戦国愛のカタチ
愛を掲げて戦った男、直江兼続の愛ってなんだ!?
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愛を掲げて戦った男、直江兼続の愛ってなんだ!?

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上杉謙信ゆずりの「義」を重んじ、主君、上杉景勝(うえすぎかげかつ)と民のために生きた愛の武将、直江兼続(なおえかねつぐ)。兜の前立にも「愛」の一文字を掲げていたことで有名だが、その意図するところには諸説あるようだ。

上杉家と直江兼続

少年期の景勝と兼続

直江兼続

直江兼続

直江兼続は1560年(永禄3年)、上杉景勝の実父、長尾政景に仕えた樋口兼豊(ひぐちかねとよ)の長男として生まれた。

一方、上杉景勝は1556年(弘治元年)生まれ。1564年(永禄7年)に子のいなかった叔父、上杉謙信の養子となった。

兼続は幼い頃から眉目秀麗で文武に優れていたようで、景勝の母で上杉謙信の姉、仙桃院(せんとういん)に見いだされ、景勝に仕えるようになった。

まだ幼かった景勝と兼続は、謙信のもとで義の精神を培っていった。

青年期の景勝と兼続

1578年(天正6年)に謙信が急死すると、景勝と謙信の養子になっていた北条氏康の七男、上杉景虎との間で跡目争いが起きた。

景勝は「御館の乱」(おたてのらん)と呼ばれるこのお家騒動を制し、晴れて上杉家当主となり、兼続も側近として活躍するようになった。

兼続が直江姓を得たのは、1581年(天正9年)のこと。御館の乱の論功行賞に不満を持つ者が、景勝の側近の直江信綱(なおえのぶつな)を殺害。景勝は名家である直江家を存続させるために、未亡人となった信綱の妻、お船(おせん)と兼続を結婚させ、兼続に直江家を継がせた。

関ヶ原の戦いでの景勝と兼続

関ヶ原の戦い

関ヶ原の戦い

1600年(慶長5年)、豊臣秀吉の死後、徳川家康が景勝に謀反の疑いをかけたことから、兼続は「直江状」と呼ばれる長い書状を送り、真っ向から反論した。

これに激怒した家康は上杉征伐の号令をかけるが、時を同じくして、石田三成が挙兵。家康は上杉征伐を中止して、西へ戻って行った。

景勝と兼続は最上義光や伊達政宗を中心とする東北の東軍諸勢力と激しく戦ったが、美濃の主戦場において家康が「関ヶ原の戦い」を制したことを知ると、翌年家康に謝罪し忠誠を誓った。

兜の「愛」に込めた思い

「愛民仁愛」説

上杉謙信

上杉謙信

上杉謙信は景勝と兼続に、儒教の教えである「五常の徳」(仁・義・礼・智・信)を規範として、慈愛をもって民を大切にすることを説いた。

また、2人が幼い頃、教育を受けた禅寺、雲洞庵(うんとうあん)の通天存達和尚(つうてんそんたつおしょう)も「国の成り立つは民の成り立つをもってす」と教えたという。

この謙信と通天存達和尚の教えである、民を大切にする心を忘れないために、兜の前立に愛をあしらったという説がある。

関ヶ原の戦い後、上杉家は米沢への転封を命じられ、石高は従来の4分の1となり、財政難に陥った。しかし兼続は、人を切ることなく自ら質素倹約に努めて、領民を養ったという。また、最上川の治水工事や新田開発などにも取り組み、民衆の生活の基盤を整えていった。

「愛染明王」説

謙信は信心深く、自らを毘沙門天の生まれ変わりだと信じ、「毘」という文字の旗印を掲げて戦った。このことから、敬愛する謙信を真似て、愛染明王(あいぜんみょうおう)の愛を掲げたのではないかとも考えられている。

愛染明王は恋愛や縁結び、家庭円満など、愛欲をつかさどる仏神とされているが、弓を持っていることから、軍神として信仰されることもあった。

「愛宕権現」説

愛宕権現(あたごごんげん)は京都・愛宕山の山岳信仰と修験道が融合して生まれた神仏習合の神様。勝軍地蔵(しょうぐんじぞう)の仮の姿とされ、軍神として多くの武将が信仰していた。

全国には愛宕山白雲寺から分霊した愛宕権現を祀った神社が数多く存在している。

新潟県上越市五智にある愛宕神社もそのひとつ。もともと春日山麓にあった物を上杉謙信が1561年(永禄四年)に現在の場所に遷座し、戦の際は戦勝祈願に訪れたと言われている。

武田信玄や伊達政宗なども自領内の愛宕神社を庇護し、信仰していた。直江兼続が武運を祈って愛宕権現を信仰したとしても不思議ではなく、現在はこの説がもっとも有力とされている。

兼続の飴とムチならぬ、愛とムチ

愛の武将、兼続は、ときにはムチも振るった。

1597年(慶長2年)、家臣が五郎という名の下人を切り捨てるという事件が起きた。遺族達は、五郎がしたことに対する仕打ちとしては、あまりにも酷過ぎると猛抗議。

詳しく経緯を聞いてみれば、確かにその通りで、兼続は賠償金として銀子20枚を与えて示談とした。

しかし、納得したはずの遺族が再び現れ、五郎を生き返らせてもらわなければ困ると騒ぎ立てた。怒った兼続は「それなら地獄へ迎えに行け」と遺族の首をはねて河原にさらし、閻魔大王宛てに「家族を迎えにやるので、五郎をこの世に戻してやってくれ」と書いた札を立てたという。

これに恐れおののいた民衆は、以降、つまらない争いをしなくなったというから流石。しかも、閻魔大王に手紙まで書くという面倒見の良さ。やはり兼続は愛にあふれているのか!?

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