歴女も憧れる女剣士ヒストリー

小松姫

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天下分け目の「関ヶ原の戦い」で親子・兄弟が敵味方に分かれた真田家(さなだけ)を合戦時も、さらに合戦後も武勇と思いやりで支えたとされるのが、真田信之(さなだのぶゆき)の正室「小松姫」(こまつひめ=1573~1620年)です。

真田家の運命に大きくかかわった小松姫

小松姫

小松姫

小松姫は、徳川譜代の家臣で、江戸幕府創業の功臣として知られる徳川四天王(とくがわしてんのう)のひとり、本多忠勝(ほんだただかつ)の娘です。

1590年(1586年とも)に徳川家康(とくがわいえやす)の養女となり、信濃国上田(しなののくにうえだ=長野県上田市)を領地としていた真田昌幸の嫡男・真田信之(関ヶ原の戦い以前は「真田信幸」)のもとに嫁ぎます。

いわゆる政略結婚で、この小松姫の真田家への嫁入りが、その後の真田家の運命を大きく左右することになります。そこには小松姫の武勇と機知に富んだ行動があったとも言われています。そんな小松姫の生涯を紹介しましょう。

戦国一の猛将・本多忠勝の娘として誕生

本多忠勝

本多忠勝

1573年に本多忠勝の娘として生まれた小松姫(幼名 稲姫=いなひめ)は、父の影響を大きく受けて育ったと言われています。

小松姫の父・本多忠勝は、通称を平八郎と言い、「家康には過ぎたるものが2つあり。唐の頭(からのかしら)に本多平八」とまで世にうたわれた猛将です。

「唐の頭」は、唐(中国)からもたらされたヤク(チベット地方にいるウシ科の動物)の毛を(かぶと)に配した飾りのことで、滅多に手に入らない貴重な輸入品であったことから、それと並び評されたのです。

そんな本多忠勝の猛将ぶりを示すエピソードにはこんなものがあります。63歳の生涯で57回もの合戦に参加するものの、一度として傷を負うことがなかったと言うのです。そしてなんと生涯唯一の傷は、晩年に小刀に名前を彫る際、手を滑らせて指にできた小さな傷で、これにより自身の死を悟ったと。

蜻蛉切

蜻蛉切

この本多忠勝が愛用した(やり)が、「蜻蛉切」(とんぼぎり)と称される名槍で、現在も残るその槍は、「大笹穂槍 銘 藤原正真作(号 蜻蛉切)」とされ、天下三名槍のひとつに数えられている物。

一説には、本多忠勝は空中を舞う1匹のトンボに狙いを定め、それを槍で切り落とすことができたため、その名が付いたと伝えられています。これには、槍先を完全に制御しつつ、風よりも速い速度で突く技術が必要で、本多忠勝はトンボを切り落とすように敵の顔面や首、そして脇の下などの急所を槍で一撃し、仕留めたと言われています。

通常の槍が4.5メートル前後であるのに対し、蜻蛉切りは6メートルほどもあり、敵の有効攻撃圏外に身を置いて急所を一突きできたため、本多忠勝は手傷を負うことがなかったようです。

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刀剣でイノシシを撃退した剣術好きのかぐや姫

父・本多忠勝の気質を受け継いだ小松姫は、利発で剣術好きの姫として成長します。千葉県の大多喜町(おおたきちょう)には、小松姫のこんな武勇伝が民話として残されています。

本多氏は三河国(みかわのくに=愛知県東部)の出身ですが、1590年に天下統一を成し遂げた豊臣秀吉から徳川家康に北条氏の旧領があてがわれ、そのひとつとして本多忠勝は大多喜城(おおたきじょう)10万石の城主になります。

この城の庭からいつも聞こえていたのが、娘の小松姫の「えい」、「やー」という剣術を練習する声だったとか。

大多喜城

大多喜城

そしてある日のこと、城下に出かけた小松姫は、大きなイノシシが村人を襲おうとしている場面に遭遇します。

そこには竹かごに入った赤ん坊の姿も。小松姫は、赤ん坊を抱きかかえて母親に渡したあと、腰の刀剣を振り上げてひとりイノシシに向かっていき、一太刀あびせ、撃退。

このとき、イノシシを追い込んだ竹やぶの中の小松姫に日の光があたり、その姿がきらきらと輝いて見えたことから、城下の民衆が小松姫のことを「かがやく姫さま」と呼ぶようになったと伝わります。この呼び名が人から人へと語られるうちに、いつからか「かぐや姫」へと変わりました。

ちなみに大多喜町では筍を使った炊き込みご飯のことを「かぐやご飯」と呼びます。

徳川家康の養女として真田家に嫁入り

そんな小松姫が、真田昌幸の嫡男・真田信之の正室となったのは諸説ありますが、前後の事情から1590年の秋のことだろうと言われています。真田信之25歳、小松姫18歳のときです。

