日本刀を知る

銘に見る干支と年号

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日本刀が誰によっていつ頃作られたかを知る糸口となるのは、「茎」(なかご)に入れられている「銘」(めい)。701年(大宝元年)に制定された「大宝律令」(たいほうりつりょう)において、日本刀に銘を刻むように義務付けられたことがその始まり。そんな銘には、刀工名はもちろん、作刀時期を表すために、現代の私達の暮らしでも用いられている「干支」(えと)や「年号」も刻まれています。
「干支」と言えば、現代では、12種類の動物を当てはめて生まれ年を示す、いわゆる「十二支」(じゅうにし)をイメージしますが、日本刀の銘に用いられる「干支」は、少し異なっているのです。
ここでは、銘に見られる干支と年号がどのような意味を持つのかについて、具体例を挙げながら解説します。

茎に刻まれた銘

日本刀のは、通常「」(つか)に納められ、隠れている部位。茎と柄がしっかり固定されていなければ、実際に日本刀を用いることはできません。

しかし、研磨(けんま)などの際には柄が外され、茎を観ることが可能。そこによく刻まれているのは、日本刀を鍛えた刀工の名前やその目印。

例えば、国宝三日月宗近」(みかづきむねちか)の茎の裏面には、「三条」(さんじょう)と作者の呼称(京の三条に住んでいたため、三条宗近[さんじょうむねちか]と呼ばれていた)が刻まれ、同じく「童子切安綱」(どうじぎりやすつな)の茎の表面には、「安綱」(やすつな)と作者「大原安綱」(おおはらのやすつな)の名が刻まれています。

その他の国宝である日本刀も観ると、「小龍景光」(こりゅうかげみつ)は、茎の表面に「備前国長船住景光」(びぜんのくにおさふねじゅうかげみつ)と刻まれており、さらに裏面に彫られているのは、「元亨二年五月日」(げんこう/げんきょうにねんごがつひ)の文字。

「元亨2年」とは、鎌倉時代末期にあたる1322年のこと。このような銘は「年紀銘」(ねんきめい)と呼ばれ、同年5月に完成した日本刀だと言うことが分かるのです。

桑山保昌

桑山保昌

また、同じく国宝に指定されている鎌倉時代末期の短刀「名物 桑山保昌」(めいぶつ・くわやまほうしょう)の場合は、表銘に「高市郡住金吾藤貞吉」(たかいちぐんじゅうきんごとうさだよし)、そして裏銘には、「元亨二二年甲子十月十八日」(げんこうよねんきのえねじゅうがつじゅうはちひ)と刻まれています。

「大和国高市郡」(やまとのくに・たかいちぐん:現在の奈良県高市郡)に住む「金吾藤貞吉」(きんごとうさだよし)、つまり、大和刀工5派のうちの「保昌派」(ほうしょうは)に属していた「藤原貞吉」(ふじわらさだよし)が打った日本刀であることを示しているのです。

本短刀は、戦国時代から江戸時代にかけて活躍した大名「桑山元晴」(くわやまもとはる)が所持していたことから、「桑山保昌」(くわやまほうしょう)と呼ばれました。その後、加賀百万石の「前田利常」(まえだとしつね)の所有となり、昭和期まで前田家に伝来した1振です。

また、裏銘にある「元亨二二年」の「二二」は、「二」の字を半分に割っているかのように刻まれていますが、これは「二」+「二」、すなわち「元亨4年」(1324年)に作刀されたことが窺えます。

「元亨ニニ年」のあとに続く「甲子」(きのえね/かっし)は「干支」のひとつ。「干支」は、正しくは「十干十二支」(じっかんじゅうにし)と呼ばれ、「甲」(こう/きのえ)や「丙」(へい/ひのえ)など、10種類からなる「十干」(じっかん)と、「子」(し/ね)や「丑」(ちゅう/うし)など12種類の「十二支」が重なるのは、それらの最小公倍数である60年に1度しかありません。

そのため、元亨年間(1321~1324年)の「甲子」は、この元亨4年だけです。

銘に見られる「干支」の意味

日常の会話の中で、「あなたの干支は何ですか?」「私はねずみ年です」と言うような言葉を交わしたことがある人は多いはず。

このときの「干支」と言うのは、1年ごとに、①「子」(ね=ねずみ)、②「丑」(うし)、③「寅」(とら)、④「卯」(う=うさぎ)、⑤「辰」(たつ=竜)、⑥「巳」(み=蛇)、⑦「午」(うま=馬)、⑧「未」(ひつじ=羊)、⑨「申」(さる=猿)、⑩「酉」(とり=鶏)、⑪「戌」(いぬ=犬)、⑫「亥」(い=猪)の動物を当てはめた「十二支」のことを指し、12年で1周するだけだと勘違いしそうですが、本当は、十干と合わせて60通りの組み合わせがあり、それが「干支」と呼ばれているのです。

