攻めの戦略

陣形から見る3つの合戦

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戦国八陣は、中国から伝来した8種類の陣形・八陣を武田信玄が独自に解釈したもの。武田軍を中心に、実戦でも活用されていました。この戦国八陣による陣形は、実際にはどれほどの意味を持ち、また、どのように役立てられたのでしょうか。 ここでは、「第4次川中島の戦い」、「三方ヶ原の戦い」(みかたがはらのたたかい)、「関ヶ原の戦い」における3つの合戦で用いられた陣形について解説していきます。

陣形から見る3つの合戦<武田信玄(鶴翼の陣)VS上杉謙信(方円の陣)>

第4次川中島の戦い

第4次川中島の戦い

ともに強力な戦国大名であった武田信玄と「上杉謙信」は、川中島の戦いで幾度も戦を交えたことでも知られています。その中でも有名なのが、信玄と謙信が一騎打ちをしたと言われる第4次川中島の戦いです。

信玄と謙信による川中島の戦いは、5回に亘って起こりましたが、第4次川中島の戦いはひときわ規模が大きく、戦死した兵も多かったと伝えられています。

特に武田軍の被害は甚大で、信玄に戦国八陣の誕生を促した「山本勘助」(やまもとかんすけ)も、第4次川中島の戦いによって命を落としました。

決着は付きませんでしたが、軍の被害で見ると武田軍が劣勢に立たされた第4次川中島の戦い。武田軍の戦力を大きく削ったのが謙信側の戦略です。陣形は、武田軍が鶴翼の陣、上杉軍が方円の陣を用いて展開されています。

魚鱗の陣

魚鱗の陣

第4次川中島の戦いは、信玄が相模国小田原(さがみのくにおだわら:現在の神奈川県小田原市)の「北条氏康」(ほうじょううじやす)の要請を受けたことにより起こった合戦。

謙信率いる兵に小田原城を包囲されていた状況から脱却するため、謙信の治める越後国(えちごのくに:現在の佐渡島を除く新潟県)の国境付近を攻撃するようにとの要請でした。

つまり武田軍は、攻めの姿勢で第4次川中島の戦いに臨んだ訳です。実際に武田軍は、合戦時に築城もしていたことから、当初攻めの陣形である魚鱗の陣を取っていたと考えられています。しかし武田軍は、敵の様子を見てすぐに鶴翼の陣へと陣形を組み直したのでした。

その一方で、上杉軍で見られた布陣が方円の陣。理屈で言えば、方円の陣を鶴翼の陣で包み込んで叩くという方法も成り立ちました。ところが、上杉軍の1歩進んだ方円の陣の活用と策略によって、武田軍は予想を覆す結果となり、兵力の大きな損失を生んでしまうのです。

千曲川と犀川の合流地点に広がる川中島

千曲川と犀川の合流地点に広がる
川中島

それは、上杉軍が方円の陣のまま攻撃を繰り出す戦法を採ったため。通常方円の陣は、奇襲攻撃に備えるなど限られた状況で使われることの多い陣形でした。四方に対応できる分、局所的な弱さがあったためです。

しかし、方円の陣を囲むように、武田軍が鶴翼の陣に変えようとしている中、あえて上杉は方円の陣で臨んでいます。

それは、鶴翼の陣を逆手に取るため。方円の陣の形をうまく利用して、上杉軍は幾重かに兵を布陣し、第1の組による攻撃のあと、後ろの第2の組が攻撃をするようにしました。次々に攻撃を繰り出し、半永久的に攻撃を継続させる戦法にしたのです。実際に、こうした上杉軍の戦略は功を奏し、武田軍を圧倒するのでした。

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三方ヶ原の戦い <武田信玄(魚鱗の陣)VS徳川家康(鶴翼の陣)>

三方ヶ原の戦い

三方ヶ原の戦い

三方ヶ原の戦いは、武田軍およそ3万人と、「織田信長」軍を含めた徳川家康軍約1万1,000人による戦いです。

この戦いが起こった理由は、家康が治める城を信玄が素通りしたことに憤りを覚えたためとする説や、家康が信長に取り入ろうとしたためとする説など、諸説あります。

実際、武田軍は家康の治めていた浜松城(はままつじょう:現在の静岡県浜松市)を通っていますが、兵の数から考えて普通に戦うのは無謀。戦い方としては篭城戦に持ち込んだ方が勝率はあったと考えられます。それでもなぜか家康は篭城戦を選ばずに、わざわざ真っ向から勝負に挑んだのです。

