歴女も憧れる女剣士ヒストリー

立花誾千代

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戦国時代、名将達が認めた希代の女武将であり女城主として、歴史家の間でよく知られる「立花誾千代」(たちばなぎんちよ=1569~1602年)。女城主の逸話は日本各地に残されていますが、文書ではっきりと残るのは、この立花誾千代だけだと言われています。

戦国最強夫婦と語られる立花誾千代と立花宗茂

立花誾千代

立花誾千代

立花誾千代(たちばなぎんちよ)は、筑後国(福岡県)の初代柳川藩主・立花宗茂(たちばなむねしげ)の妻としてもよく知られる女性です。

立花宗茂自身、豊臣秀吉から「その忠義、鎮西一(ちんぜいいち)。その剛勇、また鎮西一」と絶賛された名将ですが、豊臣秀吉による朝鮮出兵の折には、立花誾千代が出陣した夫に代わって城の守備を務めるなど、立花誾千代もまた女武将として優れた才覚と気丈さを持った城主の妻でした。

この立花誾千代、実は立花宗茂の妻となる前に、眼下に博多湾をのぞむ「立花城」(たちばなじょう、りっかじょう)の女城主であったことが分かっています。彼女の生涯を見てみましょう。

7歳で家督を相続し、立花城の女城主に

立花道雪

立花道雪

立花誾千代は、1569年、当時、豊後(ぶんご=大分県)を地盤に九州の大半を制圧した戦国大名・大友宗麟(おおともそうりん)の重臣・立花道雪(たちばなどうせつ=戸次鑑連=べっきあきつら)のひとり娘として生まれます。

西国一の美姫と言われた美しさとともに、幼少期から聡明で快活、配下の者を思いやる情も持ち合わせていた立花誾千代は、7歳のとき、父から家督を譲られます。

当時の立花道雪は、立花城の城督(じょうとく)という地位にあり、立花誾千代は、父からその地位も7歳にして譲り受けることとなったのです。

城督とは、大友家・大内家・毛利家などの領国で使われていた言葉で、任地において領主に代わり政を行なう者を言い、城の主という点では城主と同じ意味合いです。

立花誾千代が城督となった事実は、大分県教育委員会が編集した「大分県先哲叢書」(おおいたけんせんてつそうしょ)にある大友宗麟が発給した文書ではっきりと確認することができます。立花誾千代への家督相続を大友宗麟・義統(よしむね)親子が連署で承認している文書が残されているのです。

残された文書に見る女性による家督相続の特殊性

この文書に関して興味深いのが次の2点。ひとつは、大友宗麟は、最初からすんなりと立花家(当時は戸次家=べっきけ)における女子の家督相続を認めていた訳ではなかったようで、男子のいない立花道雪に再三、一族の戸次鎮連(べっきしげつら)の子を養子にするよう勧めていました。

しかしこの勧告に立花道雪は決して首を縦に振らず、結局、大友宗麟の方が折れた形になったようです。

主君の大友宗麟にしばしば諫言(かんげん)したことでも有名な立花道雪。立花誾千代への家督相続は、まさに大友宗麟の立花道雪への信頼度の高さが窺える話です。

一方で、一般に女城主とされる人物は、後継の男子がまだ幼く、その子に代わって家督を代行したという例が多い中、戦国時代に、そのような理由ではなく、女性に家督・財産が譲られていた事実があったことが分かる文書としても、非常に貴重な物です。

立花誾千代の父・立花道雪と名刀「雷切」(らいきり)

立花誾千代の父・道雪は、もとの名を戸次鑑連(べっきあきつら)と言い、1569年の毛利軍との18回におよぶ戦いの中で、大友軍の主将として、敵方の記憶に深く刻み込まれるほどの猛攻を見せたことで知られる猛将です。

立花道雪のこんな逸話を紹介しましょう。

立花誾千代が生まれたのは、立花道雪が57歳のときで、当時、立花道雪は下半身不随の身であったと伝わります。
一説には、立花道雪は35歳のときに落雷を受け感電したことにより、下半身不随になったとされていますが、そのとき、閃光の中に雷神(らいじん)の姿を見た彼は、何と雷神を愛刀「千鳥」で斬ったと言うのです。
刀身には高圧電流が通った証拠とされる白く変色した痕跡が確認でき、以来、その愛刀が「雷切」(らいきり)と呼ばれるようになったと伝わります。

