歴女も憧れる女剣士ヒストリー

富田信高の妻

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伊勢国(三重県)安濃津(あのつ)城主・富田信高(とみたのぶたか)の妻。肥前平戸(ひぜんひらど)藩主・松浦鎮信(まつうらしげのぶ)が著した戦話「武功雑記」(ぶこうざっき)にも記される、夫の命を自らの槍合わせで救った富田信高の妻の武勇を紹介しましょう。

安濃津城の戦いで夫を救った、女武者

富田信高の妻

富田信高の妻

戦国の武将、宇喜多忠家(うきたただいえ)の娘として生まれた富田信高(とみたのぶたか)の妻。

史実には実名さえ残されていませんが、夫・富田信高の命を守るため、わが身も投げ打つ思いで安濃津城の戦に臨んだ「夫思いの女武者」として名を残す逸話の主人公として知られています。

数奇な運命をたどる、勇敢な妻の生きざまとは

宇喜多忠家の娘として生まれ、富田高定(とみたたかさだ)の甥にあたる武将・富田信高に嫁ぎ、20代なかばの若さで自らの命を投げ出す覚悟をもって夫を守った逸話は、数々の戦国記の女武士伝説にも取り上げられています。

武芸にすぐれ夫を愛した彼女の人生は、数奇な運命の連続でした。

夫・富田信高のルーツ

富田信高

富田信高

夫の富田信高は、富田一白(とみたいっぱく)の長男として、近江国(滋賀県)で生を受けました。

父の富田一白は織田信長の家臣でしたが、「本能寺の変」のあとは豊臣秀吉に仕え、豊臣秀吉の関白就任後は側近として活躍し、東国大名との外交などを担当。

1592年(文禄元年)の「朝鮮出兵」にて功績を積み、伊勢国・安濃津城に5万石を与えられました。

そして富田信高も父にならい、豊臣秀吉に仕えることになります。父の富田一白が隠居して家督を継ぎ、1599年(慶長4年)に安濃津城主となったのです。

「東海の関ヶ原」とも呼ばれた合戦

伊勢国・安濃津城で徳川方の東軍と豊臣方の西軍が激突した、「安濃津城の戦い」。「関ヶ原の戦い」直前の1600年(慶長5年)に始まったこの戦で、東軍につく城主・富田信高は豊臣方の西軍に城を攻められました。

3万の大軍に攻め入れられながらも牙城を守る

徳川家康

徳川家康

当時、富田信高は安濃津城5万石の城主。その翌年の1600年(慶長5年)、徳川家康が関ヶ原の戦いの前哨戦とも言える会津征伐(上杉景勝征伐)の軍を起こすと、富田信高も300人の兵を率いて従軍しました。

しかし徳川家康は、安濃津城が交通の要衝に位置することから、富田信高を帰還させ、防備を固めるように命じたのです。

急ぎ伊勢国に帰国した富田信高は、西軍と激しい戦いを繰り広げることになります。

西軍は毛利秀元、長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)、吉川広家、長束正家(なつかまさいえ)らを筆頭に3万人の兵を擁していました。伏見城を落城させたあと、安濃津城に攻め寄せて総攻撃を開始します。

一方の富田信高率いる東軍の将兵は1,700人。圧倒的な兵数優位で西軍の勝利は確実と思われていました。しかし、東軍は次々と外郭を奪われるも、少ない兵で必死に城を守り続けました。

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自刃を決意するも本丸に戻れず

そんな中、戦局を動かしたのが西軍の大砲攻撃でした。毛利秀元と吉川広家が行なった砲撃で、櫓(やぐら)が撃破され二の丸三の丸へ侵入されてしまいます。富田信高は自らも本丸から飛び出し、を取って決戦にのぞみました。

