歴代天皇家と刀剣の歴史

攘夷の筆頭 孝明天皇と刀剣

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「孝明天皇」(こうめいてんのう)は、激動の幕末維新期、アメリカやヨーロッパ諸国が開国と通商を要求するなか、開国路線を採る徳川幕府に対して攘夷(じょうい)を唱えて譲らず、徳川幕府崩壊のきっかけを作った人物。35歳という若さで病没するまで、国民を守るために生涯を尽くしました。孝明天皇が幕末維新期に果たした役割と、孝明天皇にまつわる刀剣についてご紹介します。

孝明天皇は激動の中で天皇に即位した

孝明天皇

孝明天皇

孝明天皇」(こうめいてんのう)は、1831年(天保2年)「仁孝天皇」(にんこうてんのう)の第4皇子として生まれました。

4年後の1835年(天保6年)に親王宣下されて「統仁親王」(おさひとしんのう)に、さらに1841年(天保12年)に皇太子となり、1846年(弘化3年)1月に仁孝天皇が崩御したことを受け、2月に践祚(せんそ:天皇の位を受け継ぐこと)して第121代の天皇に即位します。

しかしこの時、日本は危機に見舞われていていました。それは、欧米勢力の進出。

江戸時代中ごろの1739年(元文4年)、ロシア船が太平洋沖に出現したことをきっかけに、ロシアやイギリスが日本に対して執拗に開国と通商関係の樹立を迫っていたのです。外交を厳しく制限する「鎖国」を国是とする幕府は、当然ながら申し入れを拒否します。

しかし、要求は増大する一方であり、1806年(文化3年)には、ロシア使節「レザノフ」の部下が蝦夷地(北海道)で乱暴狼藉を働きました。

対して幕府は、弘前藩(津軽藩)・南部(八戸南部藩)の両藩に加え、東北諸藩に蝦夷地出撃を命じた一方で、東北と越後(現在の佐渡を除く新潟県全域)の諸大名に海防の強化を命じます。

1807年(文化4年)には、日本中がこの噂で持ち切りになり、江戸では「日本が択捉(えとろふ)島で大敗し、ロシア軍が奥州に攻め込んでくる」という話にまで膨れ上がる始末。

さらに、噂は上方にも流れたため、幕府は朝廷に対して「対外情勢は今までに例がないほど緊迫している」、「巷で噂されているロシアとの軍事衝突の可能性は皆無」などの報告書を提出し、不安の解消を図るほどでした。

西洋に対する関心が高まるなかで見えてきたのは、西洋諸国が日本とは比べものにならないほどに高い軍事力を擁している点。1840年(天保11年)から1841年(天保12年)にかけては、さらに不安を煽り立てる事態が起こります。

「アヘン戦争」によって清国がイギリスに大敗を喫し、香港島などを割譲される屈辱的講和を強いられたのです。

大国と信じていた清国が、ヨーロッパ勢力に蹂躙(じゅうりん)されつつある現実を知ると、日本人の誰もが「日本も清国の二の舞になるかも知れない」という恐怖を抱きました。そして、この恐怖は「西洋諸国より優れた点が日本国にはあるのか?ないのか?」という、日本人としての有り方を問う事態に発展。

この問いに対する回答として人々が意識したのは、「日本は世界に例を見ない、万世一系(ばんせいいっけい:永くひとつの系統が続くこと)の皇統を誇る神国」という論です。この思想は、江戸時代中ごろから存在していましたが、唱えるのは国学者など一部の学識者のみでした。

しかし、外圧が高まるなかで日本の独自性、及び西洋諸国に対する優越点として、にわかに人民の心を動かします。

このように、天皇個人に対して高い関心が集まるなかで、孝明天皇は皇位を継承したのです。

孝明天皇の使命は民の暮らしを守ること

孝明天皇が即位して間もない1846年(弘化3年)閏5月、アメリカ東インド艦隊司令長官「ビットル」が、日本との通商関係樹立を求めて浦賀沖に来航します。

これまで、欧米勢力が通商関係の構築を求めることは度々ありましたが、常に「使節」という形式を採っていました。しかし、今回は巨大戦艦2隻を率いての恫喝(どうかつ)に近い形式。この砲艦外交は、日本社会を震え上がらせました。

孝明天皇は、1846年(弘化3年)8月29日、幕府に御沙汰書(おさたがき:江戸城中の政治や将軍などの動向を記した報告書)を下します。内容は「最近、異国船の来航が多いとの風聞を耳にする。神州(神の国)の名誉を損なわないように、適切な指揮を執ることを望む」。同年10月3日、御沙汰書の発令を受けて幕府は、宮廷付きの旗本「明楽茂正」(あけらもせい)に外国船来航の状況を報告させます。

非常時とは言え、この一件は朝廷と幕府の関係に一石を投じた形となりました。

朝廷は、江戸時代初期に制定された「禁中並公家諸法度」(きんちゅうならびにくげしょはっと)により政治への口出しを禁じられていたにもかかわらず、この法令を天皇自らが破ったのです。孝明天皇の要請に幕府が応じたことで、幕府は対外関係の報告を朝廷に行なうことが慣例化しました。

