同一人物説
明智光秀は山崎の戦いのあとも生きていた!?
同一人物説
明智光秀は山崎の戦いのあとも生きていた!?

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2020年、大河ドラマの主人公に選ばれ、今、注目度NO.1の戦国武将「明智光秀」。歴史上では「本能寺の変」で織田信長に反旗を翻した謀反人としてあまりにも有名だ。謀反人としてネガティブな面がクローズアップされることが多いが、実は政治や城造りには秀でた才能を持っていたとも言われている。

明智光秀はどんな人物?

明智光秀

明智光秀

明智光秀の生誕には諸説あるが、最も有力とされているのが、美濃の土岐氏支流明智光綱(みつつな)の子として1528年(享禄元年)頃に美濃明智城に誕生したという説だ。

1556年(弘治2年) に斎藤道三が息子の斎藤義龍に討たれた長良川の戦いで、光秀は道三に味方したため、明智城を攻められ一族離散の憂き目に遭う。その後、浪人として諸国を流浪したのだとか。

浪人時代はもちろん苦しい生活を強いられる。正室である煕子(ひろこ)が、自分の黒髪を売って光秀を支えたと言う話も伝わるほどだ。

ちなみに、光秀は一途な男として知られ、生涯、正室である煕子以外に側室を持たなかったとも言われている。

浪人生活を経て、母方のつてから越前の朝倉義景(あさくらよしかげ)に仕官する。そのとき、朝倉家に将軍である足利義昭が亡命してくることに。それがきっかけで、足利義昭(あしかがよしあき)の幕臣となる。

1568年(永禄11年) 頃、その義昭の使者として信長と接見。信長の家臣にもなり、1571年(元亀2年)の比叡山焼き討ちで功を上げ、信長より近江坂本5万石を与えられる。これを機に義昭と袂を分かち、正式に信長の家臣となる。織田家中では、北陸方面軍の柴田勝家、次席家老の丹羽長秀、関東方面軍の滝川一益、中国方面軍の羽柴秀吉と並ぶ実力者として存在感を発揮。その才覚はのちに信長をも脅かす存在となっていくのだ。

信長から度重なるパワハラを受けてしまうのも、光秀の才覚あってこそのことであったのだろう。

日本史上、最も有名な裏切り者に

本能寺の変

本能寺の変

そして、いよいよ運命の1582年(天正10年) 6月2日。対毛利戦で苦戦している羽柴秀吉を助けるために信長の命で中国方面へ進軍していた光秀が、突如方向を変え信長の宿泊している京都の本能寺を1万3千の兵で強襲する。

この本能寺の変からわずか11日後、中国地方から引き返す「中国大返し」を行なった秀吉と京都山崎の地で戦い、破れて近江坂本城に落ち延びる途中、百姓の落ち武者狩りに遭い深手をおった光秀は自害。55年の生涯を閉じたと伝わる。

しかし、山崎の戦で亡くなったとされている光秀の遺体は発見されることはなかった。

明智光秀は生きていた!?

光秀の生死についてはいまだ定かではないが、面白い仮説が残る。それが、光秀と南光坊天海(なんこうぼうてんかい)が同一人物ではないかという説だ。

まず光秀と天海の略歴を比べてみよう。

明智光秀略歴
1528年頃 美濃国に生まれる(諸説有)
1556年頃 越前朝倉義景に臣従
1568年頃 足利義昭に臣従
1571年 近江国坂本城主になる
1573年 織田信長に臣従
1582年6月2日 本能寺の変で織田信長を討つ
同年6月13日 山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れ自害
南光坊天海略歴
1536年頃 陸奥国に生まれる(諸説有)。その後出家して「随風」(ずいふう)と名乗り、各地で修行をする。
1588年 川越の喜多院に移り「天海」と名を改め、徳川家康の参謀となる。
1643年 108歳で死去。

天海も光秀同様、生誕・前半生がはっきりしていない。天海の足跡がはっきりと確認できるのは徳川家康に仕えてからだ。100歳以上の長命を保ったことは確かとも言われているが、定かではない。とはいえ、光秀と天海は同時代に生きていたのである。

光秀と天海が同一人物と言われる仮説

南光坊天海

南光坊天海

前述の通り、山崎の戦で自害したと言われている光秀だが、その遺体は発見されていない。

そして、天海が歴史の表舞台に顔を出すのは、1608(慶長13年)、駿府城で家康と対面したとき。このとき家康は65歳、天海は72歳。家康はこの遅すぎた出会いを嘆いたともされる。

それでは、光秀と天海同一人物説の一部をご紹介しよう。

  1. 徳川2代将軍は「秀忠」、3代将軍は「家光」。それぞれ光秀の名前から1文字ずつ取ったのではないかという説。
  2. 光秀寄進の灯篭が比叡山にあるが、その寄進日が本能寺の変の20年後であるという説。
  3. 光秀の家臣だった斎藤利光の娘お福(春日局)は、天海の希望で徳川家光の乳母になったという説。
  1. 徳川2代将軍は「秀忠」、3代将軍は「家光」。それぞれ光秀の名前から1文字ずつ取ったのではないかという説。
  2. 光秀寄進の灯篭が比叡山にあるが、その寄進日が本能寺の変の20年後であるという説。
  3. 光秀の家臣だった斎藤利光の娘お福(春日局)は、天海の希望で徳川家光の乳母になったという説。
日光東照宮

日光東照宮

そして最も気になる説が、江戸幕府初代将軍・徳川家康が眠る「日光東照宮」にある。

天海は日光東照宮に深くかかわっていた。日光東照宮には、なぜか明智家の家紋である桔梗紋が多く見られるのだ。

また日光東照宮の近くには「明智平」(あけちだいら)と呼ばれる地があるのだが、その命名をしたのが天海だと言われている。

他にも、筆跡鑑定を行なうと、光秀と天海の文字は非常に似ているという。

光秀と天海。二人とも謎の多い人物という意味では間違いなく共通点があるようだ。光秀が優れた武将であったならば、政治の表舞台に立つのではなく、天下人のサポートをするという立場で裏から天下を動かし、自分の手腕を試したというのもやぶさかではないだろう。

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