必死に応戦するものの、城主を援護する味方の軍勢が次々と倒れ、駆け付けた家臣の本田志摩から遂に城の陥落を告げられます。

「もはやここまで」と自決を決意するものの、敵兵に埋め尽くされて本丸に引き返すことができません。万事休すの言葉が脳裏をよぎる中、富田信高は反撃を試みます。

妻の奮闘が戦局をもかえる

落城寸前まで追い込まれ、恐れ脅える富田信高の前に現れたのは、想像もつかない人物でした。猛者を次々と倒して勇敢に前に進みでる、ひとりの美しい若武者。それは富田信高が目を疑った驚くべき人物だったのです。

眉目麗しい若武者の正体とは

富田信高が必死の応戦を繰り広げる中、鮮やかな甲冑をまとった眉目秀麗な若武者が槍を手に現れます。

瞬く間に5、6人の敵兵を倒し、さらに前に進み入りました。「武功雑記」にはその様がこう綴られています。

「緋縅(ひおどし)の具足に半月を打った兜の緒をしめ、片鎌の手槍を持ち、富田信高の前に進み出て槍を合わせた」。

富田信高は大勢の敵兵をかわしながら、その若武者に近寄り顔を覗き込みました。美しく化粧をほどこし爪に紅をさしたその者は、なんと富田信高の妻だったのです。夫が討ち死にすると聞き、居ても立ってもおられずに戦場に分け入ったと言います。

富田信高は驚きながらも、妻とともに命からがら本丸に引き返すことができたのです。

あの巴御前にもおよぶ偉業として伝えられる

巴御前

巴御前

妻の功績は「武将感服記」にも収められており、毛利秀元の家臣・中川清左エ衛門を討ち取ったと記されています。

大剛の士との呼び名も高い強者・中川清左エ衛門をも破った女武者の働きが功を奏してか、城内の兵も大いに奮闘。鉄砲や弓などの武器を乱射して、西軍の猛攻を一時持ちこたえることができたのです。

女性自らが甲冑を身に着けて戦うのは、当時極めて珍しいことでした。平安時代末期に活躍した女武人・巴御前の「一人当千の兵(つわもの)なり」(ひとりで多勢の敵に対抗できる並ぶ者がない強さ)という逸話はあまりに有名ですが、富田信高の妻の偉業も江戸時代の様々な書物に記されています。

徳川家康をも感動させた妻の武勇

妻とともに本丸に引き返したその翌日、西軍は高野山の木食上人(もくじきしょうにん)らを城内に遣わせ、富田信高に降伏を勧めました。これ以上の力攻めは愚策と説いたのです。

戦い疲れた富田信高はこれを受け入れ、安濃津城を開城しました。そして木食上人の仲介で出家を決意。

城を開け渡したあと、一身田(いしんでん)の専修寺(せんじゅじ)で剃髪し、高野山へと旅立ったのです。

その後、関ヶ原の戦いで東軍が勝利し、「城は奪われたものの、大軍を相手に好戦した」と徳川家康から2万石の加増を受け、富田信高は安濃津城7万石の城主として返り咲きました。

そして、戦渦で灰燼と化した安濃津城の復興に心血を注ぎました。徳川家康は富田信高の奮戦をたたえると同時に、妻の武勇に大層感動したとの言い伝えがあります。

この戦いは「東海の関ヶ原」とも呼ばれ、富田信高の妻の勇ましい内助の功とともに語り伝えられています。

出世道が開け、宇和島城主となるも訪れる苦難

その後も富田信高夫妻は数奇な運命をたどります。富田信高は1608年(慶長13年)に伊予国(愛媛県宇和島藩12万石に出世移封となります。海運工事や堀削事業などを手掛け、宇和島藩政を強固なものとする取り組みに注力しました。

