同一人物説
源義経とチンギス・ハーンは同一人物だった!
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源義経とチンギス・ハーンは同一人物だった!

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悲劇のヒーローとして有名な源義経には、突拍子もない伝説や逸話が多い。義経に対する人々の同情心が「判官贔屓」という言葉を生み、数々の物語や伝説が生まれてきた。ちなみに「判官(ほうがん)」とは、後白河法皇が義経に与えた役職のこと。判官贔屓は「はんがんびいき」とも読むが、特に義経を指して使われるときは「ほうがんびいき」と読むのが一般的だ。そんな判官贔屓から生まれた伝説のひとつに、義経とチンギス・ハーンは同一人物だったという説がある。現在、学術的には完全に否定されているが、江戸時代中期頃には、この説をまことしやかに語る文化人も少なくなかった。

義経がチンギス・ハーンになるまで

源義経

源義経

1159年(平治元年)に源義朝の子として生まれた義経。生まれてすぐに平治の乱で父が敗死したため鞍馬寺に預けられるが、僧になることを拒否して、藤原秀衡(ふじわらのひでひら)を頼り、奥州に下った。

その後、1180年(治承4年)に、兄の源頼朝が打倒平氏の兵を挙げると、源義経もこれに参戦。一ノ谷の戦い、屋島の戦い、壇ノ浦の戦いを制し、平氏滅亡の最大の功労者となった。

しかし、勝手に朝廷から官位を受けたことから、頼朝の嫉妬を買い、対立するようになる。

追い詰められた義経は、かつて世話になった奥州の藤原秀衡を頼るが、直後に秀衡は老齢のため死亡してしまう。1189年(文治5年)、秀衡の息子、泰衡は、頼朝からの圧力に耐えかねて、義経が滞在していた衣川館を襲撃。義経は妻子とともに自害した。

史実に基づいた義経の一生はここまで。義経=チンギス・ハーン説はこのあとも続く。

実は義経は衣川では死んでおらず、北に逃れて蝦夷に達し、大陸に渡ってモンゴル帝国を築いたというのだ。

義経北上説の根拠

義経が蝦夷に渡ったとする説は、古くは室町時代の御伽草子「御曹子島渡(おんぞうししまわたり)」に見ることができる。

江戸時代になると、儒学者の林羅山(はやしらざん)は、幕府の命で編纂した「本朝通鑑(ほんちょうつがん)」で、義経は蝦夷に渡って子孫を残したという説があることを紹介している。

また、朱子学者の新井白石(あらいはくせき)も、【読史余論(とくしよろん)】や【蝦夷志】などで「義経北行説」を提唱している。

また、冒険家としても知られる水戸藩主の徳川光圀(とくがわみつくに)は、蝦夷に調査団を派遣し、「大日本史」で義経北行説を唱えている。

蝦夷に残る義経の足跡

義経北上説を提唱する人は、蝦夷の地に義経の痕跡が見られることを根拠としている。例えば、義経が文字を奪ったというアイヌの伝説。義経がアイヌの文字が記された巻物を書き写したところ、巻物が白紙になり、アイヌから文字が失われてしまったという言い伝えだ。

また新井白石や徳川光圀は、アイヌ民話に登場する、アイヌの創造神「オキクルミ」は義経であり、その従者の大男「サマイクル」は弁慶であるとする説があると紹介している。しかし、この説はのちに言語学者の金田一京助によって否定されている。

義経=チンギス・ハーン説の根拠

チンギス・ハーン

チンギス・ハーン

蝦夷に渡った義経とチンギス・ハーンを結び付けたのは、ドイツの医師で博物学者のシーボルト。

1823年(文政6年)に来日したシーボルトは、帰国後に日本研究の集大成とも言える「日本」を刊行し、その中で義経はチンギス・ハーンであると結論付けた。

林羅山や新井白石、シーボルトなどの文化人によって書かれた資料が裏付けとなり、判官贔屓の人々の夢と希望をのせて、義経=チンギス・ハーン説は広く受け入れられていった。

そして、大正末期に牧師でアイヌ研究家の小谷部全一郎によって書かれた【成吉思汗ハ源義経也】は大ベストセラーになったと言う。

シーボルトの主張

シーボルトは新井白石らが記した資料に、独自の解釈を加えて、義経はチンギス・ハーンであると結論付けている。

その理由のひとつは時系列の一致。義経が死んだとされる1189年(文治5年)以降、突如としてチンギス・ハーンが歴史の舞台に躍り出ていること。また、チンギス・ハーンが得意としていた長弓は中国やモンゴルにはなかった物であり、日本独特の物であること。

またチンギス・ハーンの「ハーン」は遊牧民の君主や有力者が名乗る称号であり、日本の役職名を示す「守(かん)」に由来し、義経を指しているのではないか、と言うことなどを根拠としている。

小谷部全一郎の主張

小谷部全一郎の【成吉思汗ハ源義経也】には、日本語とモンゴル語の言葉の類似が、理由のひとつとして挙げられている。

例えば、チンギス・ハーンは「ニロン族」であり、これは日本を指しているという。また、チンギス・ハーンの別名は「クロー」であり、これは義経の官職であった「九郎判官」ではないか。モンゴル帝国の「元」は「源」から来ているのではないかなど、少々こじつけのようなものも含まれている。

また、1206年にハーンに即位したとき、9本の白旗が掲げられたと言われているが、白旗は源氏の旗印であり、9本は義経の官職であった九郎判官を表しているのではないかといったことも理由として挙げられている。

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