現在の日本では、十二支に比べて十干の存在は薄れていますが、本来は「干」が「幹」(みき)、「支」が「枝」と同源であると考えられていたため、「支」に比べて、「干」の方がより重要な区切りでした。

古代中国から日本に伝わった思想に、「陰陽五行説」(いんようごぎょうせつ)があります。これは、世界の万物を構成する元素を「木」、「火」、「土」、「金」、「水」の5つと考え、それぞれに陰陽が結び付くとされていました。

具体的には、①「甲」(きのえ、木と陽)、②「乙」、(きのと、木と陰)、③「丙」(ひのえ、火と陽)、④「丁」(ひのと、火と陰)、⑤「戊」(つちのえ、土と陽)、⑥「己」(つちのと、土と陰)、⑦「庚」(かのえ、金と陽)、⑧「辛」(かのと、金と陰)、⑨「壬」(みずのえ、水と陽)、⑩「癸」(みずのと、水と陰)の10通り(陰陽五行)あるのが「十干」です。

そしてこれらに、「十二支」が組み合わさることによって、もっと複雑な事象も説明できるようになりました。これが「十干十二支」、すなわち本来の「干支」の意味なのです。

年号とは?

「桑山保昌」の年紀銘に刻まれていた「元亨」は、いわゆる「年号」や「元号」と呼ばれる年の名称。現代の日本では2019年5月より、年号が「平成」から「令和」となりました。

もともと年号は、中国の歴代王朝が用いた紀年の方法を日本に輸入し、その始まりは、西暦645年の「大化」(たいか)。これは、35代天皇「皇極天皇」(こうぎょくてんのう)のときのことでした。

現在、日本の年号は、天皇御一代につきひとつの年号(一世一元[いっせいいちげん])と定められていますが、これは明治以降のことで、それ以前はひとりの天皇の時代に、いくつもの年号が使われることが多くあり、それが普通となっていました。

年号は、国家の繁栄と安定を願う文字を選定して考案されます。

そのため、災害や事件など、何か縁起の悪いことが起こったり、代替わりなど体制の変更があったりすると、新しい年号で縁起直しや気分一新を図ったのです。

しかしそれでは、おびただしい数の年号が、目まぐるしく変わっていくことになり、例えば「天安2年」がいつのことなのか、非常に分かりづらくなってしまいます。これは、西暦858年のことですが、平安時代前期であるということは、なかなかピンと来ません。

このようなことから明治政府は、1872年(明治5年)、このややこしさを解消するために、「神武天皇」(じんむてんのう)が即位したと伝わる年(西暦の紀元前660年)を、「神武紀元元年」(じんむきげんがんねん:別名 皇紀[こうき]元年)、と定め、これを導入しましたが、太平洋戦争の敗戦後は廃止され、現在の日本では、西暦と年号の2本立てが用いられています。

さて、江戸時代以前は、短い周期で変わっていた日本の年号。そこで、当時の人々は、「年号」と「干支」を組み合わせることで、より分かりやすく暦を把握できるようにしたのです。

60年に1度、巡ってくるだけの干支に年号を合わせれば、大体の見当が付くと言うのがその理由。これはもちろん、日本刀の銘だけではなく、文書などでもよく見られる表記方法です。

日本刀の銘における干支と年号の具体例

ここからは、年号と干支が銘に刻まれている日本刀の具体例を、さらにいくつか挙げていきます。

大太刀「銘 貞治五年丙午 千手院長吉」<国宝>
(おおだち・めい じょうじごんらんへいご せんじゅんいんながよし)
本大太刀は、瀬戸内海に浮かぶ大三島(おおみしま)の海の神、「大山祇神社」(おおやまづみじんじゃ:愛媛県今治市)が所蔵する1振。

南北朝時代、南朝2代(日本の歴代天皇としては97代)天皇であり、「後醍醐天皇」(ごだいごてんのう)の皇子であった「後村上天皇」(ごむらかみてんのう)が、大山祇神社に奉納したと伝わる日本刀で、国宝にも指定されています。

本太刀の裏側に刻まれた銘にもある通り、本大太刀を制作した刀工は、「千手院長吉」(せんじゅいんながよし)。

千手院長吉は、「大和五派」(やまとごは)の中でも最も古く、「東大寺」(とうだいじ:奈良県奈良市)に属する僧兵達の日本刀需要をまかなっていた「千手院派」(せんじゅいんは)の刀工。

