同一人物説
徳川家康の影武者、世良田二郎三郎元信の一生
同一人物説
徳川家康の影武者、世良田二郎三郎元信の一生

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徳川家康には影武者説が数多く存在する。最も有名なのは、民間史論家の村岡素一郎(むらおかそいちろう)が、1902年(明治35年)に出版した「史疑徳川家康事蹟」(しぎとくがわいえやすじせき)で唱えた説だ。初版は500部発行されたが、徳川家の圧力によって重版はされなかった。しかし村岡の影武者説は後世の作家達の想像力を刺激し、これを題材にした小説が次々と誕生した。学術的には否定されているが、こんな妄想ができるから歴史は面白い。

村岡素一郎の影武者説の根拠

徳川家康

徳川家康

村岡素一郎は影武者説の根拠として、儒学者の林羅山(はやしらざん)が記した日記「駿府政事録」(すんぷせいじろく)における慶長17年8月19日の記述を挙げている。

それは、徳川家康が「子供の頃、又右衛門なる者に銭五百貫文で売り飛ばされ、9歳から18~19歳まで駿府に居たのだ」と語ったというもの。

正史では、竹千代(のちの家康)は6歳で今川氏の人質として駿府に送られた。しかし道中、義母の父・戸田康光(とだやすみつ)の裏切りによって織田信秀に送られ、尾張で2年間を過ごしている。その後、今川義元が、信秀の子、織田信広と竹千代を交換し、竹千代は今川の人質として駿府で暮らすようになったとされている。

正史には売り飛ばされたと言う事実も、又右衛門なる人物も出てこない。この微妙な違いから、村岡は影武者説の着想を得たようだ。

徳川家康の影武者になった男、世良田二郎三郎元信

徳川家康影武者説

徳川家康影武者説

村岡の影武者説によると、家康の影武者となった世良田二郎三郎元信(せらだじろうさぶろうもとのぶ)は、もともとは乞食僧。ある日、家康の影武者となり、そのまま将軍の座に居座ってしまう。

元信と家康は別人格のはずだが、村岡が説明する元信の人生は、正史として伝わる家康の人生と重なる部分が多く、混沌としていて分かりにくい。

これは村岡の中で、家康の人生は美化されたものであるという思いが強いからだろう。

要するに、元信の人生を幕府にとって都合よく改ざんしたものが、正史として伝わる家康の人生であるということのようだ。

世良田二郎三郎元信の出自

影武者、世良田二郎三郎元信は家康と同じ1543年1月31日(天文11年12月26日)に生まれ、国松と名付けられた。母は於大(おだい)。

家康の母、於大の方は尾張の豪族、水野忠政(みずのただまさ)の娘とされているが、こちらの於大は賤民の娘とされている。

父親は清和源氏の新田氏の流れを汲む江田松本坊という祈祷僧。のちに世良田姓を名乗るのは、江田氏が新田氏一門の世良田氏の支流にあたるからである。

父は元信が生まれるとすぐに失踪してしまったため、元信は於大の母、源応尼(げんおうに)に預けられた。

その後、東照山円光院に入門して浄慶と名乗ったが、殺生禁止の場所で小鳥を捉えて破門になった。しかたなく駿府を放浪していたところ、又右衛門という男に誘拐されて、銭五百貫(※)で願人坊主の酒井常光坊(さかいじょうこうぼう)に売られたという。

※ 村岡の記述では五貫だが、ネタ元とされている林羅山の日記駿府政事録の記述は五百貫であるため五百貫とした。

家康と世良田二郎三郎元信が入れ替わった経緯

願人坊主とは、人に代わって祈願やみそぎをする乞食僧のことで、品行の悪い生臭坊主も多かった。

酒井常光坊のもとで願人坊主修行を行なった元信も不良化したようで、1560年(永禄3年)に家康の子、松平信康を誘拐して逃走した。

世良田二郎三郎元信と名乗るようになったのはこの頃という。

桶狭間の戦い

桶狭間の戦い

元信は桶狭間の戦いの混乱に乗じて、徒党を組んで浜松城を落とし、さらに三河を攻略しようとした。しかし家康に敗れたため、信康を返還し、家康の家臣となった。

家康と元信が入れ替わったのはその直後。1560年(永禄3年)12月、織田信長討伐のため尾張に侵攻していた家康は、その途中で家臣の阿部正豊(あべまさとよ)に暗殺されてしまった。

ときは戦国時代。家康が死んだと分かれば、織田や今川が攻め込んでくることは明らか。家康の側近達は、まだ幼い信康が成長するまでの繋ぎとして、元信を家康の替え玉にしたという。

徳川信康の死と世良田二郎三郎元信

1579年(天正7年)、信康が家康の命により切腹させられ、さらに信康の母の築山殿が家康の家臣によって暗殺されるという事件が起きた。

一般的にこの事件は、徳川家に嫁いだ信長の長女、徳姫と夫の信康、姑の築山殿との家庭内の不和から、信長の怒りを買って起きたと言われている。

しかし村岡の説によれば、家康の正体は元信。信康と築山殿とは親子でもなければ夫婦でもない。家康が信康と築山殿を容赦なく抹殺したのは、血のつながった息子である秀康や秀忠に家督を継がせたかったからだという。

もしこれが真実だとしたら、約260年間、徳川宗家はもちろん、徳川御三家も徳川御三卿も、一族を挙げて必至で守り受け継いできたものは影武者、元信の血ということ。

将軍の世継ぎを産むことを夢見て集まった大奥の女中達もドン引きである。

徳川家康の影武者、世良田二郎三郎元信の一生

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