婿選びで真田信之に頬を打たれる

徳川家康は、養女になった小松姫に結婚相手を選ばせようと、若い武将達を集めて並んで座らせました。

小松姫は、徳川家康を前にして委縮する武将達の頭頂部に束ねた髪を掴んで顔を上げさせて吟味したと言います。どの武将もそれに従って顔を上げていたのですが、真田信之は小松姫が髪に手を触れた瞬間に声を荒げて、鉄扇で小松姫の頬を打ちすえたとか。

小松姫は怒るどころか、この気骨に感動して真田信之を選んだといった逸話が残されています。

徳川家康の意向を反映した政略結婚

徳川家康

徳川家康

徳川家康の養女を結婚相手に選んだ真田家でしたが、実は真田家と徳川家康は犬猿の仲でした。

真田家はもともと武田信玄直属の家臣でしたが、織田・徳川・北条の大名家から攻撃を受けて武田家が滅亡して以来、真田家は豊臣秀吉に認められ厚遇を受けていて「秀吉公のためなら、命も惜しまぬが家康公なぞには頭も下げぬ」と徳川家康の言うことには耳を貸そうとしませんでした。

武田家を滅ぼした徳川家康に対し、「虫が好かん」と。

「まあまあ、仲良くせい」と仲に入った豊臣秀吉の意向もあり、真田昌幸はしぶしぶ真田信之と小松姫の結婚を承諾したと言います。

この政略結婚は、真田昌幸を従わせるための徳川家康の策略だったという説もあります。その手段として当初は、素直に本多忠勝の娘を真田信之に嫁がせようとしたものの、真田昌幸の承諾が得られなかったため、徳川家康が本多忠勝の娘を養女とし、嫁がせるという案を示すと、ここでようやく真田昌幸の承諾が得られたというものです。

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天下分け目の決戦「関ケ原の戦い」で2つに分かれた真田家

真田昌幸

真田昌幸

しかし、小松姫の義父・真田昌幸にとって、徳川家康は「どうにも虫が好かない」相手。

そのため真田昌幸は、小松姫の嫁入りを当初から強く反対し、嫁入り後も快く思っていなかったようですが、当の真田信之と小松姫の夫婦仲はたいへん良く、真田家のもうひとつの居城であった上野(こうずけ=群馬県)の沼田城において2男2女をもうけます。

これについては推測の域を出ませんが、一説には、政略結婚をした自身の役割を分かっていた小松姫は、真田家を支える一方で、徳川家について、夫に理解させることにも力を注いだのではないかと考えられています。

そんな中、天下人であった豊臣秀吉が、病気により死去。豊臣秀吉亡きあと、勢力は2つに割れます。

一方は石田三成(いしだみつなり)を主軸にした豊臣派とされるもの、他方は徳川家康を主軸とするものです。これがいわゆる西軍と東軍となり、1600年の天下分け目の決戦・関ヶ原の戦いへと突入します。

真田幸村

真田幸村

そしてこのとき、真田家は、真田昌幸と次男・真田信繁(さなだのぶしげ=真田幸村)が西軍に、小松姫の夫・真田信之は東軍へと付き、袂を分かつのです。

当時、形式的には徳川家の与力大名という立場にあった真田家がなぜ2つに分かれたのか。理由については、はっきりとは分かっていません。

真田昌幸がどうしても徳川家康のために働きたくはなかった、あるいは忠誠を誓った豊臣秀吉の遺児・豊臣秀頼を守りたかったともされる一方で、「犬伏(いぬぶし)の別れ」として語られているのが、下野国(しもつけのくに=栃木県)の犬伏(佐野市)で親子3人の密議が行なわれ、真田信之と真田信繁(真田幸村)の間では刀剣を手にかけるほどの激論ののち、どちらに転んでも真田家が存続するよう決別を決めた、という説です。

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甲冑を身に着け、義父・真田昌幸の入城を拒否

この犬伏の別れのあと、小松姫と義父・真田昌幸との間であったやりとりが、小松姫の武勇と思いやりを物語るエピソードとして、今に伝わっています。

真田昌幸と次男・真田信繁(真田幸村)は、西軍に協力するため、下野の犬伏から信濃の居城・上田城へ急いで引き返す途中、小松姫が留守を預かる沼田城へ立ち寄ります。これは、真田昌幸が「一目、孫の顔が見たい」と願ったからでした。

しかし小松姫は、「例え舅であっても今は敵味方の間柄であり、敵を城に通すことはできない」と、甲冑を身にまとい、武装した兵を従えて入城を拒否。その毅然とした小松姫の態度に、真田昌幸は、「さすが本多忠勝の気性を受け継ぐ娘よ」と舌を巻いたと言われています。

正覚寺境内

正覚寺境内

さらにこれには後日談が。小松姫は侍女を派遣して密かに真田昌幸一行を近くの正覚寺へと案内。

翌日、小松姫は、密かに子ども達をそこへ連れていき、真田昌幸に孫との最後の対面をさせたと言うのです。

真田家を支え続けた小松姫

ユーモアに満ちた良妻賢母

関ヶ原の戦い後、真田信之と小松姫は、恩賞で与えられた信州上田に屋敷を構えています。上田は交通の要衡で、多くの大名行列が通ります。

小松姫は家臣に命じて通行を妨げ、将軍へ贈る献上品を横取りしたという逸話も伝えられています。返還を懇願する大名に対し「将軍に贈るなら、徳川家康の養女である私がもらっても良いだろう」と言い放ち、将軍に献上する品々を没収したと言います。

