戦国事件の真相
実母による伊達政宗毒殺未遂事件の真相
戦国事件の真相
実母による伊達政宗毒殺未遂事件の真相

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伊達政宗の母、義姫(よしひめ)は出羽国の戦国大名、最上義守(もがみよしもり)の娘。1564年(永禄7年)に政宗の父、輝宗(てるむね)に嫁ぎ、その3年後の1567年(永禄10年)に政宗を、その翌年に次男の小次郎を出産した。伊達政宗と陸奥国の大崎義隆(おおさきよしたか)が対立した1588年(天正16年)の「大崎合戦」では、女だてらに、両者の和睦に寄与した。実家の最上氏は大崎氏の分家で、実兄の最上義光(もがみよしあき)は大崎方の指揮官のひとり。義姫は自ら戦場に乗り込み、義光に停戦を迫ったのだ。そんな女傑、義姫だが、政宗毒殺未遂事件の犯人とも言われている。その真相はいかに?

伊達政宗毒殺未遂事件とは

伊達政宗

伊達政宗

「貞山公治家記録(ていざんこうちけきろく)」によると、政宗毒殺未遂事件は1590年(天正18年)4月5日に起きた。

事件の前年、伊達政宗は会津地方を平定したが、これが豊臣秀吉の怒りを買ってしまったのです。兄、最上義光は義姫に、政宗を殺して、小次郎を当主にすれば許されるだろうとアドバイス。

しかし、その魂胆は、政宗が死んだあと、小次郎をも殺害し、自分が伊達領を横取りしようというものだった。

義姫は小次郎を溺愛していたため、義光の言葉を鵜呑みにして政宗を食事に招き、毒を盛った。しかし政宗は腹痛を起こし嘔吐したものの、解毒剤を飲んだため、大事には至らなかった。

小次郎に家督を継がせるための母の犯行と知った政宗はたいそう怒って、4月7日に小次郎を手討ちにした。しかし、義姫については、実の母を殺すことはできないと、同日、山形の兄、最上義光のもとに出奔させるにとどめたという。

捏造された毒殺未遂事件

一般的に伝わる伊達政宗毒殺未遂事件の概要は上に示した通り。

しかし近年、以下の状況証拠から、この事件は捏造されたものだったのではないかと言われている。

状況証拠1 義姫が山形に出奔した時期

政宗の師である虎哉宗乙和尚(こさいそういつおしょう)が、友人の大有康甫和尚(だいゆうこうほおしょう)に宛てた手紙によると、義姫が山形に出奔したのは1594年(文禄3年)の11月4日とされている。

「貞山公治家記録」は第4代仙台藩主、伊達綱村(だてつなむら)によって編纂され、1703年(元禄16年)に完成された物。一方、虎哉宗乙和尚の手紙は1594年 (文禄3年)に書かれた物であり、こちらの方が信憑性は高い。

だとすると、政宗は自分を毒殺しようとした母を4年間も身近に置いておいたということになり、不自然である。

状況証拠2 親子愛にあふれる手紙

事件が本当であれば政宗と義姫はいがみ合っているはずだが、事件以降も親子の情愛あふれる手紙をやりとりしている。

文禄の役

文禄の役

1593年(年文禄2年)に「文禄の役」で政宗が朝鮮に出兵した折には、義姫は政宗に「あきかぜの たつ唐舟に帆を揚げて 君かえりこん 日のもとの空」という和歌と、お小遣い3両を贈っている。

これに対する政宗の返信は、母への素直な感謝と喜びにあふれている。何かお返しがしたいと、方々歩き回って美しい木綿をみつけたことも報告している。

そして手紙の最後には「もう一度、母上を拝み申したく、念望しています」と繰り返し、2人の間にわだかまりは一切感じられない。

毒殺未遂事件の本当の目的とは?

政宗毒殺未遂事件が捏造であるとしたら、誰が何の目的で計画したのか。それには2つの説がある。

家臣をまとめるための自作自演説

大悲願寺

大悲願寺

現在の東京都あきる野市にある大悲願寺に残る文書によると、この寺の住職となった秀雄(しゅうゆう)なる人物が小次郎であり、1642年(寛永19年)7月26日に没したとされている。

つまり、この説による事件のあらましはこうだ。

当時、伊達家の家臣は政宗派と小次郎派に分裂していた。この状況を打開するために、一計を案じた政宗。母に毒を盛られたと一芝居打ち、表向きは小次郎を手討ちにしたことにして、実は大悲願寺に匿ってもらった。

この説が正しいとするなら、義姫と小次郎も伊達家を守るために、一枚噛んでいたのだろう。

秀吉に言い訳するためのアリバイ工作説

豊臣秀吉

豊臣秀吉

事件が起きた1590年(天正18年)4月5日は、豊臣秀吉による小田原征伐の真っ最中。政宗にも参戦するよう声がかかったが、態度を決めあぐね、実際に小田原に到着したのは6月5日になってしまった。

当然、秀吉は立腹。切腹を命じられても仕方がない状況だ。そこで、政宗と義姫は遅れた理由を説明するためのアリバイ工作として、毒殺未遂事件を自作自演したのではないかと考えられている。

実際にこの言い訳を秀吉に伝えたのかは不明だが、政宗は死装束で秀吉に謁見し、決死の覚悟を示した。

そんなパフォーマンスが秀吉に気に入られ、「もう少し遅ければ、そなたのここが危うかったのう」と杖で首をつつかれながらも、許しを得ることができた。

実母による伊達政宗毒殺未遂事件の真相

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