江戸時代

第一次長州征伐

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「長州征伐」(ちょうしゅうせいばつ)とは、1864年(元治元年)と1866年(慶応2年)に江戸幕府が倒幕勢力の中心であった長州藩を処分するために出兵した出来事です。
代表的な戦いとなった1866年(慶応2年)の「第二次長州征伐」では、第14代将軍「徳川家茂」(とくがわいえもち)が指揮を執り、約15万の兵を引き連れて長州藩領のある「周防国」、「長門国」へ向け征討へ乗り出しました。この第二次長州征伐では、約15万人の幕府軍と約3,500人の長州軍が激突し、兵力では圧倒的に幕府軍が有利だったにもかかわらず、長州軍が勝利するという結果に終わったのです。
ここでは、なぜ幕府と長州藩が戦うことになったのか、また兵力では圧倒的に勝っていた幕府軍がなぜ長州軍に負けたのかなど、時代背景や第二次長州征伐に至る経緯となる「第一次長州征伐」を解説します。

長州征伐までの経緯

日本の開国と幕末時代の幕開け

幕末(江戸時代末期)の頃になると、日本近海には外国船が頻繁に現れるようになり、江戸幕府に対して度々交易(開国)を要求するようになります。欧米諸国はアジアの植民地化を進めており、江戸幕府は外国に侵略されまいとこれを何度も拒否し続けていました。

ペリー来航

ペリー来航

そのような中、アメリカ大統領の命令を受けたペリーが、真黒な戦闘艦4隻を率いて浦賀に現れ、武力的圧力を加えながら、捕鯨の際に必要となる水や食糧補給のために日本に立ち寄りたい(開国してほしい)と大統領の国書を幕府に提出します。

このような動きに対して幕府は、日本が植民地にされることなく、どのように諸外国に対応していくべきか、幕府や諸藩などでも様々な議論がされるようになったのです。

それによって、開国により近代化を図るべきだという「開国派」や、今まで通り鎖国を続けるべきだという「保守派」、日本を守るために諸外国と戦うべきだと主張する「攘夷派」、天皇を尊重し、幕府を倒そうと主張する「倒幕派」など、様々な考えや主張をする者が出てきました。

しかし、そんな折、日本より遥かに大きい清(中国)でさえも、アヘン戦争でイギリスに敗れるなど、その圧倒的な軍事力の差から、幕府は「外国と交易することで国際社会での日本の地位を守っていくべきである」として、1854年(嘉永7年)、ついにアメリカ合衆国と「日米和親条約」を締結し、開国に踏み切ったのです。

この条約をきっかけに、その後イギリス、ロシア、オランダも同じような条約を結び、200年以上にわたる鎖国時代が終わり、いよいよ幕末時代に突入していきました。

開国後の国内情勢と尊皇攘夷運動の広がり

開国によって諸外国との貿易が活発となり、国内が好景気になった一方、外国から機械で大量生産された安い綿織物が大量に輸入されたことによって、繊維業などの国内産業が大打撃を受けたのです。その一方で、大幅な輸出超過によって生糸や農産物などの生産が追いつかなくなり、品不足から国内の物価が上昇するなど、国内経済に大きな影響を与えました。

さらに、欧米諸国と日本における金と銀の交換レートの違いから、外国で安く銀を買って、日本で金に交換して儲ける外国人が増加したことにより、日本から大量に金が流出し、日本はさらに深刻なインフレ状態となります。

幕府は、この事態を収拾するため、小判から金の含有量を減らした「万延小判」(まんえんこばん)を鋳造しますが、結果的に貨幣の価値を下げることとなってしまい、国内経済は大混乱。開国を行なった幕府に対し、国民の不満や批判が高まっていきました。

このような状況の中、幕府大老に就任した井伊直弼(正確には老中の松平忠固)が、外国の軍事的圧力に屈し、朝廷の許可を得られていないまま、「日米修好通商条約」という不平等条約を独断で締結。これにより、日本国内で犯罪を起こした外国人を日本の裁判にかけることができなくなるだけでなく、外国製品に自由に関税をかけることもできなくなり、幕府は国民からだけでなく、朝廷からも信頼を失っていきました。

このような幕府に対する不満から、「水戸学」の影響を受けた水戸藩士を中心に、幕府は頼らず、朝廷を擁立して(尊皇)、国を脅かす外国の圧力を追い払おう(攘夷)とする「尊皇攘夷」の動きが各地で活発化していきます。この中心的存在となっていったのが、のちに幕府と戦うこととなる長州藩です。

