歴史上の人物と日本刀

日本刀 山鳥毛の写しと愛刀家上杉謙信

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「山鳥毛」(さんちょうもう/やまとりげ)は、「上杉謙信」由来の刀剣・日本刀です。関東管領の地位、上杉家の家督と共に、謙信に譲られたというこの名刀についてご紹介します。

長尾景虎と関東管領

上杉謙信

上杉謙信

「長尾景虎」(ながおかげとら)は、1530年(永享2年)、越後守護代「長尾為景」(ながおためかげ)の4男として生まれました。

1561年(永禄4年)には、主家である関東管領「上杉憲政」(うえすぎのりまさ)の養子となります。景虎はこのとき、「上杉政虎」(うえすぎまさとら)と名を改め、上杉氏が代々務めてきた「関東管領」(かんとうかんれい)の職を継承。

こののち、「上杉輝虎」(うえすぎてるとら)と改名し、最後は法号(ほうごう:仏門に入ったときに名乗る名前)として「上杉謙信」を名乗るのです。

関東管領とは、「鎌倉公方」(かまくらくぼう)の補佐役にあたります。室町幕府の初代将軍「足利尊氏」は、関東、伊豆、甲斐(のちに出羽、陸奥を含む)を治める役所として「鎌倉府」を、その長として鎌倉公方を配置。鎌倉公方と関東管領は東国の要職でした。

しかし、時代を下ると共に、関東の権益をめぐって鎌倉公方と関東管領の対立が激化。1438年(永享10年)、鎌倉公方「足利持氏」(あしかが もちうじ)が関東管領「上杉憲実」(うえすぎ のりざね)に攻め込みます。

これをきっかけにして6代将軍「足利義教」(あしかがよしのり)が持氏への追討軍を鎌倉へ派遣。翌年、持氏は自害へと追い込まれます。これを「永享の乱」と言い、以後、関東では関東管領・上杉氏が実権を握ることになりました。

地位、家督と共に名刀を継ぐ

鶴岡八幡宮

鶴岡八幡宮

謙信は、13代将軍「足利義輝」より関東管領就任の許しを直々にもらい、鎌倉の鶴岡八幡宮でこれを引き継いだと言われています。もともと上杉家は、足利家の外戚で名門。関東管領職は、それが理由で上杉家に任じられてきた役職です。

なお、上杉家は藤原氏の子孫、謙信の出自である長尾家は桓武平氏の子孫、いずれも歴史ある名家だと言われています。

そして、謙信が関東管領の地位と同時に引き継いだのが、上杉家の家督と名刀「山鳥毛」。山鳥毛の持ち主こそが上杉家の主であり、関東管領なのです。

この名刀は当時、「備前長船兼光」(びぜんおさふねかねみつ)の作とされていましたが、現在では鎌倉時代の福岡一文字派の刀剣・日本刀と考えられています。刃文が鎬(しのぎ)まで大きく丁字乱れなことから、まるで山鳥の羽が逆立ったようだということで、この号が付けられたとのこと。謙信は、山鳥毛の拵に合口拵を用いて、愛刀としました。

優れた鑑定眼で選ばれた上杉家御手選三十五腰

愛刀家であった謙信は、刀剣・日本刀の優れた鑑定家でもあります。山鳥毛はもちろんのこと、他の名刀も、上杉謙信亡きあとは子の「上杉景勝」(うえすぎかげかつ)に引き継がれ、上杉家の家宝とされました。

謙信同様に愛刀家・鑑定家であった景勝は、特に気に入った刀剣・日本刀を選抜した名刀リストとして、「上杉家御手選三十五腰」(うえすぎけおてえらびさんじゅうごよう)にまとめています。

姫鶴一文字

銘は「一」、号は「姫鶴一文字」(ひめつるいちもんじ)。長さ2尺3寸6分、刃長71.5cm、反り2cmの太刀です。鎌倉時代後期、福岡一文字派の作品と言われています。

謙信は、この太刀を自分には長すぎると考え、刀鍛冶を呼んで磨上げ(刃身を短くすること)を依頼。そうしたところ、「大切な太刀に万一のことがあっては」と太刀を抱いて寝た刀鍛冶の夢枕に鶴姫と名乗る美女が現れ、「わたしを短くしないでほしい」と懇願しました。刀鍛冶がこの話を謙信に伝えたところ、謙信は短くするのをやめてしまったとのこと。

