歴女も憧れる女剣士ヒストリー

鶴姫

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常山城(つねやまじょう)の城主・三村上野介高徳(みむらこうずけのすけたかのり)の妻、鶴姫(つるひめ)は、1574年(天正2年)から翌1575年(天正3年)にかけて起こった「備中兵乱(びっちゅうひょうらん)」の戦いで、三村家が劣勢に追い込まれ、常山城が敵に完全に包囲されると見るや、たったひとりで敵陣へと乗り込んでいきました。
その鶴姫の姿を見ていた常山城の従女34人も団結し、「女軍」(じょぐん)として長刀(薙刀)を手に敵陣の中に飛び込みましたが、全員討ち取られてしまったのです。戦いに敗れ、自決した鶴姫と勇敢な従女達の戦いはやがて「常山女軍の戦い」(つねやまじょぐんのたたかい)と言われ、後世に語り継がれることになりました。

備中松山城主・三村家親の娘として武芸を習得

鶴姫

鶴姫

鶴姫は、戦国時代の備中国(びっちゅうのくに・現在の岡山県高梁市周辺)の大名で備中松山城主・三村家親(みむらいえちか)の娘で、1536年(天文5年)の生まれと言われています。兄2人、弟2人の4人の兄弟がいました。

長男の三村元祐(みむらもとすけ)は、庄為資(しょうのためすけ=荘為資)に養子入りしたため、次男の三村元親(みむらもとちか)が家督を継いで備中松山城城主となりました。

弟は、新見(岡山県新見市)にある楪城(ゆずりはじょう)の城主を務めた三村元範(みむらもとのり)と、総社(現在の岡山県総社市)にある鬼身城(きのみじょう)の城主を務め、20歳の若さで自決した三村実親(みむらさねちか)です。

鶴姫は幼いころから、父・家親から太刀、長刀(薙刀)、、騎馬などの武芸を叩き込まれ、男勝りで勝気な少女として成長していきました。そして、大人になると備前国(びぜんのくに)の常山城城主・上野隆徳のもとに嫁ぐことになります。

「備中兵乱」につながる父の暗殺

鶴姫が討死するに至った「備中兵乱」とは、どのような戦いだったのでしょうか。鶴姫の父の時代にさかのぼって振り返ってみましょう。

毛利元就

毛利元就

鶴姫の父・三村家親は、1517年(永正14年)、備中成羽(びっちゅうなりわ)の鶴首城主(かくしゅじょうしゅ)である三村宗親(みむらむねちか)の子として産まれました。三村家親も成羽を拠点に勢力を拡大。

当時、備中国での勢力の拡大を狙う場合、備中国で絶大な影響力を持つ月山富田城(がっさんとだじょう)主・尼子晴久(あまごはるひさ)に取り入ることが多かったのですが、三村家親は安芸(あき)の国人領主であった毛利元就を頼りました。

毛利元就の後ろ盾を得た三村氏は、次々と尼子勢力を攻略。1551年(天文20年)に尼子方の荘高資(しょうのためすけ)との戦いに勝利して備中松山城を奪いました。備中松山城を拠点に、さらに備前国や美作国(みまさかのくに)に侵攻。備前国の戦国大名・宇喜多氏(うきたし)の勢力下の城を落としていったのです。

ところが、1566年(永禄9年)2月5日、重臣達と美作興善寺(みまさかこうぜんじ)で評議をしていた三村家親は、宇喜多直家(うきたなおいえ)の命を受けた遠藤秀清(えんどうひできよ)、遠藤俊通(えんどうとしみち)兄弟に火縄銃で狙撃され死亡。享年50歳でした。当時では大変珍しい鉄砲による暗殺だったのです。