妻の願いを受け入れた先に待ち受けたもの

出世を喜んだのもつかの間、5年後の1613年(慶長18年)に事件が起こります。

津和野藩(島根県津和野町)で富田信高の妻の弟である坂崎直盛が、富田信高の妻の甥、浮田左門と刃傷沙汰を起こし、浮田左門は富田信高の妻に助けを求めました。

妻の願いを聞き入れ浮田左門をかくまった富田信高は、坂崎直盛により徳川幕府に訴えられた末、改易されてしまいます。わずか5年間の宇和島城主でした。

陸奥国棚倉(福島県棚倉町)に流された富田信高夫妻は、この地で没したとも言われていますが詳細な記録は残っていません。

妻の功績もあり安濃津城の戦いで取り留めた命。富田信高が妻を恨むことはなかったと言います。

宇和島城からの絶景に夫妻は何を思ったか

現在の宇和島城は、本丸と二の丸などを有する平山城としてその姿を残しています。

豊かな自然を満喫しながら山頂へ向かうと、国内に現存する12天守のひとつにも数えられる本丸天守が待ち受けます。

宇和島湾と宇和島城下が一望できるこの場所が夫妻の栄光の頂点となりました。

富田信高の妻ゆかりの地 安濃津城の今

富田信高と妻が命を賭して守った安濃津城。現在は津城の名で親しまれ、三重県の県庁所在地である津市に今もその城跡が残っています。夫妻の生きざまを懐古しながら、ゆかりの城の姿を探ってみましょう。

築城の名手により大改修

安濃津城は、現在の三重県津市にあり、この地は古くから平安京の外港として栄えた港町でした。ちなみに「津」という名称は、「安濃津」(あのつ)が由来になっています。

藤堂高虎

藤堂高虎

築城は1580年(天正8年)。織田信長の弟である織田信包(おだのぶかね)により造られました。

戦国時代後期に小さな城砦が築かれ、5層の大天守を備える居城を経て、築城の名手である藤堂高虎(とうどうたかとら)が、1611年(慶長16年)に城の大改修を行ないました。

築城の名手と称された藤堂高虎は、本丸を広げて北側の石塁を高く積み、東北と西北の両隅に三重の櫓を築きました。

藤堂高虎の築城は、石垣を高く積み上げることと堀の設計に特徴があり、石垣の反りを重視する同じく築城の名手である加藤清正(かとうきよまさ)と対比されます。

安濃津城はもともと、北は安濃川、南は岩田川に挟まれた河口に位置し、幾筋かの河流を外堀に取り入れており、満潮時にはこの外堀から海水とともに鯔(ぼら)がたくさん入ってきたため、当時はこの外堀は鯔堀とも呼ばれていたそうです。

また藤堂高虎は、城下町の整備にも注力し町の発展にも寄与しています。

城の北・南・西側には武家屋敷を、東側に町屋を配置し、町はずれを通っていた伊勢街道を城下に引き入れました。城の東側に堀川を掘り、守備の強化とともに物資の運搬にも役立てることで、商業の発展にもつなげていました。

現在、城跡の周辺は「お城公園」として整備され、津市を代表する市民の憩いの場として親しまれています。美しく造園された庭園では、四季折々の花が楽しめ、春には苔むす石垣と桜の織りなす風情ある風景が見られます。初夏には紫陽花、秋には見事な紅葉を愛でることもできます。

お堀端や庭園を眺めながら、季節の移ろいを感じて散策を楽しんでみてはいかがでしょうか?

津城跡とお城公園はJR・近畿日本鉄道「津駅」から最寄りのバス停「三重会館」まで約8分。そこから徒歩3分の場所にあります。

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城を改修した藤堂高虎ゆかりの地

藤堂高虎公像(津市・お城公園)

藤堂高虎公像(津市・お城公園内)

津市は、安濃津城を大改修した藤堂高虎のゆかりの地でもあります。

藤堂高虎は戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名であるとともに、築城技術に長け、特に高い石垣を持つ堅固な城を造ることを得意としていました。