  • 江戸時代の代表的な100藩を治世などのエピソードをまじえて解説します。

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幕府の復権を賭けた公武合体政策

徳川家茂・和宮

徳川家茂・和宮

何とかこれまでの威厳を取り戻したい幕府は、14代将軍「徳川家茂」と「孝明天皇」の妹である「和宮」(かずのみや)との婚姻を結ぶことを画策します。

天皇家の伝統的な「権威」を江戸幕府と結び付けることにより、「朝廷=幕府」という考えを諸藩に知らしめ、再び幕府の権力強化を図ろうとしました。

幕府から婚姻の話を持ちかけられた朝廷は、幕府が独断で締結した日米修好通商条約によって関係が悪化していたものの、過激化しつつあった尊皇攘夷運動には否定的でもあり、朝廷と幕府が一枚岩になることで、日本経済や政局の安定化を図ろうと、朝廷(公)と幕府(武)が合体する「公武合体」案を承諾したのです。

八月十八日の政変

尊皇攘夷を急進的に進めようとしていた長州藩は、下関海峡にいた外国船を独断で砲撃する「下関事件」を起こすなど、過激な攘夷活動を活発に行なっていました。

さらに国内に対しては、天皇の権威で一気に尊皇攘夷と倒幕を推し進めようと、懇意にしていた尊皇攘夷派の公卿たちと結託し、大和国の神武天皇陵、及び春日大社での「攘夷」祈願と、「攘夷親征」(天皇自らが攘夷戦争を実行すること)の軍議開催を行なう「大和行幸」(やまとぎょうこう)の偽勅を出して、強引に攘夷活動を推し進めようとしました。

国内外問わず、過激な攘夷活動を行なう長州藩に激怒した朝廷(孝明天皇)は、1863年(文久3年)、公武合体派であった薩摩藩会津藩に、長州藩や尊皇攘夷派の公卿を京都から追放するよう密命したのです。これを「八月十八日の政変」(はちがつじゅうはちにちのせいへん)と言い、別名「文久の政変」(ぶんきゅうのせいへん)とも呼んでいます。

この八月十八日の政変によって、長州藩や尊皇攘夷派の公卿らは京都から追放され、尊皇攘夷派は失権し、薩摩藩や会津藩などの公武合体派が中心的な存在となっていきました。

  • 江戸時代の代表的な100藩を治世などのエピソードをまじえて解説します。

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長州征伐のきっかけとなった禁門の変(別名:蛤御門の変) 

八月十八日の政変で京都を追われた長州藩や尊皇攘夷派の公卿たちは、長州藩が握っていた朝廷内での主導権を、薩摩藩と会津藩に奪われたことに納得がいかず、イギリスと密貿易を行なっていた薩摩船を撃沈するなど、さらに過激な行動に出ました。

一方、幕府もこのような急進的な攘夷活動を行なう尊皇攘夷派を取り締まるため、「新撰組」を設置します。これによって、幕府対尊皇攘夷派の衝突はさらに激化し、1864年(元治元年)、尊皇攘夷派の活動家が孝明天皇を長州へ連れ去る計画を立てたとして、京都の旅館「池田屋」に潜伏していた長州藩や土佐藩などの尊王攘夷派の活動家を新選組が襲撃するという「池田家事件」などが起きました。

長州藩は、再び尊王攘夷派の公卿や長州藩の復権を朝廷に求め、250人を超える遊撃隊を引き連れて入京し、それを追って長州藩兵3,000人が伏見、嵯峨、山崎に布陣。

禁門の変

禁門の変

しかし、「武力を背景とした嘆願など、認めるわけにはいかん」として朝廷に聞き入れてもらえなかったことから、御所の「蛤御門」付近で薩摩藩や会津藩と武力衝突が起こりました。

この戦いを「禁門の変」(きんもんのへん)と言い、別名「蛤御門の変」(はまぐりごもんのへん)と呼んでいます。

長州藩は、蛤御門を守っていた会津藩兵に対して優勢だったものの、「西郷隆盛」率いる薩摩藩が加勢に駆けつけたことで長州藩は敗北。戦いは1日で決着したのです。

この禁門の変で、長州藩が撃った砲弾が御所内に着弾してしまったこと、さらに長州藩主父子による軍令状が見つかったことなどにより、長州藩は完全に朝廷の敵となり、いよいよ幕府から長州征伐の命が下されることとなりました。

