動物植物大集合
犬に馬に猿に猫…、動物大好きお殿様
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犬に馬に猿に猫…、動物大好きお殿様

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動物好きのお殿様と言えば、「犬公方」と呼ばれた江戸幕府第5代将軍徳川綱吉。犬や猫はもちろん、ドジョウやウナギ、虫なども保護の対象とした「生類憐れみの令」はあまりにも有名だ。しかし程度の差はあれ、日本の歴史を紐解くと、動物好きのお殿様は他にもたくさんいたようだ。

犬と太田資正

太田道灌(おおたどうかん)のひ孫にあたる武蔵国の戦国武将、太田資正(おおたすけまさ)は大の犬好き。居城の岩付城で50匹、舅から引き継いだ松山城で50匹の犬を育てていた。

周りの者は「子供のように犬に好かれるうつけ者」と嘲笑っていたが、資正には考えがあった。岩付城の犬と松山城の犬を入れ替えて、いざというときに伝書鳩ならぬ伝書犬として行き来できるように訓練していたのだ。

そんなある日、北条氏康によって松山城が包囲される事態が起きた。資正は岩付城にいて留守だったが、留守居の者に敵が攻めて来たときは、書状を竹筒に入れて犬の首に結び付けて放すように指示していた。

書状を携えた10匹の犬達は、北条方の風魔忍者の目もかいくぐり、みごと岩付城の資正のもとに到達。資正はただちに援護に向かうことができたという。

馬と明智秀満

明智光秀

明智光秀

戦国武将にとって、もっとも身近な動物と言えば馬だろう。生死を分ける合戦においては相棒、勝敗が決まれば戦利品となり、ときには主君への献上品にもなった。

そんな戦国武将と馬にまつわる逸話のひとつに、「明智左馬助の湖水渡り」がある。

明智左馬助(あけちさまのすけ)は明智光秀の重臣で、従兄弟でもあった明智秀満(あけちひでみつ)のこと。1582年(天正10年)、「本能寺の変」のあと、光秀は秀吉に敗れ自害してしまう。

このとき秀満は安土城を攻めていたが、光秀の死の知らせを聞くとすぐに、琵琶湖のほとりの坂本城へ引き返そうとした。しかし、ときすでに遅く、城への道は秀吉勢によって封鎖されていた。

逃げ道を失った秀満は、敵の目前で愛馬「大鹿毛(おおかげ)」にひらりと跨って琵琶湖に入り、浮いたり沈んだりしながらも泳ぎ切り、見事、城への帰還を果たしたという。

猿と豊臣秀吉と伊達政宗

伊達政宗

伊達政宗

幕末から明治にかけて編纂された「名将言行録」には、豊臣秀吉が飼っていた猿と伊達政宗にまつわる逸話が記されている。

いたずら好きな秀吉は、廊下にこっそり猿をつないでおいて、キバを剥いて飛びかかろうとする猿に驚く大名達を見るのが好きだった。

これを知った伊達政宗は、猿の世話人を買収して猿を連れ出し、政宗を見てもキバを剥かなくなるまでムチで叩いた。

そして秀吉との謁見の日、秀吉は猿が政宗に襲いかかるのを期待して観察していると、政宗の姿を見た猿はおびえるばかり。

すべてを察した秀吉は「またしても政宗。してやられた!」と面白がったという。

これと似たようなエピソードが、九州のキリシタン大名、大友宗麟(おおともそうりん)にもある。

宗麟は凶暴な猿を飼っていて、家臣に飛びかからせては面白がっていた。これに怒った参謀の立花道雪(たちばなどうせつ)は、襲い掛かってきた猿を鉄の扇子で叩き殺し、「人をもてあそべば徳を失い、物をもてあそべば志を失う」と宗麟を諌めたという。

猫と島津義弘・久保

秀吉による朝鮮出兵の際、薩摩の島津氏17代当主、島津義弘と次男の久保(ひさやす)は7匹の猫を朝鮮に連れて行った。

その目的は時計がない環境で猫の瞳孔の開き方から現在の時刻を推測するため。義弘と久保は7匹の猫を各陣営に配備し、戦略的に出撃時刻を合わせていた。

7匹のうち5匹は殉職し、ミケとヤスという名の2匹だけが生還した。

ヤスは久保が特に可愛がった猫で、自分の名前の一部を取ってヤスと名付けたという。白と黄色の茶トラの猫だったことから、鹿児島では茶トラの猫をヤス猫と呼ぶことがあるそうだ。

ミケとヤスは島津氏の別邸、仙巌園(せんがんえん)の祠に猫神様として祀られている。

象と徳川吉宗

徳川吉宗

徳川吉宗

動物好きと言えば、江戸幕府8代将軍徳川吉宗もなかなかのもの。

1728年(享保13年)6月7日、吉宗がベトナムに発注した、つがいの子象が長崎に到着した。メスの象は3ヵ月後に死亡したが、オスの象は翌年の3月13日に吉宗の待つ江戸へと出発した。

長崎から江戸までは直線距離でも約1000km。象は約2ヵ月間、毎日10~20 kmほど歩いて、ようやく江戸にたどり着いた。江戸の町は空前の象ブーム。浜御殿で飼われた象は、吉宗に会うためにたびたび登城したという。

しかし象は成長とともに凶暴になり、エサ代もかさむようになったため、1741年(寛保元年)に民間に払い下げられてしまった。

新しい飼い主となったのは、掛茶屋を営む源助という男。象小屋を建てて見物料を取り、象のフンを薬として売って、荒稼ぎした。

しかし飼育環境が悪かったのか、ストレスのせいか、象は翌年の1742年(寛保2年)に病死してしまった。異国の地で孤独に死んでいった象の気持ちを思うと、切ない気持ちになる。

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