同一人物説
天草四郎は豊臣秀吉の孫だった!?
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天草四郎は豊臣秀吉の孫だった!?

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「神の子」として崇められ、わずか16歳で日本史上最大の一揆と呼ばれる「島原の乱」を総大将として戦った天草四郎。派手なひだ衿に黒いマント、どこか異国情緒のある神秘的な佇まいとカリスマ性は人々の想像力を刺激し、「海の上を歩いた」、「盲目の少女の視力を回復させた」といった数々の奇跡のエピソードとともに、「実は天草四郎は織田信長の孫だった!?」という驚愕の噂も生んだ。

神の子、天草四郎の誕生

天草四朗

天草四朗

天草四郎は、1621年(元和7年)頃、関ヶ原の戦いで斬首されたキリシタン大名、小西行長に仕えた益田甚兵衛の子として生まれ、本名を天草四郎時貞という。

神の子、四朗の出現はその25年も前の1613年(慶長18年)、マルコス宣教師によって予言されていた。キリシタン弾圧によって島原を追放されることになったマルコス宣教師は、「25年後に神の子が出現して人々を救うだろう」と予言して日本を去って行ったのだ。

それからまさに25年後の1637年(寛永14年)、少年になった四朗は、冒頭で紹介したようなキリストさながらの奇跡を次々と起こしていった。

キリシタン弾圧のみならず、飢饉や重税に苦しめられていた農民は、救世主の出現に歓喜。神の子のもとに結集していった。

島原の乱の勃発

1637年(寛永14年)10月、年貢を納める時期を前に、いよいよ島原の乱が勃発する。総大将はもちろん天草四郎。しかし、実際のところは、四朗は担ぎ上げられただけで、首謀者は小西行長や、かつて島原藩をおさめていた有馬氏の遺臣たちだったとみられる。

彼らにとって四朗のカリスマ性は、農民やキリシタンを集めて一揆軍を組織するのに都合が良かったのだ。

蜂起した一揆軍は有馬氏の居城であった原城に籠城。乱の報を受けた幕府は、ただちに討伐軍を組織して城を包囲した。その数は一揆軍3万7千人に対して、幕府軍は12万人。数の上で一揆軍は圧倒的に不利だったが、四朗を精神的支柱にした一揆軍は結束が固く善戦し、翌1638年(寛永15年)1月に幕府軍の総大将である板倉重昌を鉄砲で射殺した。

これを受けて、幕府軍は持久戦に転換する。甲賀忍者を城内に潜入させ、兵糧が残り少ないことを知った幕府軍は原城を兵糧攻めにしたのだ。

2月になって幕府軍は一揆軍の死体の胃の中に海藻しか入っていないことを確認すると、総攻撃をしかけ、原城は陥落、一揆軍を皆殺しにした。籠城から約4ヵ月の戦いを経て、島原の乱は終結したのだ。

天草四郎の最後はよく分かっていないが、「肥前国有馬戦記」によると、熊本藩主、細川忠利の家臣、陣佐左衛門(じんのさざえもん)によって討ち取られたと考えられる。

幕府軍の中に四朗の容姿を把握している者がいなかったため、四朗と同じ年恰好の男子の首を並べ、四朗の母、マルタ(洗礼名)に首実検させたところ、陣佐左衛門が打ち取った首に取りすがって号泣したことから、その首が四朗の首と認定された。

天草四朗は秀吉の次男、豊臣秀頼の子?

豊臣秀頼は生きていた!?

豊臣秀吉

豊臣秀吉

話を本題に戻そう。天草四朗は豊臣秀吉の孫という説が生まれた背景には、秀吉の次男、豊臣秀頼の生存説がある。

1593年(文禄2年)、秀頼は当時57歳だった秀吉と淀殿の間に生まれた。1598年(慶長3年)、秀吉が亡くなり5歳で家督を継いだ秀頼の運命は、徳川家康前田利家・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元・小早川隆景の五大老と、浅野長政、石田三成ら五奉行に委ねられた。

しだいに家康が存在感を高めると、対立する石田三成らに挟まれて、秀頼は非常に難しい立場にたたされる。1614年(慶長19年)、「方広寺鐘銘事件」によって家康との対立が決定的になると、「大坂の陣」が勃発。史実によれば、1615年(慶長20年)、徳川軍に追い詰められた秀頼は母の淀殿とともに自害したとされている。

ところが、秀頼や淀殿の最期を見届けた者がおらず、死体も残っていないことから,自害せず、島津氏を頼って薩摩国に逃げたのではないかという説があるのだ。

当時、京では「花のようなる秀頼様を、鬼のようなる真田が連れて、退きも退いたよ鹿児島へ」という童謡が流行していたという。

天草四郎は秀頼の子だった!?

天草四郎は秀吉の孫、つまり秀頼の子ではないかという説は、この秀頼生存説といくつかの事実が合わさって生まれたと考えられる。

そのひとつは四郎の馬印(うまじるし)が豊臣秀吉のものと同じ瓢箪だったこと。しかし、これは四朗の父が小西行長の家臣であり、小西行長が豊臣秀吉の家臣であったためと考える方が自然とも言われている。

またある書物には、四朗には豊臣秀綱という名前があったと記されているが、信ぴょう性は分からない。

さらに、農民とキリシタンが起こした一揆の討伐にしては、徳川軍の態度はあまりに執拗で、四朗を絶命させておかなければならない理由があったのではないかという主張もある。

つまり、天草四朗が秀吉の孫という説は、非業の死をとげた豊臣秀頼と天草四郎に対する同情心や、島原や天草、薩摩の人々のこうだったらいいなという夢とロマンの結晶と言えそうだ。

天草四郎は豊臣秀吉の孫だった!?

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