歴女も憧れる女剣士ヒストリー

吉岡妙林尼

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豊後国(ぶんごのくに・現在の大分県)の戦国大名・大友宗麟(おおともそうりん)に仕えていた吉岡鎮興(よしおかしずおき)の妻・吉岡妙林尼(よしおかみょうりんに)は、耳川の戦いで命を落とした夫の死後、息子が城主を務める鶴崎城が島津軍に攻められたとき、女性や農民を率いて籠城戦を展開。敵を欺く見事な采配で島津軍を撃退し、城を奪還することに成功しました。その後、妙林尼は九州の女丈夫と評され、ヒロインの武勇伝として現代まで伝えられています。

大友家に仕えていた吉岡鎮興の妻

吉岡妙林尼

吉岡妙林尼

妙林尼について、本名も出没年も確かなことは分かっていません。妙林尼という名は、夫の死後に名乗った法号であり、それ以前の名は不明です。

父は大江神社の神主・林左京亮、または原鉱石の採掘に携わる国士・丹生正敏(丹生小次郎正敏)とも言われていますが、それも定かではありません。ただひとつ、吉岡妙林尼は吉岡鑑興の正室ということだけは分かっています。

吉岡鑑興は、豊後三老(ぶんごさんろう)のひとりとして大友氏に仕えた最長老・吉岡長増(ながまさ)の長男で、大友義鑑(よしあき)の跡を継ぎ当主となった長男・宗麟に仕えていました。

その頃の九州は、北九州を中心に勢力をもつ大友氏、九州の南部を支配する島津氏、そして九州北西部を支配した龍造寺(りゅうぞうじ)氏の3大名家が割拠する時代で、吉岡親子が仕えた大友氏は九州最大の勢力を誇っていました。

「耳川(みみかわ)の戦い」で夫・鑑興が戦死

大友宗麟

大友宗麟

九州で圧倒的な力を持つ大友氏でしたが、九州南部・で発生したあるできごとをきっかけに様相が変わっていきます。

それは1577年(天正5年)のこと、島津が支配する日向(ひゅうが)で、伊東義祐(いとうよしすけ)という豪族が島津氏との戦いに敗れたため、もともと親交のあった大友氏のもとに助けを求めて逃げ伸びてきました。

そこで、宗麟は、伊東氏を日向に復帰させるために、3万とも4万とも言われる軍を日向に向かわせることにしたのです。

それはなぜか。伊東氏を助けるだけが理由ではありません。宗麟はキリスタンでもあり、かねがねキリスト教の理想国を作りたいという構想を抱いていました。その地として日向がふさわしいと考えていたのです。日向を手にいれてキリストの理想国をつくるという野望が出兵の大きな理由だった訳です。

実際に、出兵後、大友軍は敵地領内の神社仏閣をことごとく焼き払い、その代わりに仮の司祭館と教会を建て、毎日、オルガン音楽を伴ったミサを行なっていたと言われています。

出家した吉岡妙林尼

出家した吉岡妙林尼

1578年(天正6年)2月21日、大友軍勢が日向に入ると、次々と島津方の拠点を攻略。その後、大友軍による日向侵攻が本格化し、大友勢は耳川以北の日向国を制圧しました。

ところが島津藩は、薩摩から将兵を増強するなど、戦力を拮抗させると、事前に入手していた地理情報を活かし、逃げ場のない場所に誘い込み攻撃を仕掛けるという陽動作戦を展開。

11月11日、大友軍が攻めてくると敗走したかのように見せかけて、奇襲を仕掛けました。四方から突然包囲された大友軍はパニックになり、散り散りになって敗走したため、多くの将兵が討ち取られました。

そして翌12日、耳川付近で、大友軍は西から東から島津軍の追い討ちを受けます。追い詰められた大友軍の将兵の多くが、数日来の大雨のため増水した耳川で水死。この日だけで大友軍は3,000人近い戦死者を出したと言われ、特に川での水死者が多かったことからこの戦いを「耳川の戦い」と呼ぶようになりました。