雷切

雷切

婿に迎えた立花宗茂とともに

立花宗茂

立花宗茂

1581年、立花誾千代が数え年13歳のとき、同じく大友家家臣の高橋紹運(たかはしじょううん)の長子で立花誾千代より2歳年上の弥七郎統虎(やひちろうむねとら、のちの立花宗茂)を立花家の婿に迎える形で、2人は結婚します。

立花誾千代の父・立花道雪が、自身と同じく戦上手の高橋紹運の息子であることを見込み、「ぜひ」と口説き落としての婿入りでした。

立花誾千代の夫・立花宗茂は立花道雪と高橋紹運という二大名将からの訓育を受け、10代にして「希代の名称」の名を欲しいままにする武将へと成長します。

その後、大友家が弱体化し改易されたことにより、立花家は豊臣政権の大名として独立。立花宗茂は、19歳にして13万2,000石の柳川城(福岡県柳川市)城主に取り立てられます。

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長刀(薙刀)を手に豊臣秀吉の前に進み出た立花誾千代

朝鮮出兵

朝鮮出兵

天下統一を果たした豊臣秀吉は、次に海の向こうの大陸への侵攻に挑みます。これが「文禄の役慶長の役」と呼ばれる外征、いわゆる「朝鮮出兵」です。

1592年から始まったこの朝鮮出兵に、立花誾千代の夫・立花宗茂も出陣し、留守中の城の守備を任されたのが立花誾千代でした。

実はこの立花宗茂の留守中、立花誾千代は豊臣秀吉から名護屋城(なごやじょう=佐賀県唐津市)へ来るよう呼び出されます。その申し出を受け、豊臣秀吉の前へ進み出た立花誾千代の出で立ちは、鉢巻き・襷(たすき)がけの軍装で、しかも手には長刀(薙刀)を持っていたと言われています。

好色で名高い豊臣秀吉を警戒してのことか、その真意は定かではありませんが、豊臣秀吉は、「戦時である。戦支度で馳せ参じるとは立派な心構え」と褒めるしかなかったと伝わります。

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敵軍と戦った立花誾千代率いる「女子組」

また、立花城には3千の兵力があったと言われていますが、それ以外に立花誾千代が率いた女子組と呼ばれる武士の妻や侍女で作られた組織がありました。

主は城の留守居役でしたが、実際に敵軍と戦っていたこともあったようで、長刀(薙刀)をわきの下に抱え込み、胴丸など具足を付けて馬に乗る姿は壮観だったと伝わります。

特に、立花誾千代は長刀(薙刀)の優れた使い手であっただけでなく、女子用の軽い鉄砲の腕前においても鉄砲組頭も敵わぬほどであったと言います。

猛将・加藤清正と対峙した立花誾千代

1600年、天下分け目の合戦・関ヶ原の戦いが起こります。実はこのとき、広く武勇が知れ渡っていた立花宗茂は、徳川家康から50万石の恩賞を約束され、味方になるよう誘われていました。

加藤清正

加藤清正

情勢を見つめていた立花誾千代は、夫・立花宗茂に東軍につくよう重臣とともに説得しますが、立花宗茂は豊臣秀吉から受けた恩に忠義を示し、これを拒絶。石田三成を中心とする西軍に加わり、大津城(滋賀県大津市)を見事開城させるなど、優れた働きを見せます。

しかし、西軍は完敗し、立花宗茂は柳川へ逃れ落ちるよう戻ります。その知らせを聞いた立花誾千代は、すぐさま戦いの支度を整えて立花宗茂の救出に向かい、筑後川のほとりで疲れ切った立花軍を発見すると、無事に柳川城まで連れ帰ります。ここからが、立花誾千代の今に伝わる武勇伝です。

