攻めの戦略
城攻めの方法
攻めの戦略
城攻めの方法

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戦は、大きく分けて2つの方法で行なわれていました。ひとつは、両者が野外で攻防する「野戦」(やせん)。もうひとつは、一方が城に籠る「籠城戦」(ろうじょうせん)です。 これは、城を攻める側にとっては、「攻城戦」(こうじょうせん)とも呼ばれました。 城攻めとは、一般的には攻城戦での攻撃手段のこと。城に近付いて敵を追い詰める「力攻め」の他、「火攻め」や「水攻め」、「兵糧攻め」、さらに「奇襲」といった方法がありました。 このように城を攻める方法がいくつかある中、選択を誤れば攻める側の兵力が大きく削られてしまいます。そのため、どの攻撃方法を選ぶかが最も重要でした。 総大将は、味方の犠牲をなるべく抑えるために、初めは奇襲、火攻め、水攻め、兵糧攻め等の戦略を採ります。合戦の多かった戦国時代においては、最終的に、武力で相手を屈服させる力攻めが最も選ばれていたのです。

奇襲

奇襲

奇襲

奇襲とは、敵の不意を突いて攻め、混乱状態に陥れる方法のこと。正攻法では、城攻めの勝機が期待できない場合、その状況を打破するために考えられた、頭脳を必要とする戦法です。

例えば、寝静まった夜中や早朝の寝こみを襲い、崖の下や背後から攻めます。敵が予想していない時間帯、あるいはこんな場所から攻めてはこないだろうという敵の油断を逆手にとって、混乱状態に陥らせるのです。

なかでも「奇襲の天才」と言われたのが、小田原北条五代の基礎を築いた「北条早雲」(ほうじょうそううん)です。

相模国(現在の神奈川県)の小田原城は、「難攻不落の城」と呼ばれていました。そこで早雲は、城主をしていた「大森藤頼」(おおもりふじより)に贈り物をするなど取り入って、信頼関係を築きます。そしてある日、「伊豆で鹿狩をしていたら、小田原城の裏に逃げたから領地に入りたいので許可が欲しい」と騙し、その夜、裏山から一気に攻め入って、小田原城を奪取したのです。

しかし、このように、いつでも奇襲が成功する訳ではありません。相手が反撃する前に城を抑えなければならないため、短期決戦になります。相手に攻める隙を与え、闇夜で同士討ちをしないためにも、巧妙な戦略であることや、味方同士の合図や陣形を徹底させること、城の内部など敵の情報をしっかりつかんだ上でどう攻めるかの準備がカギとなるのです。ともすれば、味方の統率がうまくいかず、奇襲によって自滅してしまうリスクもありました。

火攻め

火攻め

火攻め

火攻めの方法として、常套手段として使われていたのが、城への「放火」です。

わざと火がまわった敵の城に入り込み、兵が民を煽り、動揺させるという作戦も取られました。そうした城を攻める側の戦略に乗らないために、むしろ、城主自らが敵に襲われる前に進んで城下町を破壊したこともあったと言います。

このように、火攻めを行なってから、本格的な城攻めへと進んでいくのでした。

水攻め

水攻め

水攻め

水攻めとは、敵が生きるのに必要な水を断つ方法のこと。あるいは、敵の城を水で沈めてしまう方法を言いました。

水を断つ方法、水で沈めてしまう方法、どちらにも共通したのが、敵の城の水路を握ることです。城の中で水を得る手段には給水地を確保し、井戸や湧水池を城内に設ける方法があります。

水攻めでは、給水地を占領する他、破壊したり、坑道まで掘って井戸を枯らしたりしたこともありました。こうして敵が籠る城内で、水を得る手段を失くすのです。

さらには、こうした水の供給を絶つだけでなく、城を水没させることもありました。近くの川から水を引き、城の周りに土囊(どのう)を築き、大量の水によって食糧を駄目にし、敵の身動きも取れなくしようとしたのです。

しかし、土囊を大量に用意するには農民に頼る他ありません。農民を動かすにはそれなりの報酬が必要になります。さらに、水没による水攻めを成功させるためには、優れた土木技術も必要でした。そのため、経済力のある限られた戦国大名でないと実行には移せなかったと言います。

そんな水攻めを得意としたのが、「豊臣秀吉」です。「太田左近」(おおたさこん)との「太田城の合戦」では、多くの兵を率いて近くの山を切り崩しながら、わずか5日ほどで太田城を囲む約6kmもの堤防を築きました。さらに、川の水を引き込み、城を孤立させた上で、ほとんど犠牲を払うことなく水没による水攻めを成功させています。

兵糧攻め

兵糧攻め

兵糧攻め

兵糧攻めは、城を包囲して、城中の食糧の供給を絶つ方法のこと。敵が城内へ食糧を運べないよう、城全体を柵で囲った上に監視を立て、敵が城の外に出て食糧を調達しようものならすぐさま攻撃しました。敵が空腹によって戦意を失い、降伏させるのが狙いです。