同派の呼称は、若草山のふもと、千手観音(せんじゅかんのん)を祀る「千手院堂」(せんじゅいんどう)の近くで鍛刀していたことから付けられました。

本太刀は、細身で長く反りが高い刀身と、長く美しい鋒/切先(きっさき)がその特徴です。

銘の「貞治」(じょうじ)は、南北朝時代に北朝が用いた年号で、「貞治5年」は、西暦で言うと1366年。ちょうど後村上天皇が南朝を率いていた時代です。

そして、本太刀の銘の中には、刀工名の前に「丙午」(へいご/ひのえうま)と入れられており、丙午の干支の年に作られた日本刀であることが表されています。

現代人の感覚では、「貞治5年」と分かれば、干支は不要ではないかと思ってしまいますが、昔の日本人は、年号だけでなく、干支も非常に大事にしていたのです。

大太刀「銘貞治五年丙午千手院長吉」

大太刀「銘貞治五年丙午千手院長吉」

太刀「銘 来孫太郎作 正応五□辰八月十三日」<国宝>
(たち・めい まごたろうさく しょうおうご□たつはちがつじゅうさんにち)

本太刀は、「徳川家康」から「尾張徳川家」(おわりとくがわけ)に伝わり、現在は「徳川美術館」(愛知県名古屋市)が収蔵している国宝の日本刀。

「孫太郎」は、山城伝(やましろでん)の名門「来派」(らいは)の刀工で、鎌倉時代後期に活躍した「来国俊」(らいくにとし)が、晩年に称していた名前です。

そして、本太刀の裏面の茎には、「正応五□辰八月十三日」と年紀銘が刻まれています。「五」の次の字は消えていますが、「正応5年」は1292年にあたり、その干支は「壬辰」(じんしん/みずのえたつ)。

そのため、ここには「5年」の「年」の字、もしくは「壬」の字が入っていたと推測できます。

太刀「銘 来孫太郎作[花押]正応五 辰八月十三日」

太刀「銘 来孫太郎作[花押]正応五□辰八月十三日」

脇差「表銘/濃州関三阿弥兼國末葉伯耆守藤原信高六十歳 裏銘/尾州名護屋作元和七年酉素秋吉日」
(わきざし・おもてめい のうしゅうせきさんあみかねくにまつよう ほうきのかみふじわらのぶたかろくじゅっさい うらめい びしゅうなごやにおいてつくる げんなななねん とりそしゅうきちじつ)

本脇差の作者は、新刀期の刀工「藤原信高」(ふじわらのぶたか)。

まず表銘からは、本脇差が、美濃国関(みののくに・せき:現在の岐阜県関市)の刀工「三阿弥兼國」(さんあみかねくに)の子孫である藤原信高が、60歳のときに作刀した1振であることが分かります。

また裏銘には、本脇差を打った場所が尾張国名古屋(おわりのくに・なごや:現在の愛知県名古屋市)であったことが記されているのです。

そして、その制作年である「元和七年」(1621年)の年号が入っており、この年の干支は「辛酉」(しんゆう/かのととり)ですが、本脇差には「酉」とだけ刻まれています。

ちなみに「素秋」(そしゅう)の「素」は、「白色」の意味。これは、陰陽五行説において、白を秋の色として定めていることが由来であり、「素秋」は、秋の異称になっています。

すなわち、本脇差は、元和七年(1621年)の秋に作られたことが窺えるのです。

刀「表銘/作陽幕下士細川正義(刻印) 裏銘/天保三壬辰年八月日」
(かたな・おもてめい/さくようばくかし ほそかわまさよし[こくいん] うらめい/てんぽうさん じんしんねん はちがつひ)

本刀の作者は、江戸時代後期、つまり新々刀期の刀工「細川正義」(ほそかわまさよし)。

江戸の名工「水心子正秀」(すいしんしまさひで)の門人で、美作国津山藩(みまさかのくに・つやまはん:現在の岡山県津山市)の藩主:松平家(まつだいらけ)のお抱え工でした。

裏銘の「天保三年」は1832年にあたり、その干支である「壬辰」が刻み込まれています。

刀「表銘/副山田朝右衛門吉昌子之好 固山宗兵衛宗次作之 裏銘/天保七丙申年十一月十八日 於牢屋鋪 太々両車 土壇拂後藤五三郎利重 [花押]」 (おもてめい やまだあさえもん よしまさとのよしみにそい こやまそうべえむねつぐこれをつくる うらめい てんぽうなな へいしんねん じゅういちがつじゅうはちにち ろうやしきにおいて たたりょうしゃ どだんばらい ごとうごさぶろうとししげ[かおう])