織田信長と手を結び、備中兵乱の激戦が始まる

宇喜多直家

宇喜多直家

三村家親の死後、三村氏の家督を相続した三村元親は、宇喜多氏への復讐を誓い、仇討ちの機会を模索していました。

1567年(永禄10年)には20,000人の兵を率いて宇喜多氏のいる備前に進攻しますが、わずか5,000という宇喜多勢に大敗します。

その後も、毛利軍による援軍の力を借りて宇喜多勢を攻めたてようとしましたが、いずれも宇喜多直家の巧妙な戦術によって、返り討ちにされてしまいました。

さらにその後、思わぬ事態が待ち受けていました。三村氏の味方であったはずの毛利氏が、毛利元就の三男・小早川隆景(こばやかわたかかげ)を介して、三村氏の敵である宇喜多直家と同盟を結んでしまったのです。織田信長に追われた足利義昭が、西の国に逃げ延びた際に、毛利氏と宇喜多氏を組ませて、織田信長に対抗することを画策したためです。

そのタイミングを見計らったように、三村氏のもとに織田信長から「毛利軍の上洛を阻止すれば、備中、備前の国を与える」という書簡が届きます。

三村元親は「毛利氏が積年の恨みを持つ宇喜多氏と同盟を結ぶなどあり得ない。織田信長と組むことは宇喜多氏を討つチャンスとなる」と考え、毛利氏を裏切ることを決断しました。

この三村氏の離反に危機感を抱いた毛利氏は備中に80,000の大軍を派兵し、備中兵乱の激戦が始まったのです。

宇喜多直家
戦国武将を主に、様々な珍説をまとめました。

圧倒的な戦力差で備中松山城が陥落

小早川隆景

小早川隆景

三村勢は8,000、毛利・宇喜多勢は80,000という圧倒的な兵力の差があるものの、備中松山城は本城から張り出して曲輪(くるわ)が築かれて要塞化していることから、なかなか攻め切れませんでした。

そこで、毛利・宇喜多勢は作戦を変更。1574年(天正2年)から翌年にかけて、周辺の城を次々に陥落させる戦法を選択しました。これにより三村方の諸城は次々と陥落。残るは常山城と三村元親のいる備中松山城のみとなりました。

そして、ついに1575年(天正3年)5月22日、備中松山城は、毛利元就の三男・小早川隆景が率いる毛利軍の襲撃を受けて陥落。その直前に備中松山城を脱出した三村元親は、逃げる途中に怪我を負い、菩提寺の松連寺で自決しました。

なお、8歳の三村元親嫡子の勝法師丸は、将来の仇討ちを恐れた小早川隆景によって殺害されています。

備中松山城が陥落し、残るは常山城だけでした。常山城には城主・上野隆徳と妻の鶴姫、そして約100人の兵とその妻達がいました。

常山城陥落寸前に、鶴姫が立ち上がる

1575年(天正3年)6月4日、常山城は総勢6,300人もの毛利勢に包囲されていました。7日には浦野宗勝(うらのむねかつ)が率いる700人の兵が城内に侵攻。浦野宗勝は小早川水軍を率いる武将で、武名を轟かせた人物でした。

立ち上がる鶴姫

立ち上がる鶴姫

そのとき、上野隆徳の妻・鶴姫は敵に対抗しようと具足に身を固め、紅の薄衣を鎧の上に着て、そこに長さ1メートルを超える太刀を付け、白柄の長刀(薙刀)を小脇に挟み、広庭に飛び出しました。

その様子を見ていた城兵の妻達は止めようとしましたが、鶴姫はそれを拒否。

すると、この固い決意に続けと、城兵の妻達34人が鶴姫のあとを追って駆け出しました。

鶴姫は34人の妻を従え、城兵83騎とともに敵将・浦野宗勝の軍勢の中に突撃していきましたが、次々と討ち取られていきます。敵将の浦野宗勝は、相手が女性軍であることに大変驚き、しばし戦闘を中断。敵兵は最初、女軍に斬りかかるのを躊躇していましたが、女軍もしだいに討ち取られていきました。

