江戸時代
第二次長州征伐①
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第二次長州征伐①

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「第二次長州征伐」(だいにじちょうしゅうせいばつ)とは、1866年(慶応2年)、江戸幕府が倒幕勢力の中心であった長州藩を処分するために、第14代将軍・徳川家茂(とくがわいえもち)が指揮を執り、約15万の兵を引きつれて長州藩領のある「周防国」、「長門国」へ向け征討へ乗り出した戦いのことを言います。この戦いは、別名「幕長戦争」や「長州戦争」と言い、幕府軍が「芸州口」、「石州口」、「小倉口」、「大島口」の4方面から攻め込んだことから「四境戦争」(しきょうせんそう)とも呼ばれています。この第二次長州征伐では、約15万人の幕府軍と約3,500人の長州軍が激突し、兵力では圧倒的に幕府軍が有利だったにもかかわらず、長州軍が勝利する結果に終わりました。ここでは、なぜ幕府と長州藩が戦うことになったのか、また兵力では圧倒的に勝っていた幕府軍がなぜ長州軍に負けたのかなど、時代背景や第二次長州征伐に至る経緯なども踏まえて解説します。

第二次長州征伐までの経緯

日本の開国と幕末時代の幕開け

幕末(江戸時代末期)の頃になると、日本近海には外国船が頻繁に現れるようになり、江戸幕府に対して度々交易(開国)を要求するようになります。欧米諸国はアジアの植民地化を進めており、江戸幕府は外国に侵略されまいとこれを何度も拒否し続けていました。

ペリー来航

ペリー来航

そのような中、アメリカ大統領の命令を受けたペリーが、真黒な戦闘艦4隻を率いて江戸の浦賀に現れ、武力的圧力を加えながら、捕鯨の際に必要となる水や食糧補給のために日本に立ち寄りたい(開国してほしい)と大統領の国書を幕府に提出します。

このような動きに対して幕府は、日本が植民地にされることなく、どのように諸外国に対応していくべきか、幕府や諸藩などでも様々な議論がされるようになり、開国によって近代化を図るべきだと言う「開国派」や、今までどおり鎖国を続けるべきだと言う「保守派」、日本を守るために諸外国と戦うべきだと主張する「攘夷派」、天皇を尊重し、幕府を倒そうと主張する「倒幕派」など、様々な考えや主張をする者がでてきました。

しかし、日本より遥かに大きい清(中国)でさえも、アヘン戦争でイギリスに敗れるなど、その圧倒的な軍事力の差から、幕府は「外国と交易することで国際社会での日本の地位を守っていくべきである」として、1854年(嘉永7年)、ついにアメリカ合衆国と「日米和親条約」を締結し、開国に踏み切ったのです。

この条約をきっかけに、そののちイギリス、ロシア、オランダも同じような条約を結び、200年以上にわたる鎖国時代が終わり、いよいよ幕末時代に突入していきました。

開国後の国内情勢と尊皇攘夷運動の広がり

開国によって諸外国との貿易が活発となり、国内が好景気になった一方、外国から機械で大量生産された安い綿織物が大量に輸入されたことによって、繊維業などの国内産業が大打撃を受けた他、大幅な輸出超過によって生糸や農産物などの生産が追いつかなくなり、品不足から国内の物価が上昇するなど、国内経済に大きな影響を与えました。

さらに、欧米諸国と日本における金と銀の交換レートの違いから、外国で安く銀を買って、日本で金に交換して儲ける外国人が増加したことにより、日本から大量に金が流出し、日本はさらに深刻なインフレ状態となります。

幕府は、この事態を収拾するため、小判から金の含有量を減らした「万延小判」(まんえんこばん)を鋳造しますが、結果的に貨幣の価値を下げることとなってしまい、国内経済は大混乱。開国を行なった幕府に対し、不満や批判が高まっていきました。

このような状況の中、幕府大老に就任した井伊直弼(正確には老中の松平忠固)が、外国の軍事的圧力に屈し、朝廷の許可を得られていないまま、「日米修好通商条約」という不平等条約を独断で締結。これにより、日本国内で犯罪をおこした外国人を日本の裁判にかけることができなくなるだけでなく、外国製品に自由に関税をかけることもできなくなり、幕府は国民からだけでなく、朝廷からも信頼を失っていきました。