そして「この手が将軍家の献上品を頂いた」と書いた手形を大名に渡して、徳川秀忠に届けさせました。

将軍家の養女であるため成敗ができず、将軍家へ訴えます。それを受けて将軍家からお咎めがあった際には「親の物は子の物」と受け流したと伝えられています。この逸話について、小松姫が武芸だけではなく、ユーモアを理解する機知に富んだ女性だと評価する声があるようです。

真田庵(九度山町)

真田庵(九度山町)

その一方で、1600年(慶長5年)の天下分け目の決戦・関ヶ原の戦いで、毛利輝元を総大将として宇喜多秀家・石田三成らを中心に結成された西軍側についた義父・真田昌幸と義弟・真田信繁(真田幸村)が九度山(くどやま)での謹慎処分を受けると、義父と義弟の不都合な暮らしを思い、お金や食料を送るなど援助を欠かさなかったと伝えられています。

彼らに仕送りを続けるため倹約に努め、献身的に真田家を支えていました。真田昌幸から真田信之の家臣に宛てた書状の中で御料人(小松姫)からの音信に礼を述べる内容が書かれた物も残されています。

このことから、小松姫は戦国時代の「女傑」のひとりとしてだけではなく、内助に優れた女性であったことも窺い知ることができます。

真田信繁との密会を手引きした女性と真田信之の関係

小野お通

小野お通

九度山に配流された真田信繁(真田幸村)は、たびたび九度山から脱走していました。それを知った徳川家康は、真田信之に真田信繁(真田幸村)を味方に引き入れるようにと命じています。その任を果たすため真田信之は、京都で真田信繁(真田幸村)と密会しました。

真田信繁(真田幸村)との密会の手引きをしたのは、小野お通という女性でした。

小野お通の素性は諸説あります。美濃の戦国大名である斎藤道三(さいとうどうざん)の家臣・小野正秀(おのまさひで)の娘だったという説や、母親とともに京都で公家の九条種道(くじょうたねみち)に匿われていたなどなど。

いずれにしても、小野お通は才色兼備な女性とされており、真田信之は次第に小野お通に思いを寄せるようになっていきました。

その頃、徳川家が管理していた上田城が真田信之のもとに返されたため、真田家のもうひとつの居城・沼田城に小松姫を残し、真田信之だけが上田へ戻りました。

小松姫がまだ若い長男の真田信吉(さなだのぶよし)を支え、沼田領を治めることに尽力していましたが、その一方で上田の真田信之と京都にいる小野お通との間では、何度も書簡や贈り物のやりとりがあったようです。

臨終間際の小松姫のささやき

小松姫は1619年(元和5年)頃から、風邪をこじらせたことがもとで体調が悪くなり、床に伏しがちになりました。1620年(元和6年)、当時住んでいた江戸から草津へ湯治に向かう途中、武蔵国鴻巣(むさしのじゅくこうのす)で危篤状態に陥りました。

真田信之はその知らせを受けて騎馬で駆け付けると、臨終に間に合いました。小松姫は真田信之に「まだ雪も解けぬのに、ありがとうございました」と礼を言い、息を引き取る直前に「もう京の女(かた)をおよびになってもかまいませぬ」といたずらっぽくささやいたそうです。

小松姫は利発な女性だっただけに、真田信之と小野お通の恋情をお見通しだったのです。

48歳でなくなった小松姫。真田信之は妻の死を深く悲しみ「我が家の灯火が消えたり」と嘆いたと言われています。そして、小松姫のささやきにもかかわらず、真田信之と小野お通の恋は、その後も実を結ぶことはなかったようです。

芳泉寺

芳泉寺

なお、小松姫の墓は徳川家康の勧めで帰依した勝願寺の他、上野国沼田にある正覚寺、信濃国上田芳泉寺(当時は常福寺)の3箇所に分骨されています。このうち、信濃国上田の墓は一周忌の際に真田信之が建立した物です。

真田信之はさらに、小松姫の菩提を弔うため上田城下に大英寺を建立したのち、自身の松代藩への移封に伴って、1624年(寛永元年)に松代城の城下に大英寺を移築しています。

真田家のその後

最後に、真田家のその後を簡単に紹介しましょう。

真田昌幸は1611年、高野山において65歳の生涯を閉じました。真田信繁(真田幸村)は豊臣方が最後の意地をみせた1614年と1615年の「大坂の陣」に豊臣方として参戦し奮戦しますが、1615年の夏の陣にて討ち死にします。

一方、小松姫の夫・真田信之は、真田家の領地をそのまま継ぐことを許され、23年間上田城を居城としたのち、1622年に松代(まつしろ=長野県長野市)に転封。1658年に93歳で没。真田信之を初代藩主に始まった真田家による松代藩の治世は、廃藩・廃城となる明治維新まで10代・250年続きました。

こうした真田家の存続において、小松姫はある意味、カギを握る存在であったと言えるでしょう。

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富田信高の妻

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