そんな藤堂高虎が伊予国今治(愛媛県今治市)から伊賀・伊勢国(津市など)に移ってきたのは、1608年(慶長13年)のこと。

富田信高の伊予宇和島藩への転封と入れ替わるように、徳川家康の命で伊勢津藩主となり、安濃津城の戦いによる籠城戦で傷跡が大きくなった城の修復を行なっています。城の本丸跡には藤堂高虎の銅像があります。

戦いに敗れた富田信高が訪れた専修寺

安濃津城の戦いに敗れた富田信高は城を開城したあとに出家します。出家先の高野山に向かう前に剃髪をしたのが、津市内一身田の専修寺です。

妻がこの地を訪れたかどうかは記録に残っていませんが、夫唱婦随で戦国の世を渡ってきた2人にとって大きな転機となった場所には違いありません。

国宝指定された2つの御堂へ

専修寺

専修寺

専修寺は、正式名を「真宗高田派本山 専修寺」と言い、親鸞上人の教えを継ぐ浄土真宗10派のひとつで、全国に600以上ある真宗高田派の総本山です。

境内にある「御影堂」(みえいどう)と「如来堂」(にょらいどう)が、2017年(平成29年)に国宝に指定されています。

「高度な建築技術と卓越した装飾技術により壮麗な信仰の空間を創出しており、我国を代表する近世寺院建築として極めて高い価値を有している」と、文化庁の報道発表資料に記された2つのお堂をご紹介しましょう。

四季の趣も豊かに、荘厳を極める境内

約3万坪の境内へと誘う山門をくぐると、正面に御影堂が鎮座します。1666年(寛文6年)に建立された入母屋造り・本瓦葺きのお堂は桁行42.6m 梁間36.6mと専修寺最大の建造物です。色鮮やかな天井画や金襴(きんらん)巻きの柱など、時空を超えた荘厳な空間と雰囲気が味わえます。

御影堂の西側には、もうひとつの国宝・如来堂が。1748年(延享5年)に建立され、阿弥陀如来像をお祀りしています。中国の故事に登場する、象、竜、獏などの華麗な彫刻が施され、訪れる人々を魅了してやみません。

  • 御影堂

    御影堂

  • 如来堂

    如来堂

境内の各所に蓮池があり、夏には清らかで高貴な花姿を楽しめます。春は桜や藤が咲き誇り、秋には紅葉狩りのスポットとしても人気です。

毎年1月9~16日は親鸞聖人の報恩講である「お七夜さん」が7日間の昼夜にわたって行なわれ、門前町に露店が立ち並び多くの人で賑わいます。

専修寺はJR「一身田駅」から徒歩5分、近畿日本鉄道「高田本山駅」からは徒歩20分。拝観は無料です。

夫妻最後の統治の地へ

最後にご紹介するのは、富田信高が最後に治めることとなった宇和島城です。国内に現存する12天守のひとつに数えられる、築城の名手・藤堂高虎が手がけた名城です。安濃津城、宇和島城ともに高虎との縁が深いのが印象的です。

富田信高と妻、最後の統治の地・宇和島城

宇和島城

宇和島城

堀は埋め立てられ、三の丸を含む総郭の多くは失われましたが、本丸と二の丸などを有する平城山は、豊かな自然を満喫できる絶好の散策コースです。巨大な石垣に沿う石段を登って山頂へ。3層3階の天守から見渡せば、宇和島湾と宇和島の街並みが一望できます。

出世移封で城を初めて訪れた富田信高と妻は、どんな思いでこの景色を眺めたのでしょうか。

宇和島城は宇和島自動車道「宇和島バスセンター」から徒歩15分です。

富田信高の妻

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鶴姫

鶴姫
常山城(つねやまじょう)の城主・三村上野介高徳(みむらこうずけのすけたかのり)の妻、鶴姫(つるひめ)は、1574年(天正2年)から翌1575年(天正3年)にかけて起こった「備中兵乱(びっちゅうひょうらん)」の戦いで、三村家が劣勢に追い込まれ、常山城が敵に完全に包囲されると見るや、たったひとりで敵陣へと乗り込んでいきました。その鶴姫の姿を見ていた常山城の従女34人も団結し、「女軍」(じょぐん)として長刀(薙刀)を手に敵陣の中に飛び込みましたが、全員討ち取られてしまったのです。戦いに敗れ、自決した鶴姫と勇敢な従女達の戦いはやがて「常山女軍の戦い」(つねやまじょぐんのたたかい)と言われ、後世に語り継がれることになりました。

