同一人物説
平将門は菅原道真の生まれ変わりだった!?
同一人物説
平将門は菅原道真の生まれ変わりだった!?

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歴史学者の織田完之(おだかんし)によって書かれた1907年(明治40年)発行の「平将門故蹟考」(たいらのまさかどこせきかんが)には、「菅原道真は延喜三年死す、将門此の歳に生る故に菅公の再生という評あり」と記されている。道真が大宰府で亡くなった903年(延喜3年)に平将門は生まれたことから、将門は道真の生まれ変わりだと言うのだ。しかし二人の間には、没年と生年の一致以外にも、後世の人に生まれ変わりを想像させる、運命的な因縁があった。

【道真と将門の因縁1】怨霊伝説を生んだ二人の非業の死

道真と将門の最大の共通点は、非業の死を遂げ、怨霊伝説を生んだことだろう。無念の思いを残して死んだ道真の魂が、同じく失意のうちに死ぬ運命を背負った将門を生んだ。信心深いいにしえの人々の怨霊に対する恐れや同情心が、生まれ変わり説を生んだのかもしれない。

菅原道真の怨霊伝説

幼い頃から頭脳明晰だった菅原道真は、中流貴族の出身でありながら、宇多天皇(うだてんのう)に重用されて右大臣にまで出世。

しかし宇多天皇が退位して醍醐天皇(だいごてんのう)の代になると、異例の出世に嫉妬した貴族達から反感を買うようになり、左大臣・藤原時平(ふじわらのときひら)が醍醐天皇に「道真は、あなたを廃して、娘婿の斉世親王(ときよしんのう)を皇位に就けようとしている」と根も葉もないことを吹き込んだことで、道真は大宰府に左遷されてしまう。

そして、道真は衣食もままならない大宰府の地で、寂しく死んでいったのだ。

北野天満宮

北野天満宮

道真の怨霊が暴れ出したのはそれから間もなくのこと。道真の霊を慰めるために建立された、北野天満宮の「北野天神縁起」(キタノテンジンエンギ)によると、死後数年たったある夏の夜、比叡山の座主のもとに道真の霊が現れて、復讐することを宣言したとされている。のちに学問の神様になるだけあって、怨霊になっても礼儀正しいのだ。

以降、藤原時平の謀略にかかわった人物が次々に死亡。時平も、祟りに怯えながら狂死。醍醐天皇の子や孫も急死する。さらに930年(延長8年)に、内裏の清涼殿に雷が落ちて、大宰府で道真の監視役をしていた藤原清貫(ふじわらのきよつら)が即死すると、祟りはいよいよ本物と信じられるようになり、その3ヵ月後に醍醐天皇も体調を崩して崩御したという。

平将門の怨霊伝説

平将門は道真が亡くなった903年(延喜3年)、桓武天皇(かんむてんのう)を祖父に持つ上総国の高望王(たかもちおう)の孫として生まれた。

下総国を拠点としていた父、平良将(たいらのよしまさ)が病死すると、一族の間で内紛が勃発。その争いはやがて関東一帯に広がり、将門は常陸国、下野国、上野国を次々に制圧し、「新皇」を自称して東国の独立を宣言した。

平将門の最期

平将門の最期

これに驚いた朝廷は、朝敵となった将門を打つべく、藤原秀郷(ふじわらのひでさと)、平貞盛(たいらのさだもり)らの連合軍を差し向け、合戦となった。将門軍は兵力では連合軍に劣っていたものの、強風を味方に付けて矢戦で優位に立つ。

しかし、勝利を確信したそのとき、急に風向きが変わり、将門の額に1本の矢が命中して即死してしまった。

その後、京でさらし首にされた将門。その首はいつまでも腐らず、夜な夜な「私の体はどこにある。首をつないでもう一度戦おう」と叫び続けたという。

また、その首は関東を目指して、空高く飛び立って地上に落下したという伝説もある。その落下地点とされているのが、全国に数か所ある将門の首塚。もっとも有名な東京・大手町の首塚のある地は、建設計画などが持ちあがるたびに事故が起きるため、現在もそこだけ取り残されたように開発を逃れている。

ところで、将門の死後、鎌倉時代頃に書かれたとされる「将門記」には、将門が新皇を称するようになったのは、道真の霊魂が宿った巫女が将門の目の前に現れて、「八幡大菩薩が将門に天皇の位を授ける」と宣託したからとある。道真と将門にまつわるこんな逸話も、生まれ変わり説に信憑性を持たせるスパイスになったに違いない。

【道真と将門の因縁2】菅原家と平家の結び付き

将門が生まれる前も、道真が没したあとも、菅原家と平家は不思議な縁で結ばれていた。

道真は晩年、三男、菅原景行(すがわらのかげゆき)に「われ死なば骨を背負うて諸国を遍歴せよ。自ら重うして動かざるあらば、地の勝景我意を得たるを知り、即ち墓を築くべし」と遺言を残して亡くなった。

景行はその言葉通り、諸国を巡り、926年(延長4年)に常陸介(常陸国の地方公務員)として赴任し、この地が道真を葬るべき場所と悟った。そしてこの地は平家の本拠地でもあり、菅原家と平家は親交を持つようになったのだろう。

現在、茨城県常総市大生郷町にある大生郷天満宮(おおのごうてんまんぐう)は、道真の遺骨を祀るために、景行と将門の叔父の平良兼(たいらのよしかね)が創建したとされている。

また千代田区九段北にある築土神社には将門と道真がともに祀られている。

大生郷天満宮

大生郷天満宮

もともと築土神社(つくどじんじゃ)は940年(天慶3年)に討たれた将門の首を祀るために建立された神社で、その末社として同敷地内に道真を祭神とする木津川天満宮があった。

しかし1994年(平成6年)に境内工事のため木津川天満宮が取り壊されることになり、道真も築土神社に祀られることになった。

1000年を超える年月を経て運命に導かれるように揃って祀られることになった2人。今も恨み節を語りあっているのか、それとも吹っ切れて雑談に興じているのか、あの世でどんな話に花を咲かせているのか興味深い。

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