  • 江戸時代の代表的な100藩を治世などのエピソードをまじえて解説します。

  • 西郷隆盛のエピソードや、関連のある刀剣・日本刀をご紹介します。

第一次長州征伐

攘夷運動と倒幕運動の中心的存在だった長州藩を倒すことにより、世間に力量を示そうとした幕府は、禁門の変から数日後、長州藩に対し、「長州討伐令」を出しました。これを「第一次長州征伐」と言います。

第一次長州征伐の総督には、御三家 尾張藩主「徳川慶勝」(とくがわよしかつ)、参謀に西郷隆盛を任命した他、諸藩に対しても従軍を命じました。しかし、長州征伐には莫大なお金が掛かることや、「長州藩討伐=幕府の力を増長させること」になるため、幕府の思惑とは裏腹に、出兵を喜ぶ藩はいなかったのです。

西郷隆盛・勝海舟

西郷隆盛・勝海舟

長州征伐の参謀となった西郷隆盛は、幕府海軍に出兵を要請するため、幕府軍艦奉行だった「勝海舟」を訪ねます。

勝海舟は西郷隆盛に対し、「すでに幕府は国内統一の力を失っており、このままの日本では、外国に侵略される可能性もある。今後は藩が合議して国政を行なう新政権を実現し、国の政治を動かすべきである」と、新しい日本の国家体制について語りました。

もともと長州討伐を決意していた西郷隆盛でしたが、勝海舟の話から考えを改め、征討総督だった徳川慶勝に対し、「内戦は国力の低下を招くだけで、誰も得をすることはない。長州藩と交渉し、幕府に対し恭順の姿勢を取ってもらうことで平和的解決をするべきである」と説得します。

この西郷隆盛の話に徳川慶勝も納得し、禁門の変を率いた三家老「益田右衛門介」(ますだうえもんのすけ)、「国司信濃」(くにししなの)、「福原越後」(ふくはらえちご)の処分、及び毛利藩主父子の詫び状提出、長州にいる5人の公卿を太宰府へ移居することなどを条件に、長州征伐を収束しようと長州藩に働きかけました。

一方、長州藩は、アメリカの商船を砲撃した下関事件の報復として、4ヵ国(イギリスやフランス、オランダ、アメリカ)の連合艦隊から攻撃を受けて窮地に立たされており、この幕府からの条件を受け入れる他なく、第一次長州征伐は戦わずして長州藩の敗北となったのです。

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功山寺挙兵

高杉晋作

高杉晋作

幕府や4ヵ国の連合艦隊との戦いで敗戦した長州藩は、藩政をここまで窮地に追い込んだ責任は、「高杉晋作」(たかすぎしんさく)らの「改革派(※1)」にあるとして、「椋梨藤太」(むくなしとうた)らが率いる「保守派(※2)」が改革派の藩士達の粛清を始め、新たに親幕政権を発足しようとします。

改革派の中心人物だった高杉晋作は、この粛清から逃れるため、福岡の平尾山荘に住んでいる「野村望東尼」(のむらもとに)のもとに一時潜伏。

しかし、再び藩政の主導権を奪い返そうと、諸隊に呼びかけ始めますが、高杉に賛同する隊は少なく、のちの総理大臣「伊藤博文」が率いる力士隊や「石川小五郎」率いる遊撃隊など、約80名しか集まりませんでした。

それでも、高杉晋作はこの力士隊らを率いて、1864年(元治元年)、藩の奉行所であった「功山寺」(下関市長府)を襲って占拠。これを「功山寺挙兵」(こうざんじきょへい)と言い、これら長州藩内の一連の抗争を「元治の内乱」と呼びます。

功山寺を占拠した高杉晋作らの「奇兵隊」は、藩の奉行所から軍資金や武器弾薬を奪い、さらに海路、三田尻に赴いて藩の軍艦3隻を奪うなど、奇襲攻撃をかけます。これらの奇襲攻撃によって高杉晋作らが優位となると、当初出兵を拒否していた総督・山形有朋や他の諸隊も次々に参戦し、最終的には約2,000人にも達するほどの兵力となりました。

その後、2ヵ月ほど戦ったあと、高杉晋作ら改革派が勝利し、保守派が追放されることになったのです。

再び藩政を握った改革派は、連合艦隊との戦いで完膚なきまでに敗れたことで、攘夷という考えはなくなり、外国からは最新の武器を購入し、藩の軍備力強化を行なうよう方針転換し、幕府に対しては恭順を装いながら、水面下で倒幕の準備を進めていきました。