ペリー来航

ペリー来航

1853年(嘉永6年)、アメリカ東インド艦隊司令長官「マシュー・ペリー」が軍艦4隻を率いて浦賀沖に来航。合衆国大統領「フィルモア」の親書の受け取りと開国を求めるという事件が起きます。ペリーは、親書を強引に受け取らせると「来年には再度来航し、開国の回答をもらう」旨を伝えて去りました。

幕府は、前年にはオランダ経由でペリー艦隊来航の情報を掴んでいましたが、有効な手を打つことができずに右往左往します。老中の「阿部正弘」(あべまさひろ)に至っては、諸大名・旗本・民間に対して対処法を問う有様。これまでの外交は、幕府が独占してきました。しかし、新時代のうねりに幕府が対応できないという異常事態となったのです。

1854年(嘉永7年)1月、ペリー艦隊は再度来航すると「開国やむなし」という意見が大多数だったことから、「日米和親条約」を締結。「下田と箱館(函館)の開港」、「薪水や食料の給与」、「領事の滞在」などを認可した上で、さらにイギリス、ロシアとも同様の条約を締結します。

なお、日米和親条約は「通商」に関して一切触れられていない点においては「和親条約」ではなく、「友好条約」と形容するにふさわしく、本来の意味での開国とは一線を画していますが、幕府が自ら「鎖国体制」に終止符を打ったという点では画期的な結果になったと言えるのです。

条約締結に際しての孝明天皇の反応は、具体的史料を欠くため判然としません。しかし、武家伝奏の「三条実万」(さんじょうさねむつ)が幕府京都所司代に「やむをえられず、当時の御良策、これに有るべくと愚察(ぐさつ)致しており」と伝えていることから、孝明天皇自身もやむをえないものとして受け容れたと推察されます。

「朝な夕な 民のかまどのにぎはひを なびく煙に おもいひこそやれ」

「朝ゆふに 民やすかれとおもふ身の 心にかかる 異(こと)くにの船」

これは、孝明天皇の内心を裏付ける御製(ぎょせい:天皇が作った詩歌)と言われている句。孝明天皇は、ペリー来航以来、騒然とする国情を鑑みて、日本国に住む人々の安寧な生活を守ることこそ、自身に課せられた使命であると考えていたと推測できます。

孝明天皇は、1854年(嘉永7年)の段階では開国に対して一定の理解を示していましたが、1858年(安政5年)の通商条約締結、つまり本来の意味を持つ開国の際には、幕府の求める「勅許」(ちょっきょ)を出すことを頑として拒絶しました。

孝明天皇が開国を拒絶した理由とは

孝明天皇が通商条約締結に猛反対した理由として、「世界情勢を知らなかったから」という意見が挙げられることがありますが、これは誤りです。

孝明天皇は、1857年(安政4年)の段階で幕府からの事情説明があったため、世界情勢はしっかりと把握していました。

孝明天皇が受けた説明は、最新の洋書を輸入・翻訳して得た情報を基本とし、

  • ここ50年来、万国の形勢が一変した結果の来航
  • 諸外国がアメリカと同盟関係にある
  • 鎖国制度を止めることにさほどの問題はない
  • 諸外国とのトラブルが生じて悲惨な状況になった例として清国がある
  • 清国は欧米諸国と戦争をして以来、現在も内乱状態にある
  • 外国人居留民に解放するのは江戸近郊に限る

など、こと細かい説明だったと言われています。孝明天皇は、国際情勢と日本が置かれている状況を充分に理解したうえで、開国阻止へと動いたのです。

なお、孝明天皇が開国を拒絶した理由は諸説ありますが、最も有力なのは内乱勃発に対する危惧。尾張藩主の「徳川慶勝」(とくがわよしかつ)から寄せられた書簡には「条約締結を孝明天皇自身が勅許するようなことがあれば、天下国家にとって大不孝」という文言があり、勅許を出したことが要因となって幕府が分裂し、内乱に発展するようなことがあれば、民の暮らしはどうなるか、想像に難くありません。

また、他の要因としてはアメリカ総領事「タウンゼント・ハリス」が日本の伝統などを完全無視し、自分達の価値観を無理に押し通して交渉していることへの反感や、日米和親条約での取り決めは、「食料」、「飲料水」、「石炭」などの生活必需品などに限られていたにもかかわらず、「反物」、「塗物」、「瀬戸物」、「和紙」、「錦絵」、「京細工物」など伝統工芸品が多数流出している現実などが挙げられます。

