女剣士ヒストリー
井伊直虎①
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井伊直虎①

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江戸幕府創設の功臣「徳川四天王」(とくがわしてんのう)のひとり、井伊直政(いいなおまさ)。その直政を養育し、家康の家臣としての道を開いたとされるのが、戦国時代、井伊家の「女城主」となった「井伊直虎」(いいなおとら=1582年没)です。

名門井伊家伝来の刀剣類は直虎の存在があってこそ

井伊直虎

井伊直虎

直政を初代藩主に、幕末に日米修好通商条約を結んだことで知られる井伊直弼(いいなおすけ)など、江戸幕府最高職の大老を6人も輩出した近江国(おうみのくに=滋賀県)の彦根藩・井伊家。

一説には、この「徳川の譜代筆頭・井伊家」の礎は、戦国時代に存亡の危機にあった井伊の家督を守った井伊直虎という女地頭(一般的に言う女城主)の存在なしには築かれなかっただろうと言われています。

すなわち、朱色の軍団として歴史に名を残す「井伊の赤備(あかぞな)え」の甲冑(鎧兜)や旗、さらに井伊家伝来の貴重な刀剣類などが存在するのも、直虎が家譜をつないだからこそ。

それはどういうことか。まずは直虎の生涯を簡単に紹介しましょう。

徳川家康と同時代を生きた女性

井伊家は、浜名湖の北部、遠江国引佐郡井伊谷(とおとうみのくにいなさごおりいいのや=静岡県浜松市北区引佐町)に勢力を築いた藤原氏の流れを汲む井伊氏一族がその源流です。直虎はその井伊谷の地で、22代直盛(なおもり=1506~1560年)の娘として生まれます。

直虎の生年は不明ですが、ときは戦国時代、徳川家康と同時代を生きた女性です。当時の井伊家は、井伊谷一帯の国人領主(こくじんりょうしゅ=土地とのつながりが強い領主)で、駿河(静岡県中部)・遠江(静岡県西部)・三河(愛知県東部)の3ヵ国の戦国大名として君臨した今川氏の重臣という立場にありました。

姫として生まれ、井伊家当主の「妻」となるはずが…

直虎の父・直盛には、息子がおらず、子どもは娘の直虎ひとりか、あるいは女子ばかりだったと言われています。そこで直盛は、彼の叔父・直満(なおみつ)の子でいとこにあたる直親(なおちか=1536~1562年、幼名・亀之丞=かめのじょう)を養子として迎え入れ、将来は直虎と夫婦にさせようと考えます。

おそらく「姫」としての名が付いていたであろう幼少期の直虎は、自らが井伊家の家督を守る身になるなどということはつゆにも思わず、ごく一般的な有力者の娘として過ごしていたのでしょう。

しかし、1544年のあるできごとをきっかけに彼女と井伊家の運命は大きく変わってしまうのです。

一時は出家し、「次郎法師」に

次郎法師

次郎法師

直親の父・直満とその弟・直義(なおよし)に今川氏への謀叛の嫌疑がかけられ、直満兄弟は駿府の今川館で自刃(じじん=刀類で自分の命を絶つこと)の憂き目にあいます。

さらに謀叛の芽を摘むため、当時まだ9歳の直親をも殺害しようとする動きがあり、直親はその追っ手から逃れるため、信州(長野県)伊那の松源寺(しょうげんじ)に家臣とともに身を隠します。

直虎は許嫁(いいなずけ)の直親が井伊谷を離れた悲しみから、井伊家の菩提寺である龍潭寺(りょうたんじ)の住職・南渓瑞聞(なんけいずいもん)の許で出家し、「次郎法師」(じろうほうし)と名乗ります。

次郎法師から「井伊直虎」へ

1555年、逃亡生活を送っていた井伊直親は、11年ぶりに遠江国への帰国を果たします。【寛政重修諸家譜】(かんせいちょうしゅうしょかふ=寛政年間に江戸幕府が編集した大名や旗本の家譜集)には、直盛が今川義元に愁訴(しゅうそ)し、許しを得て直親を正式に養子にしたことが記されています。