夫を城に送り届けたのち、立花誾千代は甲冑(鎧兜)を着て出陣し、海上から来襲した肥前国(佐賀県・長崎県)の鍋島軍を撃退。

さらに、開城の説得にやってきた肥後国(熊本県)の加藤清正(かとうきよまさ)率いる2万の兵の前に立ちはだかります。

その猛将ぶりが今も語り草になる加藤清正ですが、立花誾千代の雄々しさを「さすが立花山の女城主」と称え、「自軍の兵をみすみす損ねることもあるまい」と迂回路を通って引き返したと伝わるのです。

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立花宗茂の柳川藩主返り咲きは、唯一の例。そこには没してなお、立花誾千代の愛情が

結果的には、その後、柳川城は家臣ともども加藤清正に明け渡され、立花宗茂は柳川13万石の所領を失い、隠棲の身に。立花宗茂・立花誾千代夫婦には子どもはいませんでした。

一説には、2人は不仲だったとも言われ、立花誾千代は立花宗茂から3,000石の扶持(ふち)を与えられ、柳川城下に築かれた屋敷で暮らし別居状態だったとも。

しかし一方で、立花誾千代の深い愛情を示すエピソードも伝わります。立花宗茂が柳川城を明け渡したとき、立花誾千代は神社詣でをし、「私の命に代えて、夫をもう一度世に送り出したまえ」と願をかけ続けたと。そして、柳川城開城から2年後、立花誾千代は34歳という若さで生涯を閉じたと伝わります。

徳川家康

徳川家康

一方の立花宗茂は、京や江戸で浪人生活を送る中、1603年、徳川家康に求められて5,000石の旗本に取り立てられ、その後、陸奥棚倉藩(むつたなぐらはん=福島県棚倉町)1万国の大名に復帰。

1615年の大坂夏の陣には、徳川秀忠を警護する形で出陣。そして1620年、柳川城明け渡しから約20年後、旧領柳川藩主に10万9,600石余で返り咲くのです。

関ヶ原の戦いの敗将の身でありながら、旧領の大名に見事返り咲けた唯一の例です。立花誾千代はすでに亡くなっていたものの、生前、夫・立花宗茂は必ず返り咲くと信じてこの世を去ったと言われており、その深い愛情が身を結んだのだとも伝わります。

立花宗茂は、立花誾千代のその思いに報いるために、帰国の翌々年、立花誾千代の菩提寺「良清寺」(りょうせいじ)を建立。立花宗茂自身は、1642年、76歳でこの世を去ります。

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立花誾千代ゆかりの地を訪ね、戦国時代の九州に思いを馳せる

1569年に生まれた立花誾千代は、7歳のとき、父・立花道雪から家督を譲られ、立花城(福岡県福岡市)の女城主となります。

その後、婿養子を取る形で結婚した立花宗茂(たちばなむねしげ=のちの柳川藩主)の妻として、また共に戦う同士として、戦国時代の途切れることのない戦渦の中、その生涯を突き進んだ女武将です。

立花誾千代ゆかりの地で、戦国時代の九州に思いを馳せてみるのも面白いのではないでしょうか。

立花誾千代が7歳で城主になった「立花城」

立花誾千代が7歳で城主となった立花城にある標高367mの立花山山頂にあった山城で、「立花山城」(たちばなやまじょう、りっかさんじょう)とも呼ばれています。眼下に博多湾をのぞむ好立地にあり、九州の重要拠点として、戦国時代には、大内氏、大友氏、毛利氏らによる激闘地であった場所です。

大友宗麟

大友宗麟

城の起源は、1330年に豊後国(豊後=大分県)守護の大友貞宗(おおともさだむね)の次男・大友貞載(さだのり)が築き、立花氏を称するようにもなったことに始まります。

1570年から、当時、九州の大半を手中におさめていた大友宗麟(そうりん)の重臣であった立花誾千代の父・立花道雪の居城となりますが、それにはこんな経緯が。

立花道雪は、もとの名を戸次鑑連(べっきあきつら)と言います。1569年、中国地方全域に勢力を拡大していた毛利(もうり)氏の4万もの大軍が北九州に進攻。「多々良浜の戦い」(たたらはまのたたかい)、あるいは「多々良川の戦い」と呼ばれ、立花城の帰属を巡る大友宗麟と毛利元就の戦いとして始まったものです。