孝明天皇は、日本側が不利や不利益を被る事態を回避して、日本国民と伝統・文化を守るために、開国を拒絶したのです。

しかし、孝明天皇の願いは叶いませんでした。1858年(安政5年)、幕府の大老「井伊直弼」(いいなおすけ)は、孝明天皇の勅許を得ないまま、アメリカとの間に「日米修好通商条約」を締結。同様の条約は、「イギリス」、「オランダ」、「ロシア」、「フランス」との間でも結ばれ、日本は国際社会の真っ只中に放り出されるのです。

御製に込められた孝明天皇の願い

「桜田門外の変」で井伊直弼を失った幕府が、公武合体による権威の回復を求めて「皇女和宮」(こうじょかずのみや)の降嫁を願い出ると、将軍による攘夷を条件にこれを勅許。

さらに、1863年(文久3年)に14代将軍「徳川家茂」(とくがわいえもち)が上洛すると、孝明天皇は攘夷祈願のために将軍を伴い、「賀茂神社」(「上賀茂神社」及び「下鴨神社」の総称)と「石清水八幡宮」に行幸しました。

こうした中で孝明天皇の心の拠り所となったのは、刀剣だったのではないかと言われています。それを裏付けるのは、皇室に代々伝えられる「三種の神器」のひとつ「草那芸之大刀」(くさなぎのたち)を詠んだ御製。

「草薙ぎの その御剣(みつるぎ)の 例(ため)しにも たちまち払ふ 異国の船」

草那芸之大刀は、天照大御神の弟「須佐之男命」(すさのおのみこと)が、地上に降り立って「八岐大蛇」(やまたのおろち)を退治した際、8頭8尾の化け物の尾から発見した大刀。天上世界の「高天原」(たかまがはら)に保管されていた神剣で、のちに「邇邇芸命」(ににぎのみこと)に与えられたと言われています。

天叢雲剣

天叢雲剣/草薙剣

また、「倭健命/日本武尊」(やまとたけるのみこと)が「東国平定」を行なう際にも霊威(れいい)を発揮したと言われており、尾張国(現在の愛知県西半部)の「熱田神宮」に祀られていました。

草那芸之大刀の別名は「天叢雲剣」(あめのむらくものつるぎ)または「草薙剣」(くさなぎのつるぎ)。名称の由来は、いったん抜き放てば空に雲が湧きたち、激しい風雨を呼ぶため。

前出した御製の中にある「例しにも」からのくだりには、「草那芸之大刀の霊的な力によって暴風雨が起き、異国船をすべて追い払ってほしい」と言う願いが込められており、これは鎌倉時代中ごろの「元寇/蒙古襲来」で、神風が吹いたために侵略軍を退けられたと言う出来事にちなんでいると推測されます。

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日本の剣~神剣・鉄剣~

孝明天皇の短刀拵と佩刀

鳥取県の「渡辺美術館」が所蔵するのは、孝明天皇の御差料(ごさしりょう)であったと言われる短刀「銘 後藤光熈」(ごとうみつひろ)。

「後藤光熈」は、京都に生まれ、幕末維新期から明治時代にかけて活躍した刀工で、弟「後藤一乗」(ごとういちじょう)と共に「名人」と讃えられた人物です。

短刀 銘 後藤光熈の(こしらえ)は、全長39.5cm、重量335g。全体を赤胴色の漆で塗り固め、金の金具を配しており、濃い茶系の色が金の艶やかさをひときわ引き立てています。金具の装飾はすべて、雲の上で体を躍動させる雲龍(うんりゅう)。

このような渋みと華やかさをかね備えた短刀拵(たんとうごしらえ)は、幕末時代の公家所有の拵に多く見られるため、京都の朝廷内において一時的な流行りがあったのではないかと推測されますが、その一方で幕末時代の朝廷は経済的に苦しかったという話があります。孝明天皇の短刀拵は、どう見ても特別注文の逸品。有力な大名からの献上品である可能性も捨てきれませんが、真相は定かではありません。

(つか)と(さや)は、鉄刀木(たがやさん:アジアで栽培されるマメ科の広葉樹)を使用。鉄刀木は、重くて堅いため、耐久性に優れています。鉄の刀剣をイメージさせることから「鉄刀木」と名付けられました。

なお、拵内に刀身はなく、その行方も分かっていませんが、鎌倉時代後期の刀工「国俊」(くにとし)の作であったと言われています。

孝明天皇が佩いた太刀は、「無銘 伝正宗」。「正宗」は、正式名称を「五郎入道正宗」(ごろうにゅうどうまさむね)と言い、南北朝時代の初期に活動した「相州伝」の刀工。

相州伝は、鎌倉時代の中ごろ、幕府が置かれていた鎌倉を中心とした地域に、各地の刀工が移住して始まりました。無銘 伝正宗は力強く、流れるような美しい刀身が特徴で、孝明天皇の佩刀も「一点の曇りもなし」という表現が適した逸品です。

刀 無銘 伝正宗
刀 無銘 伝正宗
無銘
鑑定区分
特別重要刀剣
刃長
68.2
所蔵・伝来
孝明天皇→
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

攘夷の筆頭 孝明天皇と刀剣

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