その結果は、予想通り徳川軍が敗北して退陣するに至りました。それでは、それぞれの陣形はどのようなものだったのでしょうか。いくつか説はありますが、徳川軍は鶴翼の陣、対して武田軍は魚鱗の陣で臨んだとされています。

これにも諸説ありますが、家康が鶴翼の陣を選んだのは、兵を広がるように布陣することによって多く見せるためでした。もしこの説が事実だとするならば、家康は武田軍との兵力差を知って冷静に戦に臨もうとしたのか、あるいは虚勢を張ったかのいずれかになります。

前者であれば、できるだけ兵力を多く見せることによって、敵の戦意を削ぐ狙いがありましたが、本当に兵力で戦意を削ろうとしたのであれば失敗でした。

なぜなら武田軍は、家康率いる軍を徹底的に潰しにかかろうとしていたためです。それは、信玄が魚鱗の陣を選択したことからもよく分かります。魚鱗の陣は、局所的に攻撃するのに向いている陣形。兵を集中的に布陣することで、家康の鶴翼の陣によって広がり、守りが薄くなった中央を攻撃して、一気に敵将を取ろうとしていたのです。

結局は、家康の必死の逃走によって武田軍は敵将を討ち取ることはできませんでしたが、圧倒的な戦力の差で、徳川軍を蹴散らしたのは言うまでもありません。

なお、家康も何の勝算もなく、この戦いに臨んだ訳ではありませんでした。当初は武田軍の動きを察知し、武田軍の背後を襲撃するようにして軍を進めたと言います。

しかし、そんな家康の考えは、信玄には百も承知のこと。分かっていて家康側を誘い出し、家康からは見えない場所に兵を配置して、魚鱗の陣を組んで待ち構えていました。つまり、三方ヶ原の戦いにおける武田軍の勝利は、その陣形はもちろんのこと、信玄の戦略が功を成した結果だと言えるのです。信玄が戦国八陣を整備しただけの武将であることが窺えます。

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関ヶ原の戦い <石田三成(鶴翼の陣)VS徳川家康(魚鱗の陣)>

関ヶ原の戦い

関ヶ原の戦い

豊臣秀吉亡きあと、天下を狙う徳川家康側と、あくまで家康は家老であり、秀吉の子孫である「豊臣秀頼」(とよとみひでより)を立てる石田三成ら家康の反対勢力側に大きく分かれました。

この秀吉の死後に勃発した派閥争いが、天下分け目の大戦である1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いへと繋がっていきます。

関ヶ原の戦いにおいて、三成率いる「西軍」は、「大垣城」(おおがきじょう:現在の岐阜県大垣市)を拠点として防御に徹することができるようにと、家康側の「東軍」を囲むような形で布陣しました。

関ヶ原の戦い

関ヶ原の戦い 両軍布陣図

一方の東軍は、中央突破のために魚鱗の陣を敷いたと言われています。しかし、これには諸説あり、合戦当日は霧が濃かったことから、両軍はそれぞれの布陣である魚鱗の陣と鶴翼の陣の2つを変化させながら、攻撃を展開していった説も濃厚です。

当初は、家康率いる東軍が、西軍の待ち構える低地に攻め入る図式だったために、西軍が優勢だと思われていました。しかし、関ヶ原の戦いが開戦する直前に思わぬ事態が発生するのです。西軍の鶴翼のうち、片翼を指揮していた「小早川秀秋」(こばやかわひであき)が東軍に寝返ったのでした。

こうなると、鶴翼の陣のうち片翼が完全に機能を失ったことになり、三成の当初の思惑通りに家康軍を包囲できません。むしろ、小早川軍が寝返ったことによって、片翼が一気に脅威に変わってしまったのです。

しかし、小早川軍が寝返る前の当初の布陣であれば、実は西軍が有利でした。ドイツの軍人だったメッケル少佐も、関ヶ原の布陣図を見てすぐに「西軍が勝利する」と発言したという逸話が伝えられています。もし仮に、西軍の中で裏切りがなかったとすると、関ヶ原の戦いの結果はまったくの逆になっていたと考えられ、その後、徳川家が治める江戸時代はやって来なかったのかもしれません。

そうは言っても、戦乱の世は何が起きるか分からないもの。布陣は、ほぼ完ぺきにしたつもりでも、三成は味方の裏切りまでは阻止することができませんでした。さらに西軍には、小早川軍の他にも動かない部隊があったため、関ヶ原の戦いは、たったの1日という短期間で早々に決着が付いてしまったのです。

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