計18回にも及ぶ戦いの中、特に激しかったのが1569年5月18日に起きたもの。毛利側は小早川隆景(こばやかわたかかげ=毛利元就の三男で、毛利家の「三本の矢の教え」の逸話に登場するひとり)が、大友側はのちに立花道雪を名乗る戸次鑑連が自ら指揮を執っていました。

毛利元就

毛利元就

実は、戸次鑑連、当時すでに57歳で、しかも下半身不随の身。そのため、輿(こし)に乗って采配を振るっていた訳ですが、「わしの輿を敵の真ん中にかき入れて進め! 命が惜しいならばそのあとに逃げろ!」と将兵達を叱咤激励し続けたと言われており、その姿に、「大将を討たせてなるか」と闘志を煽られた大友軍が一丸となり、毛利軍を圧倒していったとされています。

一時は、元立花城主・立花鑑載(たちばなあきとし)の謀叛などにより立花城を奪われる事態にも陥った大友軍ですが、この戸次鑑連の活躍がきっかけとなって息を吹き返し、結果的に毛利軍は本国へと撤退。翌年の1570年、戸次鑑連はその戦功により立花城を任されることになり、それに伴い、名を立花道雪と改めます。

一説には、結果的に立花家を継承したものの、立花道雪自身は生涯、戸次鑑連または戸次道雪で通したとも言われています。

さて、お気づきの人もいるかもしれません。そう、立花誾千代が誕生したのは、父がこの武勇を立てたのと同じ1569年のこと。多々良浜の戦いのハイライトと言える屈指の名勝負から約3ヵ月後の8月13日です。

父・立花道雪が立花誾千代に家督を継がせたかったのは、もちろん彼女にリーダーとして資質があることを見抜いたからでしょうが、何らかの運命を感じたのかもしれません。

立花城は、現在は山頂の本丸跡にわずかに石垣跡と古井戸跡が残るのみですが、山頂からは福岡市街はもとより、「海の中道」や玄界灘が眺望でき、その景色は絶景です。

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立花道雪・誾千代・宗茂の三神を祀る「三柱神社」

三柱神社

三柱神社

三柱神社」(みはしらじんじゃ)は、福岡県柳川市三橋町にあり、初代柳川藩主・立花宗茂、その義父・戸次道雪(立花道雪)、そして立花宗茂の正室で立花道雪の娘である立花誾千代の三神を祀ることから、三柱神社と名が付いた神社です。

1783年、柳川藩の7代藩主・立花鑑通(たちばなあきなお)が柳川城内三の丸の長久寺境内に社を建立し、立花道雪公を奉祀したのを起源とし、1826年、9代藩主・立花鑑賢(たちばなあきかた)の時代に現在の地に遷座され、三柱神社と改称されました。

「西国一の強者」と称された立花宗茂はもとより、御神霊となった3人ともが希代の武将として名高く、武神軍神、水利・干拓・開田・郷土繁栄の守護神として、近年では3人の功績をもとに、必勝・就職・再就職・復活の社としても愛される神社となり、遠方からも多くの人が訪れます。

また、三柱神社の神域は、約2万坪の敷地を持つ高畑公園としても整備。春の桜まつりにおいては、正参道桜並木で「流鏑馬」(やぶさめ=疾走する馬上から的に矢を射る儀式)も催されます。

秋の大祭「おにぎえ」では、県の無形民俗文化財である囃子山車「どろつくどん」や、艶やかな「踊り山」が参道や町内を練り歩きます。

立花誾千代と立花宗茂の別居を物語る「宮永様跡」

立花誾千代は、別名「宮永殿」とも呼ばれます。これは、夫・立花宗茂の柳川入城後、立花誾千代は城下の宮永に屋敷を設けて住んだことによります。

現在はその居館の跡は残っておらず、屋敷があったと推測される場所(福岡県柳川市上宮永町)に、そのことを示す石碑が建てられています。

この「宮永様の屋敷跡」は、つまりは立花宗茂と立花誾千代の「別居」を物語るもので、2人が不仲だったという説もそこから生まれていますが、実際のところは分かっていません。