本刀は、備前伝の名手であり、老中「松平定信」(まつだいらさだのぶ)のお抱え工だった「固山宗次」(こやまむねつぐ)の作。

固山宗次が本刀を作った相手の名は、表銘にある「山田朝右衛門吉昌」(やまだあさえもんよしまさ)。

代々「首切り浅右衛門」(くびきりあさえもん)と呼ばれた幕府の処刑人「山田浅右衛門」(やまだあさえもん)家の6代目です。

裏銘には、伝馬町(でんまちょう)牢屋敷の様場(ためしば:試し切りを行なう場所)で、「後藤利重」(ごとうとししげ)と言う人物が、罪人の死体を用いて、本刀で試し切りが行なわれたことが刻まれています。

また「太々」(たた)と言うのは、肩甲骨(けんこうこつ)あたりの、人体でいちばん固い部位。「両車」(りょうしゃ)はヘソの下あたりを指し、この2ヵ所で試し切りを行ない、その勢いで、本刀が「土壇」(どだん)の台にまで、切り込まれてしまったと言う出来事を表しています。

ちなみに、「土壇場」(どたんば)と言う言葉は、この処刑場の「土壇」(=土盛り)の台が語源。血なまぐさくてゾッとする話ですが、当時は、日本刀が実際に人を切ることができる、実用上問題ない、と言うことが大事であったため、このような「実績」を誇示する内容を、銘に刻むことも当然だったと言えます。

さらに本刀の裏銘に刻まれているのは、「天保七」(1836年)の年紀。それに続いて、その年の干支であった「丙申」(へいしん/ひのえさる)の文字が入れられています。

刀「表銘/為窪田清音君 山浦環源清麿製 裏銘/弘化丙午年八月日」
(おもてめい/くぼたきよねくんのために やまうらたまきみなもときよまろがせいす うらめい/こうかへいごねんはちがつひ)

本刀を制作したのは、「水心子正秀」や「大慶直胤」(たいけいなおたね)と並び、「江戸三作」のひとりに挙げられた名工「源清麿」(みなもときよまろ)。

刀工名の前に入れられた「山浦環」(やまうらたまき)は、源清麿の本名です。

表銘の人物名「窪田清音」(くぼたすがね)は、江戸幕府の旗本であり兵学者。源清麿は、武士を志して窪田清音の門下に入りましたが、その傍らで作刀にも励んでいたのです。

本刀の表銘からは、源清麿本人が師匠・窪田清音のために作ったことが読み取れ、その裏銘からは、「弘化年間」(1844~1848年)における、「丙午」の干支まわりのときの作刀であることが分かります。

年号のあとに具体的な年は刻まれていませんが、干支が丙午であることから、「弘化三年」(1846年)であることが推定できます。

太刀 銘 為窪田清音君 山浦環源清麿製/弘化丙午年八月日

太刀 銘 為窪田清音君 山浦環源清麿製/弘化丙午年八月日

時代 鑑定区分 所蔵・伝来
為窪田清音君
山浦環源清麿製
/弘化丙午年
八月日
江戸時代 重要美術品 窪田清音
→個人

短刀「表銘/月山源貞一(花押)(刻印)裏銘/元治二乙丑年二月日」
(おもてめい/がっさんみなもとさだかず[かおう][こくいん] うらめい/がんじにいっちゅうねんにがつひ)

新々刀末期には、「月山派」(がっさんは)の名工「月山源貞一」(がっさんみなもとさだかず)も、その銘に干支を刻んだ刀を作っています。

その中のひとつが、月山源貞一が31歳のときに手掛けた1振の短刀。その茎の表銘には「月山源貞一(花押)(刻印)」、そしてその裏銘には、「元治二乙丑年二月日」と入れられています。

「元治2年」は、西暦で言うと1865年にあたり、銘にある通り、この年の干支は「乙丑」(いっちゅう/きのとうし)です。

本短刀が作られた前年には、水戸藩(現在の茨城県水戸市)内外の尊攘派が挙兵した「天狗党の乱」(てんぐとうのらん)が起こっており、その約4ヵ月後には、長州藩(現在の山口県)などの尊攘派の志士達を、江戸幕府の警備隊「新撰組/新選組」(しんせんぐみ)が襲撃した「池田屋事件」(いけだやじけん)が発生しています。

本短刀も、そんな混迷かつ激動の時代にふさわしい、雄渾(ゆうこん:勢いが良く、堂々としている様子)な出来と言える1振です。

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