守りの戦略

三大築城家

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戦国時代と言えば、どうしても戦国武将が注目されますが、城の攻略において重要なカギを握ったのが城作りでした。城の設計に携わり、攻略の難しい城作りに貢献したのが築城家です。中でも「三大築城家」と言われる3人をご紹介します。

加藤清正の極意―篭城に強い城

築城家「加藤清正」

築城家「加藤清正」

加藤清正」は、「豊臣秀吉」の遠縁で、刀鍛冶師の父親を持つ戦国武将です。秀吉の朝鮮出兵時に活躍し、武将として名高い清正は、築城の腕も優れていました。

清正の居城にもなった代表的な城「熊本城」以外にも、朝鮮出兵の拠点として建てられた「名護屋城」、他にも東京にある江戸城築城にもかかわっています。

特徴的なのは、反りが大きく、高い石垣です。「武者返し」とも言われますが、高くて登りにくい石垣は、敵の侵入を防ぐのに役立ちました。

さらに、清正が長けていたのは篭城戦を意識した城作りです。こうした、攻めにくく耐久力のある城作りは、清正のある経験が大きく影響していました。

その経験とは、天下人である秀吉と、秀吉の命による朝鮮出兵です。天下を統一して日本のほぼ全土を手中に収めた秀吉は、朝鮮に兵を送って、さらには中国をも手中に収めようとする野望がありました。そこで清正らが実際に朝鮮へと送られた訳です。

しかし、朝鮮での戦は日本での戦とは訳が違います。清正らは「倭城」(わじょう)という拠点を朝鮮の各地に作るのですが、日本国内以上の高い技術が築城に求められました。朝鮮での戦は、多くの困難を極めたためです。

まず苦しめられたのが、篭城戦での飢餓でした。さらに、石垣も日本よりも高い物が求められます。実際に朝鮮出兵は失敗に終わってしまうのですが、高い石垣や篭城戦を意識した清正の築城に、朝鮮出兵での経験が大いに反映されていることは言うまでもありません。

清正の集大成とも言えるのが、清正の居城・熊本城です。城内は、高い石垣が築かれた他、篭城戦を意識した数々の工夫がありました。篭城戦の備えとしては、壁にかんぴょう、畳に芋の蔓を編み込む等、食糧に困ったときのために、城の一部を保存がきく食糧に変えたと言われています。また、水不足で悩まないように120もの井戸が掘られました。

しかし、篭城戦はこうした食糧や水の備えだけでは十分ではありません。そもそも敵にとって攻めにくいことを前提としなくてはならないのです。清正は、もちろんこの点も意識した城作りを行ないました。複雑な通路で敵を誘い込み、味方が集中的に効率よく攻撃できるつくりにしたのです。虎口(こぐち:狭い道、狭い口)を複雑に入り組むようにして侵入を防いだ他、多聞櫓を設計する等、攻めも守りも隙のない設計でした。そのため、熊本城は「難攻不落」との呼び声が高かったのです。

実は、難攻不落と言われた熊本城は、清正も意図しなかった後世において活躍することとなります。それは、明治時代のはじめに起こった西南戦争です。城が建てられた当時と比べて武器の性能も高くなったため、西郷隆盛率いる軍からの攻撃をしのいだのでした。

加藤清正と城
加藤清正の生涯と、ゆかりのある城について紹介します。

藤堂高虎の極意―城下を意識する

築城家「藤堂高虎」

築城家「藤堂高虎」

藤堂高虎」(とうどうたかとら)は、土豪(どごう:大名等と比べて、小さく狭い土地の領主)の息子として生まれ、「浅井長政」(あざいながまさ)や「羽柴(豊臣)秀長」等、名だたる戦国大名の家臣として仕えました。朝鮮出兵にも参加し、関ヶ原の戦いにおいては徳川側について20万石を与えられます。

そんな多くの主君を渡り歩き、波乱万丈の人生を送ってきた高虎は、築城の名人としても名が知られていました。高虎の居城でもあった今治城をはじめ、「宇和島城」、「大洲城」、「伊賀上野城」、江戸城の縄張りづくり等、多くの城作りに携わっています。人生で築城に携わった回数は35回にも上り、専門家中の専門家でした。戦国から江戸時代にかけての築城家として、加藤清正とよく比較されています。