このような幕府に対する不満から、水戸学の影響を受けた水戸藩士を中心に、幕府は頼らず、朝廷を擁立して(尊皇)、国を脅かす外国の圧力を追い払おう(攘夷)とする「尊皇攘夷」の動きが各地で活発化していきます。この中心的存在となっていったのが、のちに幕府と戦うこととなる長州藩です。

幕府の復権を賭けた「公武合体」政策

徳川家茂・和宮

徳川家茂・和宮

何とかこれまでの威厳を取り戻したい幕府は、14代将軍・徳川家茂と孝明天皇の妹である和宮様との婚姻を結ぶことを画策します。

天皇家の伝統的な「権威」を「江戸幕府」と結び付けることにより「朝廷=幕府」という考えを諸藩に知らしめ、再び幕府の権力強化を図ろうとしました。

幕府から婚姻の話を持ちかけられた朝廷は、幕府が独断で締結した日米修好通商条約によって関係が悪化していたものの、過激化しつつあった尊皇攘夷運動には否定的でもあり、朝廷と幕府が一枚岩になることで、日本経済や政局の安定化を図ろうと、朝廷(公)と幕府(武)が合体する公武合体案を承諾したのです。

八月十八日の政変

尊皇攘夷を急進的に進めようとしていた長州藩は、下関海峡にいた外国船を独断で砲撃する「下関事件」を起こすなど、過激な攘夷活動を活発に行なっていました。

さらに国内に対しては、天皇の権威で一気に尊皇攘夷と「倒幕」を推し進めようと、懇意にしていた尊皇攘夷派の公卿達と結託し、大和国の神武天皇陵、及び春日大社での「攘夷」祈願と、「攘夷親征」(天皇自らが攘夷戦争を実行すること)の軍議開催を行なう「大和行幸」(やまとぎょうこう)の偽勅を出して、強引に攘夷活動を推し進めようとしました。

国内外問わず、過激な攘夷活動を行なう長州藩に激怒した朝廷(孝明天皇)は、1863年(文久3年)、公武合体派であった薩摩藩と会津藩に、長州藩や尊皇攘夷派の公卿を京都から追放するよう密命したのです。これを「八月十八日の政変」(はちがつじゅうはちにちのせいへん)と言い、別名「文久の政変」(ぶんきゅうのせいへん)とも呼んでいます。

この八月十八日の政変によって、長州藩や尊皇攘夷派の公卿らは京都から追放され、尊皇攘夷派は失権し、薩摩藩や会津藩などの公武合体派が中心的な存在となっていきました。

長州征伐のきっかけとなった禁門の変

八月十八日の政変で京都を追われた長州藩や尊皇攘夷派の公卿達は、長州藩が握っていた朝廷内での主導権を、薩摩藩と会津藩に奪われたことに納得がいかず、イギリスと密貿易を行なっていた薩摩船を撃沈するなど、さらに過激な行動に出ました。

一方、幕府もこのような急進的な攘夷活動を行なう尊皇攘夷派を取り締まるため、「新選組」を設置します。これによって、幕府対尊皇攘夷派の衝突はさらに激化し、1864年(元治元年)、尊皇攘夷派の活動家が孝明天皇を長州へ連れ去る計画を立てたとして、京都の旅館「池田屋」に潜伏していた長州藩や土佐藩などの「尊王攘夷」派の活動家を新選組が襲撃する「池田家事件」などが起きました。

長州藩は、再び尊王攘夷派の公卿や長州藩の復権を朝廷に求め、250人を超える遊撃隊を引きつれて入京し、それを追って長州藩兵3,000人が伏見、嵯峨、山崎に布陣しました。

禁門の変

禁門の変

しかし、「武力を背景とした嘆願など、認める訳にはいかん」として朝廷に聞き入れてもらえなかったことから、御所の「蛤御門」付近で薩摩藩や会津藩と武力衝突となります。

この戦いを「禁門の変」(きんもんのへん)と言い、別名「蛤御門の変」(はまぐりごもんのへん)と呼んでいます。

長州藩は、蛤御門を守っていた会津藩兵に対して優勢だったものの、西郷隆盛率いる薩摩藩が加勢に駆け付けたことで長州藩は敗北。戦いは1日で決着しました。

この禁門の変で、長州藩が撃った砲弾が御所内に着弾してしまったこと、さらに長州藩主父子による軍令状が見つかったことなどにより、長州藩は完全に朝廷の敵となり、いよいよ幕府から長州征伐の命が下されることとなりました。

第二次長州征伐①

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