歴女も憧れる女剣士ヒストリー

中野竹子

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1868年(明治元年)8月、会津戊辰戦争(あいずぼしんせんそう)の際、新政府軍参謀であった板垣退助(いたがきたいすけ)が会津若松城(鶴ヶ城)下に侵攻。城下全域が戦闘状態となり銃撃戦が始まる中で、決死隊となる娘子隊(じょうし隊・婦女隊とも言う)の先頭に立ち、薙刀を振るって戦った女性がいました。薙刀の名手と称された中野竹子(なかのたけこ)です。不幸にもその戦いで銃弾に倒れ、22歳の若さで壮烈な死を遂げた彼女の一生を辿ってみましょう。

文武両道を極めた才女

中野竹子

中野竹子

中野竹子は、江戸詰勘定役会津藩士・中野平内(なかのひょうない)・中野こう子夫婦の長女として1847年(弘化4年)(1846年という説もあります)、江戸の会津藩藩邸で生まれました。

中野竹子には3つ年下の弟・中野豊記(とよのり)と6つ年下の妹・中野優子(まさこ)がいます。

母親の中野こう子には次のような逸話があります。戊辰戦争の際、口火の点いた砲弾が火の玉のように城内で洗濯中の中野こう子の近くに飛び込んできた。中野こう子は素早く洗濯中の盥(たらい)の水で口火を消し止めると、その勇敢な行動が武将の血統を感じさせると城内で称賛されたと言うのです。

一方、父の中野平内は和歌を巧みに作り、書道は持明院流(じみょういんりゅう)の師範でした。しっかり者の母親と文人気質を有する父の間に生まれた中野竹子は、その両親の血筋を幼い頃から発揮しています。

5、6歳の頃の中野竹子は、小倉百人一首を一字も誤らずに暗唱していたと言います。生まれながらの聡明な資質があったのでしょう。

7、8歳頃になると同じ上屋敷の藩邸で目付職にあった赤岡大助(あかおかだいすけ)を師に文武を習い始めます。書や和歌を学び、薙刀(なぎなた)を習得し、次第に文武の実力を身に付けていきました。

何事にもまっすぐな性格の中野竹子は文武を極めたいと、赤岡大助以外にも書については能書家の佐瀬得所(さぜとくしょ)に、薙刀は静流の黒河内伝五郎(くろこうちでんごろう)を師として学びました。

その結果、書道では祐筆(ゆうひつ・武家の秘書役、事務官僚)を、薙刀では道場の師範代を務めるまで極めたのです。

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大政奉還の翌年、会津に帰る

その後、師の赤岡大助は、大坂の蔵奉行(くらぶぎょう)として赴任する際に、様々な面で抜きんでた才能をもつ中野竹子を手放すのは忍びないと、中野竹子が17歳のとき、中野家に懇望して養女にしています。

大政奉還

大政奉還

それから3年後の1867年(慶応3年)、時代が大きく動きます。徳川幕府15代将軍、徳川慶喜(とくがわよしのぶ)は、「大政奉還」(たいせいほうかん)を決断し政権を朝廷に返上しました。

翌1868年(慶応4年)1月2日、会津藩、桑名藩などの旧幕府軍が京都に進撃し、鳥羽街道で薩摩藩長州藩を中心とする新政府軍と衝突しました。

この「鳥羽・伏見の戦い」後、江戸城への登城禁止となった会津藩主・松平容保(まつだいらかたもり)公が会津に引き上げるのに伴って、中野一家も、江戸から会津の地へと戻ることになりました。

妹の中野優子はのちに中野竹子を「姉は一風変わった言わば男勝りの性質なので、道義に反したことを嫌う男子のような発想が姉の脳裏を支配していった」と評しています。

師であり養父であった赤岡大助は不穏な空気が漂う時代の中で、中野竹子の男勝りな性格を案じ、年頃の婦人らしく家庭を持たせたいと考えるようになり、自分の甥に嫁がせようとしました。

ところが中野竹子はまったくに気乗りせず、会津藩が一大事を迎えようとする状況下での縁談を拒み、これがもとで赤岡家を離縁し、会津へと戻ってしまいます。

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男勝りで容姿端麗

1868年(慶応4年)3月、22歳になった中野竹子は先に帰郷した父のあとを追い、生まれて初めて会津の地を踏むことになります。父は長年江戸定詰めだったため、会津に帰っても家がなく、中野家は城下にある親戚だった田母神家の屋敷の一角を借りて住むことになりました。

しかし、中野竹子だけは、かつての師・赤岡大助が会津に帰って城下西北の坂下(ばんげ)で剣術道場を開いていたことから、そこに身を寄せました。結婚問題で養家を離れていた中野竹子でしたが、会津藩存亡がかかる折、赤岡大助が会津にいることを頼もしく感じ、再び師のもとで稽古をするようになったのです。

そして、師を助けるように赤岡家で城下の子供達を集めて読み書きを教え、娘達に薙刀を教えていました。

この頃の中野竹子にこんな逸話があります。当時は混浴の風習が一般的でしたが、中野竹子はこれを嫌って自宅で沐浴をしていたところ、近所の男がそれを覗こうとしていたそうです。