姫鶴一文字の号は、この逸話にちなんだ物だと言われていたり、刃文が鶴の羽に似ているからという説もあったり、号の由来については諸説あります。

姫鶴一文字

姫鶴一文字

鑑定区分 刃長 所蔵・伝来
重要文化財 2尺3寸6分
(71.5cm)
上杉謙信→
米沢市上杉博物館

謙信景光

銘は、表に「備州長船景光」、裏に「元享三年三月日」(元享3年は1323年)。号は「謙信景光」。

謙信が手元に置いた愛刀として有名です。刃身の表には秩父大菩薩が、裏には大威徳明王を現す梵字が彫られています。刃文は、美しい片落ち互の目(ぐのめ)です。

謙信景光

謙信景光

鑑定区分 刃長 所蔵・伝来
表:備州長船景光
裏:元亨三年三月日
国宝 9寸3分
(28.3cm)
上杉謙信→
埼玉県立歴史と民俗の博物館

五虎退吉光

銘は「吉光」、号は「五虎退」(ごこたい)で、「粟田口籐吉郎」の作品。刃身には、両面に護摩箸(ごまはし:2本の棒状の物)の彫りがあります。

1559年(永禄2年)、謙信が13代将軍足利義輝に招かれて上洛(じょうらく:京都へのぼること)したおり、正親町天皇から拝領した短刀です。

もとは3代将軍「足利義満」が明に遣わした使者がこの短刀を持っており、5頭の虎に襲われたときにこの短刀で追い払ったとの逸話から、この号が付いています。短刀は義満に献上され、さらに朝廷へと献上されました。それを謙信が頂いたのです。

五虎退吉光

五虎退吉光

鑑定区分 刃長 所蔵・伝来
吉光 国宝 25.1cm 上杉謙信→
個人→
米沢上杉博物館
(委託)

山鳥毛一文字

この刀剣・日本刀には銘がないため、「上杉家御手選三十五腰」にリストアップされているのかを確認できません。

しかし、これほどの名刀が入っていないとも考えにくく、謙信の愛刀であったことからも、「上杉家御手選三十五腰」に挙げられているのは間違いないと考えられています。

山鳥毛一文字

山鳥毛一文字

鑑定区分 刃長 所蔵・伝来
なし 国宝 2尺3寸6分
(79.2cm)
上杉謙信→
個人→
岡山県立博物館
(委託)

太刀 国宗

国宗は、上杉三十五腰(上杉謙信の所蔵品の中から上杉景勝が気に入った上杉家伝来の日本刀を選抜した名刀リスト)のうちの1振。作者である国宗は、「備前三郎国宗」(びぜんさぶろうくにむね)と呼ばれた名工です。

国宗の作風は鎌倉中期の太刀姿ではあるものの、反りの深い品格のある姿が特徴となっています。刃文備前伝の典型である匂い深く小沸(こにえ)づいた丁子乱れを焼き、丁子映りも現れています。

太刀  国宗
太刀 国宗
国宗
鑑定区分
重要美術品
刃長
67.3
所蔵・伝来
上杉家→
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

写しを作ることで新しい何かを学べる

刀剣・日本刀の「写し」とは、オリジナルそっくりに作った物のことです。本物そっくりに出来上がることもあれば、写しを作った刀工の味わいが加わって、別の趣きの刀剣・日本刀となることもあります。

そして、山鳥毛の写しを作ったのは、現代の刀匠「大野義光」氏です。大野氏は1948年(昭和23年)、新潟県生まれ。学生時代から刀剣・日本刀に興味を持ち、刀工の修行をしたのち、高松宮賞、文化庁長官賞などを受賞し、現代刀工ではトップクラスの技術を誇ります。

大野氏が山鳥毛の写しに挑戦したのは、山鳥毛が福岡一文字派の頂点に位置するからとのことです。特徴的な刃文の再現には何年もかかりました。「山鳥の羽のよう」と言われる重花丁子の刃文を、なんとなく似ているレベルではなく、細かな特徴までとらえて再現。

例えば、山鳥毛の刃文には半島状の部分があることに気付き、華やかな重花丁子に加えて半島状の部分まで細部にわたって再現しました。これは、作ることが大変な刃文で、「重花丁子というより大野丁子と言っていい」と評する鑑定家もいるほどです。

「古い物を見て倣って、新しい何かを生み出し、それを次の者が伝えていく」

大野氏は刀工としてのあり方をこのように語っています。刀剣・日本刀の世界だけではなく、日常生活にも通じる言葉です。

太刀 銘 越後国義光作 (山鳥毛写し)
太刀 銘 越後国義光作 (山鳥毛写し)
越後国義光作
鑑定区分
未鑑定
刃長
78.1
所蔵・伝来
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

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日本刀 山鳥毛の写しと愛刀家上杉謙信

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