鶴姫は浦野宗勝の陣に近づいて、一騎打ちを望みましたが「女相手にそのようなことはできぬ」と、浦野宗勝は相手にしませんでした。

「もはやこれまで」と鶴姫は家宝だった宝刀を浦野宗勝に差し出し「これは当家重代、国平の名刀なり。秘蔵の太刀であるため、身から離さず持っていたが、貴殿に進呈する。これで後生を弔って給われ」と告げると、太刀を残して城内に戻り、南無阿弥陀仏を念じ、短刀を口にくわえ、そのまま身をうつ伏せにして自ら命を絶ちました。そして上野高徳は、妻の最期を見届けて切腹したのです。

鶴姫のゆかりの地を訪ねる

備中松山城

備中松山城は、1240年(仁治元年)に秋庭三郎重信(あきばさぶろうしげのぶ)が臥牛山(がぎゅうざん)に築城したと伝えられています。

それから321年後の1561年(永禄4年)、鶴首城主であった三村家親が毛利家と手を結び、備中松山城を攻めて城主の庄高資(しょうたかすけ)と尼子氏(あまごし)の援軍を撤退させて備中松山城主となりました。

備中松山城

備中松山城

その5年後に三村家親が暗殺されたため、家督を継いだ三村元親が城主となります。

そして、1575年(天正3年)5月、備中兵乱により敗れた三村元親が自決したことによって、備中松山城は毛利軍の手に渡ることになりました。

現在の備中松山城は江戸時代1683年(天和3年)、備中松山藩主水谷勝宗が手掛け完成させた物です。

所在地:岡山県高梁市内山下1

日本の城 備中松山城 YouTube動画

「備中松山城」現存12天守

松連寺(しょうれんじ)

松連寺

松連寺

三村元親が自決した寺として知られているのが松連寺です。

毛利軍に攻められ、備中松山城から逃げ出した三村元親は、数人の家臣とともに崖の抜け道から高梁川を渡って阿部深山まで逃げたものの、険しい山道の途中、誤って自らの日本刀で怪我を負い、己の寿命を悟って、菩提寺である松蓮寺にまで戻り自決しました。

現在の寺は1657年(明暦3年)、備中松山藩主・水谷伊勢守勝隆により移築された物ですが、寺というよりもお城のような雰囲気があります。

それは江戸時代の一国一城令(いっこくいちじょうれい)により新しい城を築城できなかったため、寺という名目で備中松山城を守る要塞を建造したからです。

所在地:岡山県高梁市上谷町4102番地

備中・楪城(ゆずりはじょう)

この城は、築城年代や誰が築いたのかがはっきりしていません。有力な説として南北朝時代に新見氏によって築かれたと言われています。

その後、戦国時代に新美蔵人貞経(にいみくろうどさだつね)が三村氏に攻められ、1566年(永禄9年)、三村元親の三男・三村元範(みむらもとのり)が城主となりました。

しかし、備中松山城が陥落する4ヵ月前の1575年(天正3年)1月8日、備中兵乱で毛利方の小早川隆景を大将とした約20,000人の軍勢に攻められ落城したと言われています。

楪城は、高梁川と矢谷川に挟まれた半島状の尾根の標高490メートルに位置し、本丸・二の丸・三の丸を築いた連郭式山城です。

現在、城址は登城道が整備されており、城が建っていた当時の面影を残す石積や大堀切などを見ることができます。

所在地:岡山県新見市上市

備中・鶴首城(かくしゅじょう)

鶴首城は、鎌倉時代の1189年(文治5年)に、奥州・藤原氏の平定で功績があった河村秀清が築城したと伝えられています。

戦国時代は、鶴姫の父・三村家親の居城として知られていますが、三村家親が庄高資との戦いに勝利して備中松山城主になると、一族の三村親成(みむらちかしげ)と三村親宣(みむらちかのぶ)父子が城主となっています。

1575年(天正3年)1月1日、備中兵乱で毛利軍により攻略され鶴首城は落城したものの、城主は再び三村親成、三村親宣父子に任されました。三村親成、三村親宣父子は、三村元親に仕えていましたが、三村家が毛利氏と敵対する織田信長と通じると、それに反対して毛利側に鞍替えをしています。

