戦国事件の真相
酒に飲まれて自慢の槍を取られた福島正則
戦国事件の真相
酒に飲まれて自慢の槍を取られた福島正則

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豊臣秀吉の叔母を母に持ち、幼い頃から秀吉に仕えた福島正則。秀吉と柴田勝家が戦った1583年(天正11年)の「賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)」で功を立て、「賤ヶ岳の七本槍」に名を連ねる槍の名手として知られている。しかし、その一方で酒豪としても知られ、酒の上での武勇伝にもこと欠かない。

福島正則の酒にまつわる失敗談

黒田節のもととなった酒戦

福島正則

福島正則

「酒は飲め飲め、飲むならば~」のフレーズで知られる黒田節。この民謡は正則と黒田長政の家臣、母里友信(もりとものぶ)とのエピソードをもとにして作られている。

ある日、長政が伏見の正則のもとに、友信を使いに出した。酒好きな正則は早速酒をすすめるが、友信は何か失礼があってはいけないと断った。

しかし、あきらめきれない正則は大きな杯に酒を注ぎ、「黒田の者はこれしきも飲めぬのか」と挑発。

すると友信は「あの槍を頂けるなら」と言うと、あっと言う間に飲み干し、槍を持ち帰った。

その槍は正則が秀吉から貰い受けた「日本号」と呼ばれる大切な槍だった。「武士に二言はない」と言うが、翌朝、酔いが醒めた正則は、慌てて返却を求めたというから面白い。友信は無常にこれを断ったという。

日本号

日本号

冒頭の黒田節の歌詞は「日の本一のこの槍を 呑み取るほどに呑むならば これぞまことの黒田武士」と続く。エピソードを知った上で聞くと味わい深い。

日本号は天下三名槍(めいそう)にも数えられ、現在は「福岡市博物館」に収蔵されている。

酔った勢いで切腹命令

江戸時代になって、正則は広島藩の初代藩主となった。江戸への行き来は、鞆浦(とものうら)から船を使うのが常。広島藩には港に着いて下船するときは着物を着替えるというルールがあり、着替えるタイミングは正則が指示することになっていた。

もうすぐ鞆浦に着こうかというとき、泥酔していた正則は、まだ家臣達が着替えていないことに激怒。担当の柘植清右衛門(つげせいえもん)を呼び、叱りつけた。

清右衛門は「まだ命令を頂いていませんので」と答えるが、酔っぱらった正則は手が付けられない。「切腹しろ! おまえの首を見るまで船から降りない」と暴言を吐きはじめ、本当に清右衛門は切腹してしまった。すると正則は機嫌を直して下船し、高いびきで一睡した。

そして素面(しらふ)に戻った正則は何事も無かったように清右衛門を呼びつけた。家老が事の次第を説明すると、たいそう驚き、声を上げて泣いたという。

福島正則と酒のちょっといい話

正則には酒にまつわるちょっといい話もある。清右衛門は気の毒だが、人情味のある武将としても人気が高い。

宇喜多秀家に酒を贈る

酒好きの正則の後押しもあって、広島は酒造りが盛んだった。ある日、将軍家に献上する酒を積み込んだ船が、悪天候のため八丈島に漂着してしまった。

乗組員である正則の家臣達が上陸すると、ひとりの老人が近づいてきて、「広島の酒を所望したい」と言う。

宇喜多秀家

宇喜多秀家

よくよく聞けば、その老人は宇喜多秀家。「関ヶ原の戦い」で西軍の将として戦って敗れ、八丈島に流されていたのだ。

老人の境遇を気の毒に思った家臣は、酒を1樽譲って、再び江戸に向かった。勝手なことをしたと切腹も覚悟していたが、事の顛末を聞いた正則はたいそう喜び、褒めたたえた。そして、その後も何度か八丈島に酒を届けさせたという。

秀家もまた正則と同じように幼い頃から秀吉に仕えていた。正則は1561年(永禄4年)生まれ、秀家は1572年(元亀3年)生まれで、年齢は11歳違うが、同じ釜の飯を食った仲。

秀吉の死後、正則は石田三成と対立して徳川についたため、関ヶ原の戦いで2人は対立したが、まだ絆のようなものは残っていたのだろう。正則は、西軍として戦わなかった罪滅ぼしの意味も込めて酒を贈っていたのかもしれない。

酒でつながる熱い友情

秀吉がまだ存命だった頃のこと、正則には松田左近という酒飲み友達がいた。左近は堀尾忠氏(ほりおただうじ)の家臣で、忠氏の父は豊臣家三中老のひとりである堀尾吉晴(よしはる)。正則は忠氏とも顔見知りだったと思われる。

伏見城に出向いた正則は、忠氏が登城していることを知り、随行しているはずの左近に会おうと、大手門で待っていた。しかし現れたのは忠氏のみ。聞けば病で静養中という。

心配した正則は馬に飛び乗り、たったひとりで左近のいる大坂に向かった。

幸い、左近は病ではなく怪我だった。正則の心遣いに喜んだ左近は、さっそく酒を飲もうと、小姓にたっぷり買ってくるように指示した。しかし、正則はこれを遮り、「怪我とは言え、たくさん飲んでは体にさわるから、今夜は1杯ずつにしておこう」と、1杯の酒をちびちびと飲みながら語り明かしたという。

酒に飲まれて自慢の槍を取られた福島正則

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