それを察した中野竹子は、薙刀を振り回して追い払ったという逸話が残っています。その地域では「会津名物業平式部、小町の中野の娘」と謳われ妹の中野優子とともに容姿端麗な姿に若者達の関心を集めるようになっていましたが、その一方で随分と男勝りな性格と評判だったようです。

新政府軍の来襲で、稽古仲間が集結

若松城

若松城

1868年(慶応4年)8月23日の朝、会津藩若松城下に新政府軍の来襲を告げる早鐘の音が鳴り響きました。新政府軍は十六橋、戸ノ口などの要衝を次々と突破し、ついに会津藩の拠点に攻め入ってきたのです。

中野家の母・中野こう子、中野竹子、妹・中野優子は覚悟を決めると、真っ先に髪を切り、それを庭に埋めました。そして田母神家を出て、鶴ヶ城に向かいました。
その途中、中野母子は、あらかじめ有事の際に同じ道場の薙刀の稽古仲間と落ち合う場所を決めており、そこに向かうと岡村すま子、依田まき子・菊子姉妹と会うことができました。

彼女らは、赤岡大助の20名ほどいた門下生の中で、敵が襲来したときには迎え撃とうと申し合わせていたメンバーの一部でした。

彼女らは会津若松城に向かうものの城門が閉じられていたため、引き返したところで他の門下生と出会うことができ、後世に語り継がれる「娘子隊」(じょうしたい)が結成されたのです。

そこに味方の武士がやってきて、「照姫様[前会津藩主松平容保の義姉]が坂下に立ち退かれた」という知らせを受け、3里先の坂下へと向かうものの照姫の姿はありませんでした。

その情報は誤報だったため、やむなく坂下の法界寺で就寝し、翌朝、近くに駐屯していた会津軍に出向いて従軍を願い出ます。娘子隊は会津軍のリーダーである家老の萱野権兵衛(かやのごんべえ)に従軍を懇願しましたが、「御身等の願ぎこと決して理にあらざれど」と彼女らの心情を汲みつつも、参戦を許されませんでした。

しかし、「叶わぬならば自決する」と言う彼女らの熱意に折れて参戦が許され、出陣前夜に、旧幕府の歩兵指図役頭取・古屋佐久左衛門(ふるやさくざえもん)をリーダーとした衝鋒隊(しょうほうたい)・古屋隊に加わることになりました。

出陣前の事件

出陣の前夜、床に就いていた母・中野こう子と、中野竹子が小声で話し合っていました。「敵の慰み物になるくらいなら、いっそ優子を」という内容で、寝ている中野優子を手にかけようとしていたようです。

その会話が耳に届いたのが娘女隊のメンバーであった依田姉妹でした。ただならぬ密談に飛び起きて、中野竹子・中野こう子親子を説得したと言います。中野優子はまだ16歳で家族からみると頼りなげに見えていたようで、家族として妹を思う気持ちから発した行動であることが伺われた出来事です。

若くして散った中野竹子

若くして散った中野竹子

若くして散った中野竹子

翌8月25日早朝、中野竹子は江戸生まれにふさわしい美しい青みがかった縮緬(ちりめん)の着物を身に付けて古屋隊に従軍。娘子隊一同は散切りにした頭に白羽二重の鉢巻きをして同じ布の襷(たすき)で裾をからげ、義経袴に大小刀を手挟み、鶴ヶ城に向かって出発していきました。

その日の入城戦は3回にわたって行なわれました。娘子軍を含む1隊は、第2次入城戦の古屋隊に参加したと言われています。

古屋隊が越後街道を城下に向かう途中、現在の福島県松岡市神指町大字黒川にかかる柳橋(涙橋)で新政府軍と遭遇しました。

すでに娘子軍は敵陣に深く入り込んでおり、敵軍は女性がいることに気づくと「討たずに生け捕れ」と声を上げてなだれ込んできました。しかし娘子軍は互いに声を掛け合い「生け捕られるな、恥辱を受くるな」と励まし合い、何人かの兵を薙刀で斬り殺して善戦します。

しかし、中野竹子は敵兵が放った銃弾を頭に受けてしまいます。倒れた中野竹子のもとに妹の中野優子が近づいて介錯をし、白羽二重の鉢巻きに首級を包み(中野竹子の来ている着物の袖を斬った布という説もあります)、味方の武士に渡したと言われています。中野竹子22歳でした。

中野竹子は、出陣の際、次のような一句を書いた短冊を自らの薙刀のに結んでいました。

「武士(もののふの) 猛き心にくらぶれば 数にも入らぬ 我が身ながらも」

武士の数のうちには入らない女性だけれど、立派に戦い死ぬ覚悟があるという中野竹子の辞世の句が私達の胸に迫ります。

中野竹子が亡くなったときの様子

中野竹子が被弾したのは額であると言われていますが、後年、中野優子の甥の談話として「負傷した場所を大腿部だとも云っている。母・中野こう子はそのとき、わずかな音を聞いて振り向くと中野竹子がどうと倒れていた。しかし、中野竹子は取り乱すことなく己の首級を取ることを母に願った」としています。他にも、胸部だったという説もあります。