備中兵乱から約40年後の1617年(元和3年)に城主となった山崎家治(やまざきいえはる)が鶴首山の麓に成羽城(成羽陣屋)を築いたため廃城になりました。

所在地:岡山県高梁市成羽町

備中・幸山城(こうざんじょう)

幸山城は別名を甲山城または高山城とも言われ、鎌倉時代の後半頃、1308~1311年(延慶年間)に庄資房(しょうすけふさ)が築城したとされています。

その後、1394~1428年(応永年間)に備中守護・細川氏の被官となった石川氏の居城となりました。

三村元親の妹婿であった石川久式は、備中兵乱の際、備中松山城に籠城し、備中松山城が落城すると、幸山城まで戻るものの毛利の刺客に追われ、自決しました。

1575年(天正3年)備中を制圧した毛利氏は、清水宗治(しみずむねはる)が幸山城に入り、城主を務めたあと、廃城となっています。

現在、城跡は標高162mの山塊に位置し、眼下に山陽道を見下ろす要衝にあります。

所在地:岡山県総社市清音三因

備中・猿掛城(さるかけじょう)

猿掛城は、庄家長(しょういえなが)が、源平合戦の功績により備中の荘園を与えられ、この地に移り築城したと言われています。

豊臣秀吉

豊臣秀吉

三村家親が毛利元就とともに猿掛城を攻撃したことから、庄為資は三村家親の長男・三村元祐を養子に迎えて猿掛城主にしました。つまり、三村氏に城を開け渡した訳です。

しかし、それから三村氏と庄氏の間で奪還と奪取が繰り返され、1574年(天正2年)の「備中兵乱」の際に、毛利氏が三村氏攻略の前線基地として三村氏を滅亡させると、毛利元就の四男・毛利元清(もうりもときよ:穂井田元清)が猿掛城主となりました。

またこの城は、1582年(天正10年)の羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)が高松城水攻めを行なった際に毛利輝元の本陣が置かれていたことでも知られています。現在も城趾には当時を偲ぶ土塁・石積みなどが残っています。

所在地:岡山県倉敷市真備町~小田郡矢掛町

備中・鬼身城(きのみじょう)

築城は古く11世紀末~12世紀末と言われ、誰が作ったのかは明らかになっていません。南北朝時代末期の明徳年間(1390年頃)には今川上総介泰範の居城であり、そののちに上田氏が城主となっています。

天正年間になると、入道阿西が三村元親の弟・三村実親を養子に迎えました。そして、備中兵乱の際には、毛利氏によって三村氏側の諸城が次々と落とされていきます。

1575年(天正3年)1月23日、鬼身城も毛利大軍に包囲されると、城主・三村実親は「我が一身を捨て城内の者の命を助けたい」と決心し同月29日自刃し落城しました。

その後、関ヶ原の戦いで毛利氏が周防・長門に転封されたことで廃城となっています。

所在地:岡山県総社市山田

備中・国吉城(くによしじょう)

築城年ははっきりしていませんが、1331~1334年(元弘年間)以前に安藤元理(あんどうもとのり)が北条家からこの地をあてがわれ、築城したと言われています。

この城は備中兵乱の際、毛利軍が最初に落城させた城として知られています。1574年(天正2年)12月29日、毛利軍勢が城に攻め入ろうと戦いが始まり、三村方はあらかじめ備えておいた弓矢、石、鉄砲などで激しく抵抗、鉄砲も用い激しく防戦しました。

戦いは一進一退を繰り返し、双方に多くの死傷者が出ます。12月31日、大晦日の夜、国吉城の周囲から大筒と呼ばれる巨大な火縄銃を打ち込まれ、ついに落城するのです。

三村家親の弟・三村政親と側近達は城から逃げ出し備中松山城に向かいましたが、城内には300人を超える者が取り残され、ほぼ全員が殺されたと言われています。

その後、1600年(慶長5年)、鬼身城と同様、毛利氏が当地を離れ、1611年(慶長16年)、幕府直轄地となり、国吉城は廃城となりました。

所在地:岡山県高梁市川上町七地

鶴姫

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