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中野竹子

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1868年(明治元年)8月、会津戊辰戦争(あいずぼしんせんそう)の際、新政府軍参謀であった板垣退助(いたがきたいすけ)が会津若松城(鶴ヶ城)下に侵攻。城下全域が戦闘状態となり銃撃戦が始まる中で、決死隊となる娘子隊(じょうし隊・婦女隊とも言う)の先頭に立ち、薙刀を振るって戦った女性がいました。薙刀の名手と称された中野竹子(なかのたけこ)です。不幸にもその戦いで銃弾に倒れ、22歳の若さで壮烈な死を遂げた彼女の一生を辿ってみましょう。

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吉岡妙林尼

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豊後国(ぶんごのくに・現在の大分県)の戦国大名・大友宗麟(おおともそうりん)に仕えていた吉岡鎮興(よしおかしずおき)の妻・吉岡妙林尼(よしおかみょうりんに)は、耳川の戦いで命を落とした夫の死後、息子が城主を務める鶴崎城が島津軍に攻められたとき、女性や農民を率いて籠城戦を展開。敵を欺く見事な采配で島津軍を撃退し、城を奪還することに成功しました。その後、妙林尼は九州の女丈夫と評され、ヒロインの武勇伝として現代まで伝えられています。

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小松姫

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天下分け目の「関ヶ原の戦い」で親子・兄弟が敵味方に分かれた真田家(さなだけ)を合戦時も、さらに合戦後も武勇と思いやりで支えたとされるのが、真田信之(さなだのぶゆき)の正室「小松姫」(こまつひめ=1573~1620年)です。

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神功皇后

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古代、朝鮮半島を服属下に置いたとされる「三韓征伐」(さんかんせいばつ)伝説を持つ「神功皇后」(じんぐうこうごう)。卑弥呼(ひみこ)と並び、古代日本の象徴的なヒロインのひとりであり、古代日本における女将軍の象徴とも言える人物です。

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立花誾千代

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戦国時代、名将達が認めた希代の女武将であり女城主として、歴史家の間でよく知られる「立花誾千代」(たちばなぎんちよ=1569~1602年)。女城主の逸話は日本各地に残されていますが、文書ではっきりと残るのは、この立花誾千代だけだと言われています。

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井伊直虎

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江戸幕府創設の功臣「徳川四天王」(とくがわしてんのう)のひとり、井伊直政(いいなおまさ)。その井伊直政を養育し、徳川家康の家臣としての道を開いたとされるのが、戦国時代、井伊家の「女城主」となった「井伊直虎」(いいなおとら=1582年没)です。ここでは井伊直虎のエピソードと彼女にゆかりのある場所を紹介しましょう。

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戦国時代を代表する名将であり、「もう少し早く生まれていれば天下人になれた」と語り継がれる仙台藩初代藩主「伊達政宗」(だてまさむね)。その母で、「奥羽(おうう)の鬼姫」との異名も持つのが義姫(よしひめ=1547~1623年)です。

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板額御前

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平安時代末期(12世紀後半)に活躍した女武将として名高い「巴御前」(ともえごぜん)とほぼ同時期に、もうひとり、その勇猛ぶりを称えられた女武将がいます。越後(新潟県)の有力な豪族で、越後平氏とも言われた城氏(じょうし)の姫・「板額御前」(はんがくごぜん)です。

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