江戸時代
第二次長州征伐②
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第二次長州征伐②

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「第一次長州征伐」(だいいちじちょうしゅうせいばつ)とは、1864年(元治元年)、江戸幕府が、尾張藩主「徳川慶勝」(とくがわよしかつ)に総督を、「西郷隆盛」に参謀を任じ、攘夷運動と討幕運動の中心である長州藩の討伐へ動いた戦いを指します。長州藩は幕府だけではなく、同時に「下関事件」の報復を受けているさなかでした。そのため、幕府とは戦わずして負けてしまいます。そののち、藩内では一時、幕府に従おうとする保守派が主流となりますが、尊皇攘夷・倒幕を訴える改革派は、高杉晋作を中心とした騎兵隊が少数ながら挙兵。保守派に対し、奇襲作戦によって勝利することに。加えて、薩英戦争で攘夷が難しいことを身をもって知った薩摩藩と、下関事件で攘夷の意見が薄れた長州藩とを、坂本龍馬が引き合わせようと動き出します。意見の違いからなかなか実現しませんでしたが、武器の輸入や兵糧米の調達など両者の思惑を龍馬が一致させ、薩長同盟の締結を実現しました。このあと、西洋からの武器を使った戦術や戦法の訓練を行なうなど、第二次長州征伐の勝利に向けて長州藩は動き出すのです。

第一次長州征伐と長州藩の動き

第一次長州征伐

攘夷運動と倒幕運動の中心的存在だった長州藩を倒すことにより、世間に幕府の力を示そうとした幕府は、「禁門の変」から数日後、長州藩に対し、「長州討伐令」を出しました。これを「第一次長州征伐」(だいいちじちょうしゅうせいばつ)と言います。

第一次長州征伐の総督には、御三家 尾張藩主・徳川慶勝、参謀に西郷隆盛を任命した他、諸藩に対しても従軍を命令。しかし、莫大なお金が掛かることや、「長州藩討伐=幕府の力を増長させること」になるため、幕府の思惑とは裏腹に、出兵を喜ぶ藩はありませんでした。

西郷隆盛・勝海舟

西郷隆盛・勝海舟

長州征伐の参謀となった西郷隆盛は、幕府海軍に出兵を要請するため、幕府軍艦奉行だった「勝海舟」を訪ねます。

勝海舟は西郷隆盛に対し、「すでに幕府は国内統一の力を失っており、このままの日本では、外国に侵略される可能性もある。今後は藩が合議して国政を行なう新政権を実現し、国の政治を動かすべきである。」と、新しい日本の国家体制について語りました。

長州討伐を決意していた西郷隆盛でしたが、勝海舟の話から考えを改め、征討総督だった徳川慶勝に対し、「内戦は国力の低下を招くだけで、誰も得をすることはない。長州藩と交渉し、幕府に対し恭順の姿勢をとってもらうことで平和的解決をするべきである」と説得します。西郷の話に慶勝も納得し、禁門の変を率いた三家老、「益田右衛門介」「国司信濃」「福原越後」の処分、及び毛利藩主父子の詫び状提出、長州にいる5人の公卿の大宰府への移居などを条件に、長州征伐を収束しようと長州藩に働きかけました。

一方、長州藩は、アメリカの商船を砲撃した「下関事件」の報復として、4ヵ国(イギリスやフランス、オランダ、アメリカ)の連合艦隊から攻撃を受けて窮地に立たされており、この幕府からの条件を受け入れる他なく、第一次長州征伐は戦わずして長州藩の敗北となったのです。

功山寺挙兵

高杉晋作

高杉晋作

幕府や4ヵ国の連合艦隊との戦いで敗戦した長州藩は、藩政をここまで窮地に追い込んだ責任は、「高杉晋作」らの「改革派[※1]」にあるとして、「椋梨藤太」(むくなしとうた)らが率いる「保守派[※2]」が改革派の藩士達の粛清を始め、新たに親幕政権を発足しようとします。

改革派の中心人物だった高杉晋作は、この粛清から逃れるため、福岡の平尾山荘に住んでいる「野村望東尼」(のむらもとに)のもとに一時潜伏します。

再び藩政の主導権を奪い返そうと諸隊に呼びかけ始めますが、高杉に賛同する隊は少なく、のちの総理大臣「伊藤博文」が率いる力士隊や「石川小五郎」率いる遊撃隊など、約80名しか集まりませんでした。

それでも、高杉晋作はこの力士隊らを率いて、1864年(元治元年)藩の奉行所であった「功山寺」(現在の下関市長府)を襲って占拠したのです。これを「功山寺挙兵」(こうざんじきょへい)と言い、これら長州藩内の一連の抗争を「元治の内乱」と呼びます。

