戦国事件の真相
徳川家を鼻毛で翻弄? 前田利常のかぶき者伝説
戦国事件の真相
徳川家を鼻毛で翻弄? 前田利常のかぶき者伝説

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加賀百万石の前田家初代当主、前田利家は「かぶき者」(戦国時代末期から江戸時代初期にかけて流行した、派手な身なりをして、常識を逸脱した行動を取る者。)として知られ、若い頃は、長く派手な装飾の槍を持ち歩いたため「槍の又左」と呼ばれていたという。そんな利家のかぶいた血を、もっとも濃く引き継いだのが3代目当主で、加賀藩2代目藩主の前田利常(まえだとしつね)。名君か暗君か? ときに鼻毛を、ときに股間をさらした、利常の奇天烈な行動の真意とは?ちなみに槍の又左の又左は利家の元服名、前田又左衞門利家からきている。

加賀百万石の前田家3代目当主に大抜擢

前田利常

前田利常

1594年(文禄2年)に前田利家の4男として生まれた前田利常。母は正室「まつ」の侍女だった千代(のちの寿福院)。1598年(慶長3年)に前田家の家督は利家から、嫡男の前田利長(まえだとしなが)に譲られていたため、本来であれば側室の子である利常が、当主になることはないはずだった。

ところが1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」で次兄の前田利政(まえだとしまさ)が西軍に味方。このとき三男の前田知好(まえだともよし)はすでに出家していたため、当主のお鉢が利常にまわって来た。まだ6歳だった利常は、跡継ぎのいない兄、利長の養子となり、その5年後の1605年(慶長10年)に家督を継いで、加賀藩2代目藩主となった。

前田家と徳川家の確執

利常のかぶいた言動には、前田家・加賀藩が徳川家を相手に経験した、2度の存亡の危機が影響している。

慶長の危機

徳川家康

徳川家康

一度目は前田利家が亡くなった1599年(慶長4年)から翌年にかけての「慶長の危機」。

豊臣秀吉の没後、その子、豊臣秀頼の後見人をつとめていた利家が亡くなったのをいいことに、徳川家康は「利長が謀反を企てている」という噂を根拠に、加賀征伐に動き出した。

これに対し、利長は当初、交戦の構えだったが、豊臣家の協力を得られなかったため断念。

重臣の横山長知(よこやまながちか)を徳川との交渉に向かわせ、前田家からは利長の母、まつを人質に出し、徳川家からは第2代将軍秀忠の娘、珠姫(たまひめ)を利常に嫁がせることで和睦した。利常6歳、珠姫1歳のときだった。

寛永の危機

金沢城

金沢城

二度目の危機は徳川3代将軍家光の時代、1631年(寛永8年)の「寛永の危機」。

徳川第2代将軍秀忠の病中に、加賀藩が幕府に無断で金沢城を修築したことや、他国から船舶を購入したこと、大坂の陣で武功があった者に追賞(追加の報美)を与えたことなどを理由に、謀反の疑いをかけられた。

利常と嫡男の前田光高(まえだみつたか)は弁明するため江戸に赴くが家光には目通りがかなわなかった。しかし、このときも横山長知の子の横山康玄(よこやまやすはる)の尽力で事なきを得ている。

徳川家を翻弄する利常のかぶき者大作戦

このように根深い確執があった前田家と徳川家。加賀藩主の利常にとって、幕府の警戒をかわし、いざというときのために防御を固め、藩の政治を安定させることが大命題。手を変え品を変え、かぶいた態度で幕府を煙に巻き、藩を守った。

藩のためなら鼻毛も股間も御開帳

寛永の危機をきっかけに、利常は鼻毛を伸ばし始めた。わざととは知らない側近達は、それとなく鼻毛が出ていることを伝えようと、利常の目の前で鼻毛を抜いたり、手鏡を献上したりしたところ、利常は「これは三国(加賀・能登・越中)を守り、お前達が安泰に暮らすための鼻毛なのだ」と言ったという。

鼻毛を伸ばしていたのは馬鹿のふりをしていれば幕府からの敵視を逸らすことができるという考えからであった。鼻毛が出ていてもイケメンである。

江戸城

江戸城

江戸城でも大暴れだ。病気で登城を休んでいたことを幕府の老中に咎められた際は、「疝気(せんき)でここが痛くてかなわぬ故」と、衆人環視の中で股間をさらけ出した。

またあるときは、江戸城敷地内の「小便禁止。罰金黄金一枚」の札の前であえて立小便をし、下馬の札があれば、あえて無視して馬に乗ったまま通り過ぎた。

万が一のための忍者寺

利常は江戸でうつけを装いつつ、藩では幕府が攻めてきたときのための防御を粛々と固めていた。金沢城を挟む犀川と浅野川を自然の濠に見立てて、その外側に寺院を移築し防備の一部としたのだ。

妙立時

妙立時

利常の命により1643年(寛永二十年)に創建され、1650年代に犀川のほとりに移築された妙立寺もそのひとつ。

万が一のときは出城として中心的な役割を担うように作られたこの寺は現存し、忍者寺とも呼ばれている。建物全体が迷路のような構造をしていて、敵を欺くトラップの数々に、かぶき者、利常のスピリットが感じられて面白い。

日蓮宗/正久山 妙立寺(忍者寺)
石川県金沢市野町1-2-12
電話 076-241-0888
※拝観は電話予約が必要。電話受付時間は8:00~17:00まで。

政治は一加賀、二土佐

利常は藩の治水事業や、「十村制(とむらせい)」、「改作法(かいさくほう)」といった農政改革などにも積極的に取り組み、「政治は一加賀、二土佐」と称えられた。

「十村制」は有力な農民を現場監督として、農村全体を管理し、円滑に徴税するシステムで、「改作法」は農民の暮らしを安定させ、税収を増やすためのシステムだ。

また、御細工所(おさいくしょ)と呼ばれる工房を設立して、美術や工芸などの産業の育成につとめ、「加賀ルネサンス」とよばれる豊かな文化も開花させた。

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