妙林尼の夫・鑑興もその中に含まれていたのです。それを知った妙林尼は夫の菩提を弔うため剃髪しました。

島津軍の侵攻で、鶴崎城には妙林尼と老兵、女性、子供が残された

長宗我部元親

長宗我部元親

耳川の戦いに勝利し、勢いづいた島津氏は、豊後に兵を進め、大友軍を敗走させます。これに危機感を抱いた宗麟は、大坂まで出向いて豊臣秀吉と面会し、助けを求めました。

秀吉はこれを了承し、先発隊として讃岐の仙石秀久(せんごく ひでひさ)、長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか)・信親(のぶちか)親子を加えた部隊を豊後に出陣させています。

しかし、これら豊臣軍勢をもってしても島津に対抗できず、大友軍は敗走することに。領地を奪われた宗麟は、丹生島城(にゅうじまじょう)に籠城して抗戦することを決断。

当時、鶴崎城主であった妙林尼の息子・吉岡統増(よしおかむねます)も、主力部隊を率いて丹生島城に出向いていきました。そのため吉岡家の鶴崎城に残ったのは、妙林尼の他、老兵と女性、子供だけでした。

島津軍の攻めに、妙林尼は籠城で対抗

1586年(天正14年)、丹生島城を包囲していた島津軍は、伊集院美作守久宣(いじゅういんみまさかのかみひさのぶ)・野村備中守文綱(のむらびっちゅうのかみふみつな)・白浜周防守重政(しらはますおうのかみしげまさ)に総勢3,000の兵を与え、鶴崎城の攻略を命じました。

その圧倒的な兵力に対して妙林尼はなんと、籠城で対抗しています。鶴崎城の東・西側と北側は川と湾に面しているため、攻められるのは南側だけです。妙林尼は島津軍の攻めるルートを予想して、南側に落とし穴を掘ったり、鉄砲を向けたりして敵を待ち構えていました。いよいよ島津軍が攻めてきたとき、妙林尼は法衣着の上に小具足を、そして額に鉢巻きをして戦いに臨みました。島津軍は計16回にわたって突撃を敢行していますが、妙林尼はことごとく跳ね返したのです。

しかし、次第に食料と弾薬が尽きてきたため、島津軍は全員の命の保証をする代わりに城を開け渡すという条件を提示。妙林尼はそれに同意し、和睦(わぼく)が成立します。島津軍はその約束を守り、地下に妙林尼を住まわせました。

ただし、これは敵を油断させる妙林尼の作戦でした。そして、妙林尼をはじめとする城内の女性達が城攻めを主導した3将の接待をはじめ、毎夜、お酒をふるまいました。その中でも、野村備中守文綱は、妙林尼に恋心を抱き始めていたようです。

敵を欺き、鶴崎城の奪還・夫の仇討ちを成し遂げる

城を開け渡した翌年の1587年(天正15年)、時代は大きく動き、秀吉が20万人の大軍を率いて島津討伐に動きます。鶴崎城のある豊後に駐留していた島津軍は、日向で秀吉軍を迎え討つことを決め、鶴崎城に駐留する三将に合流を命じます。妙林尼との別れがつらい野村備中守文綱は「豊後を裏切ったのだからここでは暮らせないでしょう。一緒に薩摩に行きませんか」と誘います。妙林尼はすかさずそれに同意し、気を良くした野村備中守文綱に酒を勧め、泥酔させました。その間に点々と散らばった吉岡家の家臣に使者を送り、「決起のときが来ました」という檄文を届けさせました。

出発のとき、妙林尼は準備があるからと、野村備中守文綱に「侍女とあとを追います」と告げます。先に三将が軍を進めていくと、そこに吉岡軍が待ち受け、襲い掛かりました。大激戦の末、伊集院美作守久宣と白浜周防守重政は討死、野村備中守文綱は流れ矢に当たりながらも日向まで辿り着きますが、その傷がもとで息を引き取りました。妙林尼は城主として討ち取った63もの侍首を、丹生島城にいる宗麟に送っています。感動した宗麟は「尼の身として稀代の忠節、古今絶類也」との言葉を贈っています。1年越しの計画を進めて、見事に鶴崎城の奪還・夫の仇討ちを成し遂げた妙林尼ですが、その後の消息はまったく伝わっていません。

吉岡妙林尼

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