功山寺を占拠した高杉晋作らの「奇兵隊」は、藩の奉行所から軍資金や武器弾薬を奪い、さらに海路、三田尻に赴いて藩の軍艦3隻を奪うなど、奇襲攻撃をかけました。これによって奇襲攻撃で高杉晋作らが優位となると、当初出兵を拒否していた総督「山形有朋」や他の諸隊も次々に参戦し、最終的には約2,000人にも達するほどの兵力となります。2ヵ月ほど戦ったあと高杉ら改革派が勝利し保守派が追放されました。

再び藩政を握った改革派は、連合艦隊との戦いで完膚なきまでに敗れたことで、「攘夷」という考えはなくなり、外国からは最新の武器を購入、藩の軍備力強化を行なうよう方針転換し、幕府に対しては恭順を装いながら、水面下で「倒幕」の準備を進めていきました。

※1 改革派:尊皇攘夷派・急進派・倒幕派・勤皇派など
※2 保守派:俗論派・幕府恭順派・佐幕派・重商派

薩長同盟

一方、薩摩藩においても、長州藩と同様、薩英戦争でイギリスと直接戦ったことで、攘夷は難しいと悟り、和平交渉することによってイギリスから大砲や艦を購入し、それらの技術を吸収していこうと方向転換していました。

また、もともと公武合体派の薩摩藩でしたが、第一次長州征伐で戦火を交えることなく長州藩を恭順させ、平和的解決をしたものの、幕閣からは褒められるどころか「寛大過ぎる」と咎められます。しかも、復権ばかりを目指し、諸外国の圧力の前に打開策を見いだせない幕府に対し、西郷隆盛や薩摩藩重臣らは次第に不満を募らせ、倒幕へと傾いていきました。

このような状況の中、勝海舟の海軍学校で学んでいた「坂本龍馬」が、日本の新政権を実現する足がかりとして、薩摩藩と長州藩を引き合わせようと動き出します。

両藩は、八月十八日の政変や禁門の変などで対立を深めていたことから、容易には実現できませんでした。しかし、長州藩は朝廷や幕府から監視され、自藩名義で国内外と武器を購入することを禁じられていた一方、薩摩藩は薩英戦争をきっかけに、イギリスから秘密裏に武器を購入していたところに目を付け、坂本龍馬が中心となって設立した貿易会社「亀山社中」(かめやましゃちゅう)から薩摩藩名義で長州藩用の武器と軍艦を購入。

代わりに長州藩には薩摩藩が必要としている兵糧米を用意させることで、両藩の関係を改善しようと考えます。この坂本龍馬の思惑通り、両藩の関係は大きく改善し、同盟へと一歩前進しました。

薩長同盟

薩長同盟

このあと、両藩の倒幕という目的と利害が一致したこと、さらに坂本龍馬からの熱心な説得と、至妙な立ち回りによって、ついに京都の「小松清廉」の屋敷に長州藩の桂小五郎(木戸孝允)が赴くことで「薩長同盟」が締結されたのです。

長州藩は、この薩長同盟によって薩摩藩名義でイギリスの武器を購入することが可能となり、裏で着々と討幕のため武力を蓄えていきました。

長州藩の軍備・軍制改革

4ヵ国艦隊との戦いで敗れて以降、長州藩では、西洋式兵制を採用した「奇兵隊」を作ろうと、蘭学や兵学などを学び西洋事情に精通していた「大村益次郎」(おおむらますじろう)を参謀として登用し、長州藩の軍備・軍制改革を進めます。

奇兵隊は、これまでの正規の武士によって編成される軍隊とは違い、武士階級や農民、町人など身分に関係なく、有能で士気が高い者を登用し、有志により結成されていた諸隊と整理統合して藩の統制下に組み入れ、農商階級の兵士を再編しました。

最新のライフル銃

最新のライフル銃

また、幕府などが命中精度の低い旧式のゲベール銃を導入していたのに対し、長州藩はミニエー銃やスナイドル銃など、命中精度の高い最新のライフル銃を導入し、その訓練を実施します。

さらに、大村益次郎は軍制の再編成や最新武器の訓練と共に、西洋式戦術を導入。

それまでの日本の戦い方は、指揮官が指揮しながら密集陣形を組んで日本刀(刀剣)や槍で戦う「集団戦術」でしたが、銃火器が導入されてからは、密集していると逆にターゲットとなり、大きな被害(デメリット)となることから、兵士を散開させて戦わせる「散兵戦術」にシフトさせたのです。

散兵戦術を採ることで、1度に大きな被害を受けることはなくなりますが、兵士が散開するため指揮官の命令が行き届かず、兵士各自が散兵戦術を習熟している必要がありました。

このため、訓練には「散兵教練書」(さんぺいきょうれんしょ)を使い、指揮官からの命令が届かなくても、自ら工夫して作戦を遂行できるよう、自発性・独立心を養うことを重視した教育と訓練を徹底的に行なったのです。この軍備・軍制改革が、「第二次長州征伐」の結果に大きく影響を与えることとなりました。

第二次長州征伐②

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