いのが特徴。「宗吉作」の太刀の1振は熱田神宮に所蔵されており、長さ78cm、反り2.7cm、元幅2.7cm。細身で反りが強く、踏ん張りのある姿を持ちます。

太刀 銘 宗吉作
太刀 銘 宗吉作
宗吉作
鑑定区分
重要美術品
刃長
76.1
所蔵・伝来
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

8月:青江次家 備中

8月を担当したのは「次家」で、流派は古青江です。この青江の名は、平安時代末期に刀工達が在住した備中国子井庄青江の地名からきています。青江は次家の祖父である「安次」(やすつぐ)を祖としますが、残念ながらその作品は現存していません。そのため、青江は安次の子で、次家の父である守次を開祖とするのが一般的です。

青江帽子

青江帽子

青江の地肌は「縮緬肌」(ちりめんはだ)と言い、小杢目肌(こもくめはだ)が立った肌合いで、澄肌と呼ばれる地斑(じふ)が見られます。

鋒/切先は、匂が締まって横手から突っかけて内に入り、尖りごころがあって返る「青江帽子」。

そして、茎の鑢目(やすりめ)を大筋違(おおすじかい)に切るのが特徴です。

次家の兄である貞次、恒次も優れた刀工として知られ、共に後鳥羽上皇の御番鍛冶を勤めました。

現存する次家の太刀は、身幅が狭めで小鋒/小切先。踏張りが強く腰反りが高くなっています。地鉄は、板目が大きく流れており、肌立ち地沸(じにえ)付きです。刃文は、広直刃調(ひろすぐはちょう)で小乱が交じり、小沸(こにえ)出来。鋒/切先は掃けて焼き詰まっています。銘は、佩裏(はきうら)の目釘(めくぎ)の下に2文字銘に切られました。

9月:一文字助宗 備前

上杉謙信

上杉謙信

9月の御番鍛冶を勤めたのは、福岡一文字で「修理亮」(しゅりのすけ:修理職の次官)に任じられた「助宗」(すけむね)。福岡一文字の祖であり同じ後鳥羽上皇の御番鍛冶で正月を担当した則宗の子で、才能にあふれ、父の古一文字に対して「大一文字」と呼ばれています。

現存する助宗銘の作品は極めて少なく、その中で最も知られているのが山形県米沢市松岬神社(まつがさきじんじゃ)にある1振。その太刀は、かの戦国時代の名将「上杉謙信」の愛刀で、のちに嫡子の「景勝」(かげかつ)が継承し、その後、大正時代に藩祖である謙信と景勝を祀った松岬神社に上杉家から奉納されました。

太刀「謙信助宗」(けんしんすけむね)は、鎬造り(しのぎづくり)、丸棟(まるむね)となり、細身で腰反りが高く、小峰(こみね)が詰まって踏張りがあり、優美な太刀姿です。鍛えは小板目肌(こいためはだ)がよく詰まっていて地沸がついており、淡く乱れ映りが立っています。刃文は、直刃調に浅く湾れて小丁子足(こちょうじあし)良く入っていて、所々に砂流しがかかり、鋒/切先は上品に直ぐ返る小丸帽子。刀身の表裏に巧みに棒樋(ぼうひ)を掻流し(かきながし)、茎は雉子股形(きじももがた)の生茎(うぶなかご)で、先が細って浅い栗尻(くりじり)となり、佩表に2字銘があります。

助宗はまた、後鳥羽院御守刀の「菊丸」(きくまる)、「雁丸」(かりまる)の作刀も手掛けました。

10月:一文字行国 備前

10月の御番鍛冶を勤めたのは、福岡一文字の「行国」(ゆきくに)です。古一文字則宗の孫で、助行の子にあたり、福岡一文字の中でも「助行系」と呼ばれることもあります。「河内守」(かわちのかみ)に任じられたとも、河内石川に住んでいたとも言われる行国。同銘の行国には、1329年(元徳元年)頃に活躍した中青江の刀工と、1346年(正平元年)頃に活躍した肥後の合志(こうし)在住の刀工がいます。

福岡一文字は、備前長船(おさふね)に隣接する福岡庄に在住した名匠達の総称。後鳥羽上皇の番鍛冶では、粟田口の2名、青江の3名より遙かに多い7名が名を連ねています。その理由としては、福岡が製鉄、刀鍛冶が盛んで名工が多い土地だったこともありますが、もともと備前は「後白河院」(ごしらかわいん)の荘園であったことから、皇室との結び付きが強かったのも大きな理由です。