立花誾千代の墓「ぼたもちさん」

立花誾千代の墓は、熊本県玉名郡長洲町腹赤にあり、通称「ぼたもちさん」と呼ばれています。これは、墓石の形状がぼたもちに似ていることから。

なぜ、立花誾千代の墓が福岡でなく熊本にあるのか? それは、立花宗茂が関ヶ原の合戦で西軍に味方し敗れたあと、立花誾千代は他の家臣ともども加藤清正のもとに身を寄せたことによります。

加藤清正が書いた書状に、加藤清正が立花誾千代に「兵糧」を送っていたことが分かっており、そのころ、立花誾千代は肥後国(熊本県)玉名郡腹赤村に居住していたと言われています。

そして、関ヶ原の合戦から2年後の1602年10月17日、同村において34歳で死去したと伝わります。

立花誾千代の菩提寺「良清寺」

良浄寺(りょうせいじ)は、福岡県柳川市西魚屋町にある浄土宗の寺院です。柳川藩祖・立花宗茂が、正室・立花誾千代を弔うため、1621年に建立した物。寺の名は、立花誾千代の院号の「光照院殿泉誉良清大禅定尼」に由来しています。

立花家伝来の大名道具や「立花家文書」を公開する「立花家資料館」

江戸時代を通じて柳川を治めた大名である立花家に伝来する美術工芸品を収蔵し、公開する「立花家史料館」。立花誾千代の夫で柳川藩の初代藩主・立花宗茂が所用した「伊予札縫延栗色革包仏丸胴具足」(いよざねぬいのべくりいろかわつつみほとけまるどうぐそく)をはじめ、歴代藩主の武具甲冑(鎧兜)が数多く残されています。

桃山時代~江戸時代初期の物とされる「金箔押桃形兜」(きんぱくおしももなりかぶと)は必見。西洋甲冑(鎧兜)の影響を受けて作られ始めた物とされ、桃の実を思わせる形状から名付けられています。立花家では「金甲」(きんこう)と呼ばれ、戦場で一隊全員が揃って着用したと考えられており、現在は239頭が残されています。

立花家の先祖が足利尊氏に従って上京したときに武勲をたて、尊氏から拝領したという伝承を伴う短刀「吉光」は国宝に指定されている物。立花家代々の家宝として特に大切にされてきたと伝わります。

立花誾千代

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富田信高の妻

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伊勢国(三重県)安濃津(あのつ)城主・富田信高(とみたのぶたか)の妻。肥前平戸(ひぜんひらど)藩主・松浦鎮信(まつうらしげのぶ)が著した戦話「武功雑記」(ぶこうざっき)にも記される、夫の命を自らの槍合わせで救った富田信高の妻の武勇を紹介しましょう。

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鶴姫

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常山城(つねやまじょう)の城主・三村上野介高徳(みむらこうずけのすけたかのり)の妻、鶴姫(つるひめ)は、1574年(天正2年)から翌1575年(天正3年)にかけて起こった「備中兵乱(びっちゅうひょうらん)」の戦いで、三村家が劣勢に追い込まれ、常山城が敵に完全に包囲されると見るや、たったひとりで敵陣へと乗り込んでいきました。その鶴姫の姿を見ていた常山城の従女34人も団結し、「女軍」(じょぐん)として長刀(薙刀)を手に敵陣の中に飛び込みましたが、全員討ち取られてしまったのです。戦いに敗れ、自決した鶴姫と勇敢な従女達の戦いはやがて「常山女軍の戦い」(つねやまじょぐんのたたかい)と言われ、後世に語り継がれることになりました。

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豊後国(ぶんごのくに・現在の大分県)の戦国大名・大友宗麟(おおともそうりん)に仕えていた吉岡鎮興(よしおかしずおき)の妻・吉岡妙林尼(よしおかみょうりんに)は、耳川の戦いで命を落とした夫の死後、息子が城主を務める鶴崎城が島津軍に攻められたとき、女性や農民を率いて籠城戦を展開。敵を欺く見事な采配で島津軍を撃退し、城を奪還することに成功しました。その後、妙林尼は九州の女丈夫と評され、ヒロインの武勇伝として現代まで伝えられています。

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