しかし、清正と大きく異なるのは城作りで重視した部分です。清正は、いかに攻められないか、長期戦になったときにいかに耐久できるかといった、実戦を意識していましたが、高虎は違いました。高虎が築城で活躍したのは、戦乱の世も終わりを迎えようとしていた時代。高虎は、将来的に戦の世は落ち着いて、秩序や平穏が訪れるであろうと予想したのです。この先見の明は、城作りにも顕著に現れています。

まず特徴的なのが、城と城下を意識した設計。城下町の発展のために、高虎は平城を中心に城を設計していきました。戦よりも城下の発展が今後は重視されるだろうと考えたためです。そのため、藤堂の手掛ける設計はどれも利便性を重視したシンプルなつくりでした。

もちろん、いくら平和が訪れると予想があったとはいえ、城としての機能が全くないという訳にはいきません。高虎の設計する城は、広大な敷地と施設間の移動を重視した設計だったこともあり、内部への侵入を許すとたちまち攻略されてしまう弱みがありました。

そこで、高虎が重視したのは城に侵入されないような造り。出入り口や堀、城壁は防御がうまくいくよう工夫されました。例えば、当時の鉄砲の飛距離は60mほどでしたが、水堀は鉄砲が届かないような幅を取り、石垣は高くして侵入を許さないような造りになっています。高虎が築城した水城の今治城も、侵入を防ぐ工夫を取り入れていました。

さらに、強度のある「層塔型天守」(そうとうがたてんしゅ)を取り入れたのも高虎です。従来の天守は、作り上げるのに時間がかかる割には強度がないという問題がありました。しかし、高虎の生み出した層塔型天守は上階を下階より小さく積み上げ、強度の高い天守を完成させるという画期的な物でした。高虎は、築城の名人であることはもちろん、創造力にも優れていたのです。

藤堂高虎と城
藤堂高虎の生涯と、ゆかりのある城について紹介します。

黒田官兵衛の極意-築城も効率よく

築城家「黒田官兵衛」

築城家「黒田官兵衛」

黒田官兵衛」(くろだかんべえ)は、戦わずして勝つことを実現した人物。天下統一のすぐ近くにいた織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と名だたる大名に仕えました。軍師として名のある官兵衛ですが、実は築城の腕もあったと言います。

そんな官兵衛の手掛けた城のひとつが、大分県にある「中津城」です。残念ながら築城途中で国替えを命じられてしまうため、官兵衛は完成を見届けられませんでしたが、その築城の実績は石垣に見ることができます。

なかでも特徴的な石垣は、7世紀の遺跡で使われた石垣を再利用した物でした。いかに拠点となる城を早く築けるか、いかに効率よく築くかを重視していたのです。官兵衛は知将としてよく挙げられますが、戦で重要な拠点となる城作りにも知将としての才能を十分に発揮していました。

中津藩から国替えのあとは、現在の福岡に移動して福岡城を築いた官兵衛。福岡城もまた、官兵衛の知略に満ちた工夫が施された城でした。

例えば、堀に設けられた橋。敵の侵入を防ぐために、架けられたのはわずか3つだと言います。さらに現存する本丸から天守に向かう「鉄御門」(くろがねごもん)、天守台の勝手口である「埋門」(うずみもん)は非常に狭い作りになっていました。これも、敵の侵入を防いで足止めするためです。埋門に関しては、敵が侵入しても侵入口を防げるように土砂で埋められるような工夫もありました。

官兵衛は、戦国の世が終わったのちには、文化人として活躍。桜狩(花見)を九州で楽しみ、句を詠んだとも言われています。さらには、秀吉の影響によって茶の湯にも精通していました。家督を譲ったあとは、名を「如水」(じょすい)と改めています。

こうした文化人としての背景もあったためか、官兵衛の城は知略に富むだけでなく、デザイン性にも満ちていました。つまり、実用性と見た目の両方を大切にしていたのです。

三大築城家

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