さらに、介錯したのは、妹・中野優子、母・中野こう子の他に、江戸の赤岡大助の養女で中野竹子の義妹にあたる、娘女隊のひとり、平田蝶であるという説もあります。涙橋付近から、中野竹子の首級を持ち帰ったのは農兵の上野吉三郎と言われていますが、東条喜太郎、小野徳兵衛などの名も挙げられ、定かではありません。

若くして戦死した中野竹子を惜しむ人達によって様々な憶測が流れ、伝えられたのでしょう。

会津戦争のその後

鶴ヶ城(若松城)

鶴ヶ城(若松城)

中野こう子は自身も薙刀を手に中野竹子とともに柳橋付近で抗戦しましたが、5名が生き残り、近くの村に一旦引き上げたところ、家老の菅野権兵衛に諭されて、2日後に城に戻り、負傷者の手当てや炊き出しなどに尽力したと伝えられています。

その後、鶴ヶ城では約1ヵ月に及ぶ籠城戦が展開しましたが、新政府軍から1日に2,500発もの弾丸を打ち込まれるなど総攻撃を受け、9月22日、ついに会津藩主松平容保は降伏を決断。降参と書かれた白旗を揚げ、城を明け渡すことになりました。

こうして会津戦争は終結しました。結果として敗戦の責任を引き受け自決したのは、中野竹子ら娘子隊とも縁の深い家老・菅野権兵衛ただひとりだけでした。

中野竹子の最期の地を訪ねて

1868年(慶応4年)1月に起きた「鳥羽・伏見の戦い」のあと、中野家は会津藩主・松平容保とともに江戸から会津に引き上げていきました。

それから数ヵ月という短い期間を過ごした会津若松に、中野竹子にまつわる場所があります。

中野竹子が戦死した柳橋(涙橋)

この橋は、会津と越後(新潟)を結ぶ越後街道の湯川(ゆがわ)に架かる橋であり、この道を利用する人々のための道しるべに柳を植えていたので、この名が付けられています。

もうひとつの名・涙橋はこの橋から200mほど下流の川原に藩制時代の処刑場があり、涙橋の脇に設けられた「休み小屋」で処刑される前の罪人が家族や知人と水杯を交わして別れを惜しみ、涙を流したという話が語り継がれていたため、地元ではこの橋が涙橋と呼ばれるようになったということです。

ここには、柳橋の激戦で敵弾に倒れた中野竹子の碑が建てられています。

所在地:福島県会津若松市神指町橋本

薙刀を手に散った中野竹子が眠る墓・法界寺

中野竹子の首級は、ただちに涙橋と同じ坂下町内にある法界寺に葬られました。そして、亡くなった翌年の1869年(明治2年)に墓碑が建設されています。墓の正面には「小竹女子之墓」とあります。

法界寺には、この他に「美性院芳烈筆鏡小竹大姉」と中野竹子にふさわしい戒名が書かれた位牌と、歯こぼれのある長さ5尺3寸(151.3㎝)の薙刀、1尺5寸(30.6㎝)の刀や遺墨(故人が残した書や画)なども寺宝として保存されています。

また、墓の敷地には、出陣の際に薙刀に結んだ辞世の句「辞世 武士の猛き心に比ぶれば 数にも入らぬ我が身ながらも」と刻まれた碑や戊辰役殉難碑もあります。

毎年9月10日に墓前祭が行なわれています。

所在地:会津坂下町字光明寺東甲3944

中野竹子の両親が眠る墓・妙法寺

創建は1391年(明徳2年)ですが、戊辰戦争ですべて焼失し、1911年(明治44年)に本堂が再建されています。
この寺の敷地内に中野竹子の父・中野平内・母・中野こう子の墓があり、中野平内の墓には自身の和歌が刻まれています。

所在地:会津若松市馬場本町3-34

中野竹子らも登場する・会津まつり

会津まつりは、1928年、秩父宮雍仁親王と陸奥国会津藩の最後の藩主(第9代)松平容保の孫娘・松平勢津子の成婚を祝って開催した提灯行列がきっかけとなって始まりました。

その後、維新戦争で命を落とした会津藩士や住民の霊を慰め、先人に感謝するという思いを込めた「先人感謝祭」も加わって地域を代表する祭りに発展していきました。

会津まつり

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毎年、開催は9月下旬の3日間、会津若松城を起点とし、提灯行列、会津磐梯山踊り、日新館童子行列・鼓笛隊パレードなど多彩な催しを行なっていますが、まつりの最大の目玉は総勢約500名が参加する「会津藩公行列」です。

行列には会津藩の歴代藩主や、会津地方と関係の深い高遠藩、桑名藩などの他、娘子隊や中野竹子・中野優子姉妹・母・中野こう子の姿も見られます。

所在地:福島県会津若松市追手町1-1(会津若松城/鶴ヶ城)

中野竹子

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