※1 改革派:尊皇攘夷派・急進派・倒幕派・勤皇派など
※2 保守派:俗論派・幕府恭順派・佐幕派・重商派

薩長同盟

一方、薩摩藩においても、長州藩と同様、薩英戦争でイギリスと直接戦ったことで、攘夷は難しいと悟り、和平交渉することによってイギリスから大砲や艦を購入し、それらの技術を吸収していこうと方向転換していました。

また、もともと公武合体派の薩摩藩でしたが、第一次長州征伐で戦火を交えることなく長州藩を恭順させ、平和的解決をしたものの、幕閣からは褒められるどころか「寛大過ぎる」と咎められたことや、復権ばかりを目指し、諸外国の圧力の前に打開策を見いだせない幕府に対し、西郷隆盛や薩摩藩重臣らは次第に不満を募らせ、倒幕へと傾いていきます。

このような状況の中、もともと勝海舟の海軍学校で学んでいた「坂本龍馬」が、日本の新政権を実現する足がかりとして、薩摩藩と長州藩を引き合わせようと動き出しました。

両藩は、八月十八日の政変や禁門の変などで対立を深めていたことから、容易には同盟は実現できません。しかし、坂本龍馬は長州藩が朝廷や幕府から監視され、自藩名義で国内外と武器を購入することを禁じられており、薩摩藩は薩英戦争をきっかけに、イギリスから秘密裏に武器を購入していたところに目を付けました。

坂本龍馬が中心となって設立した貿易会社「亀山社中」(かめやましゃちゅう)から薩摩藩名義で長州藩用の武器と軍艦を購入し、代わりに長州藩には薩摩藩が必要としている兵糧米を用意させることで、両藩の関係を改善しようと考えます。この坂本龍馬の思惑通り、両藩の関係は大きく改善し、同盟へと一歩前進しました。

薩長同盟

薩長同盟

このあと、両藩の倒幕という目的と利害が一致したこと、さらに坂本龍馬からの熱心な説得と、至妙な立ち回りによって、ついに京都の小松清廉の屋敷に長州藩の「桂小五郎」(木戸孝允)が赴くことで「薩長同盟」が締結されたのです。

長州藩は、この薩長同盟によって薩摩藩名義でイギリスの武器を購入することが可能となり、裏で着々と討幕のため武力を蓄えていきました。

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長州藩の軍備・軍制改革

4ヵ国艦隊との戦いで敗れて以降、長州藩では、西洋式兵制を採用した奇兵隊を作ろうと、蘭学や兵学などを学び西洋事情に精通していた「大村益次郎」(おおむらますじろう)を参謀として登用し、長州藩の軍備・軍制改革を進めます。

奇兵隊は、これまでの正規の武士によって編成される軍隊とは違い、武士階級や農民、町人など身分に関係なく、有能で士気が高い者を登用し、有志により結成されていた諸隊と整理統合して藩の統制下に組み入れ、農商階級の兵士を再編しました。

最新のライフル銃

最新のライフル銃

また、幕府などが命中精度の低い旧式のゲベール銃を導入していたのに対し、長州藩はミニエー銃やスナイドル銃など、命中精度の高い最新のライフル銃を導入し、その訓練を実施します。

さらに、大村益次郎は、軍制の再編成や最新武器の訓練と共に、西洋式戦術を導入。

それまでの日本の戦い方は、指揮官が指揮しながら密集陣形を組んで日本刀で戦う「集団戦術」でしたが、銃火器が導入されてからは、密集していると逆にターゲットとなり、大きな被害(デメリット)を受けてしまうことから、兵士を散開させて戦わせる「散兵戦術」にシフトさせたのです。

しかし、散兵戦術を採ることで、1度に大きな被害を受けることはなくなりますが、兵士が散開するため指揮官の命令が行き届かず、兵士各自が散兵戦術を習熟している必要がありました。このため、訓練には「散兵教練書」(さんぺいきょうれんしょ)を使い、指揮官からの命令が届かなくても、自ら工夫して作戦を遂行できるよう、自発性・独立心を養うことを重視した教育と訓練を徹底的に行なったのです。

この軍備・軍制改革が、「第二次長州征伐」の結果に大きく影響を与えることとなりました。

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