「一文字」の呼称は、茎に「一」の字を切るところからきています。ただし、則宗や助宗は銘として自身の名前を切るだけで、一の字を切ることはありません。他には一のあとに制作者名を切る刀工もいますが、単に一の字だけを切る銘の作品も多く、刀工を特定することが難しいとされています。

11月:一文字助成 備前

「助成」(すけなり)は、御番鍛冶11月を勤めた福岡一文字の名工です。「鎌倉一文字」を開いた「助真」(すけざね)の親とも言われています(※異説あり)。

その作品は、鎌倉時代初期の太刀姿で、地鉄は小板目が肌立ち気味です。刃文は、直刃に丁子足(ちょうじあし)が入った直丁子乱で、小沸が付いて匂口が沈みごころ。銘は一の文字を切っています。

福岡一文字派の太刀の特徴は、長寸で踏張りのある上品な姿をしているところです。身幅、重ね共に頃合ですが小鋒/小切先となっています。刃文は重花丁子乱(じゅうかちょうじみだれ)や大房丁子乱(おおふさちょうじみだれ)を得意としており、その華麗さでは天下一品。おおむね古備前より技巧的で明るさがあると言われています。

福岡一文字をはじめとする一文字派の一の意味は、元祖である則宗が後鳥羽上皇より「天下一」の名匠であるという言葉を賜ったことから、その名誉をたたえるために代々制作者名の代わりに切ったとのことです。

福岡一文字

福岡一文字

12月:一文字助延 備前

12月の御番鍛冶を勤めた「助延」(すけのぶ)は、古一文字則宗(のりむね)の孫で、1184年(元暦元年)の頃に活躍した「助行」(すけゆき)の3男。福岡一文字派で「備後守」(ひごのかみ)に任じられ、一説には7月の御番鍛冶を勤めた宗吉の妹婿とも言われます。

作品の特徴は、植物の蕾が重なり合ったような刃文の小丁子に小沸付き。小さく複雑な小乱を焼くと言います。

初期の一文字派は、銘に一の字を切らず、刀工の名前だけを切っていましたが、鎌倉時代中期以降になって一の字だけを切る刀工がたいへん多くなりました。

一の字の切り方によって、備前・備中を拠点とした一文字派の4流派、すなわち福岡一文字、鎌倉時代末期に興った吉岡一文字、鎌倉時代末期に作刀し「岩戸一文字」とも称される「正中一文字」、福岡一文字派の則房が片山に移住したことにより誕生した片山一文字のどこに属する刀工なのか判別できるとされています。

閏月:粟田口久国 山城

御番鍛冶の奉行を務めると共に、閏月を担当する久国は、名を「藤次郎」(とうじろう)と言い、大隅権守に任じられました。粟田口派の祖と言われる国家の次男です。古刀銘尽大全によると、久国は後鳥羽上皇の御番鍛冶として約8年間勤めたとあり、1216年(建保4年)に67歳で死去したと記されています。

名工揃いと言われる粟田口派の中でも、技巧と格調の高さで随一とされる久国。自ら作刀するほど日本刀(刀剣)を愛した後鳥羽上皇の鍛刀の師としても知られています。

その作品は、少ないながらも太刀と短刀が現存し、なかでも国宝の「西条藩主松平家旧蔵太刀」(さいじょうはんしゅまつだいらけきゅうぞうたち)が有名。これは、もともと「徳川家康」秘蔵の1振で、のちに家康の10男で紀州徳川家の祖「頼宣」(よりのぶ)に与えられ、さらに紀州徳川家の支藩である西条松平家に分与されました。刃長2尺6寸5分(100.7cm)、腰反り、踏張りつきの優美な太刀姿です。鍛えは、地沸を微塵に厚く敷いた美しい梨子地肌(なしじはだ)。この他にも重要文化財に指定されている3振があり、その技巧は卓越しています。

銘は、2字に「久國」と切る場合と、5字に「藤次郎久國」と切る場合があり、かつては久国には2代があると言われましたが、近年では同一人物の切り銘による年代の変化ではないかとの説が一般的です。

太刀 粟田口久国

太刀 粟田口久国

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