「干し殺し」と言って、ときには水さえも断つことがありました。城主が降伏しない限り続く長期戦になりがちだったため、攻められた方は脱走する者や餓死者も多く出たと言われています。

戦国時代において、この兵糧攻めに長けていたと言われるのが、やはり豊臣秀吉です。毛利氏の重臣である「吉川経家」(きっかわつねいえ)の居城であった「鳥取城」をはじめ、数々の戦で兵糧攻めを用いています。

鳥取城の戦い」では、短期決着に持ち込むため、秀吉は城の周囲12kmを柵で包囲した上に、鳥取城周辺の米を時価の2倍で買い占めました。敵である経家が籠城戦に備えて食糧を備蓄する前に、備蓄できる食糧を失くしてしまったのです。この鳥取城の合戦では、食糧を失い、ときには死んだ味方の人肉を食べる者がでました。地獄のような光景を目にした経家が、最終的に降伏。秀吉は経家に切腹を迫る代わりに、城内の民などの命は奪いませんでした。

しかし、秀吉の鳥取城の戦いのように短期で決着がついた例は稀で、平時でも城内には半年から1年ほどの食糧が備蓄されていることが常です。城を囲む柵の準備から、敵を包囲するための拠点作りの他、敵の食糧がなくなるまで待つために長期の戦いになることも少なくありません。兵糧攻めを行なうには、経済力や長い時間味方を統率する力も必要だったのです。

力攻め

力攻め

力攻め

力攻めとは、「強襲」とも言われる、武力による攻略のこと。「正攻法」とも呼ばれ、成功すれば、一気に城に突入して陥落させることができました。

水攻めや兵糧攻めは策略ありきで、準備や戦闘期間が長期化することも多いのが欠点。そこで、武力で相手を屈服させる力攻めが選ばれることが多かったのです。

しかし、力攻めを成功させるには、城を守る側の2~3倍以上の兵が必要と言われていました。これは圧倒的な強さを意味します。

例えば、1569年(元禄12年)、「長宗我部元親」(ちょうそかべもとちか)が「安芸国虎」(あきくにとら)の守る安芸城を攻めた「八流の戦い」(やながれのたたかい)。軍記物語「元親記」などによると、国虎の兵が5,000人を集めて八流に陣を張ったのに対して、当初、元親の兵は7,000人(国虎の1.4倍)でした。そこで元親は、7,000人のうちの2,000人を水軍で用意し、陸と海、双方から国虎の陣を攻撃するという戦略にでたのです。この挟み撃ちの策略により、国虎の陣は崩れて安芸城にまで敗走。安芸城に籠城したときには、国虎の軍は5,000人から3,000人にまで減少していました。こうして元親は、7,000人対3,000人。つまり、2.3倍という圧倒的な兵力で安芸城を包囲。総攻撃から24日で安芸城を陥落するという力攻めを成功させたのです。

また、「武田信玄」が「徳川家康」の治める遠江に進軍した際、家康の籠る浜松城の兵力が8,000人にも上るという情報を聞き付け、およそ3倍になる2万5,000人の兵を準備したと言われています。

しかし、このように力攻めが成功した例は、実はあまり多くありません。
特に、力攻めが失敗に終わった例として、「上田合戦」が後世に語られるようになります。なかでも「第2次上田合戦」は、「関ヶ原の戦い」に向かう「徳川秀忠」(とくがわひでただ)と上田城に籠った「真田昌幸」(さなだまさゆき)による戦。真田軍はわずか3,000人、力攻めを実行した徳川軍は3.8万人と言われました。何と、12倍以上もの兵力を持ってしても、秀忠は上田城を落とすことができなかったのです。

力攻めが成功しなかったのは、兵士が城の中に攻め込まなければならないという難関があったため。防衛に特化した城を武力のみで攻めるのは至難の業でした。城の至るところに設けられた「仕掛け」によって城を守る側の方が有利で、攻める方は何とか相手の攻撃を防いで城に入らなければならなかったのです。

しかも、攻める側も単に近付くのではなく、防御しながら城に近付いていく工夫が必要でした。特に鉄砲が普及しはじめ、被害が多くなる可能性のあった時代は、城を攻める側の防御が重視されます。そこで発達したのが、「仕寄り」(しより)という作戦です。

仕寄りとは、竹を束にした防御壁が城を攻める兵の前に置かれ、これを使用して被害を抑えながら前進するという方法。無防備に敵陣に突っ込んでいく兵の姿をイメージする人も少なくないでしょうが、実際にはもっと防御を重視した力攻めが行なわれたのです。また、こうした竹の束などで作られた防御壁を活かすためにも、後方からの援護射撃、城壁を上る際の長槍での援護も欠かせませんでした。

このように、力攻めは、味方の士気も高く、早ければ数日など短期で決着がつきますが、成功させるには(山城などの攻めにくい城、城を守る方の指揮官が優れている場合は)、籠城している側よりも、圧倒的な兵力を必要としたのです。

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武田信玄の戦国八陣

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