ただし、直親の許嫁であった直虎は、直親が帰国を果たしたときにはすでに出家して次郎法師となっており、直親は、有力一族奥山氏の娘を妻にし、二人の間に虎松(のちの井伊直政)が生まれます。この虎松は、当時の井伊家にとって待望の跡継ぎ。しかしその喜びも束の間、井伊家にまた暗雲が立ち込めます。

1560年に22代直盛が桶狭間の戦いで戦死し、その2年後、23代を継いだ直親(なおちか)も殺害されるなど井伊家当主が次々とこの世を去ります。

そればかりか、直虎の曽祖父・井伊直平(いいなおひら)や中野氏、新野氏、奥山氏といった井伊家の主だった成年男子も相次いで亡くなり、井伊家は存続の危機に陥ってしまうのです。

この危機を何とか乗り切るために、南渓和尚と直虎の母・祐椿尼(ゆうちんに)が相談し、出家して次郎法師(じろうほうし)と名乗っていた直虎を還俗(げんぞく)させることにしたのです。

女地頭、一般的に言う女城主・井伊直虎の誕生です。戦国時代、女城主として活躍した人物は他にもいますが、男子としか思えない名前になり、いかにも元服したような形で次郎直虎として男になりきって文書を出しているという点で、直虎は非常に稀有な存在です。結果的に、この南渓和尚と祐椿尼の苦渋の決断が実を結び、直虎は虎松を立派に育て、徳川家康の重臣・井伊直政となる道を開くのですが、その物語は、別のコンテンツで。ここでは、直虎が女城主になった背景にもう少し迫る2つのストーリーを紹介しましょう。

直虎と直親、幼き二人の婚約が井伊家の存続を危うくする事件を生む?

戦国の世は多くの謎がうごめく時代。直満・直義自刃事件は、直親の家督相続を快く思わない井伊家の被官(江戸期の史料では筆頭家老職と記載)・小野和泉守(おのいずみのかみ)が、「直満らに謀叛の疑いあり」と今川義元に讒言(ざんげん)したためであったと言われています。

通説では「井伊家の裏切り者」とされる小野和泉守ですが、一説にはこんな裏があったとも。実は、直満・直義兄弟が自刃に追い込まれた事件に対して、その父である直平(なおひら=直虎の曽祖父)や甥の直盛(直虎の父)など井伊家の他の者には何のお咎めもありませんでした。

このことから、井伊一族内で、この事件の前に戦死した井伊家惣領・直宗(なおむね=直盛の父、直満・直義兄弟の兄)の後継ぎを巡る対立があり、それが事件の発端にあったという説です。

直盛には息子がないこともあり、直満・直義が直盛の存在を否定して自ら惣領になれる可能性もあった訳で、これを阻止するために小野氏は讒言を行なったのだと。

それゆえに幼い直満も井伊谷を追われることになったという訳です。これを裏付ける史料は残されておらず、ひとつの仮説に過ぎませんが。

「次郎法師は女にこそあれ…」

龍潭寺

龍潭寺

もうひとつ、女性が出家すると「尼」が付くのが通例の中、なぜ直虎は次郎法師という男子につく僧名になったのでしょう? 結果的に、これが「直虎と井伊家のその後」に大きな意味を持ってくるのです。

命名は龍潭寺住職・南渓和尚ですが、これにはこんな経緯がありました。南渓和尚は、直虎の曽祖父・井伊直平の次男。昔から、「一子出家すれば九族天に生ず」と言われ、子どものひとりを仏門に入れることで親族が極楽に生まれ変わるとされてきたことから、南渓和尚は井伊家の菩提寺・龍潭寺の2世住職に就任したと言われています。

当時の井伊家にとっては、頼りになる重鎮という位置づけでした。その南渓和尚が直盛の一人娘(のちの直虎)を次郎法師と命名した経緯を、【井伊家伝記】(龍潭寺住職・祖山著)では「次郎法師と申命の事」という項目で記しています。要約して紹介しましょう。

直盛には一人娘があり、亀之丞(のちの直親)を養子に迎え夫婦にする約束をしていた。しかし亀之丞が信濃に身を隠してしまったため、自ら南渓和尚の弟子になり、出家してしまった。嘆いた両親は、出家しても結婚ができるように尼の名は付けさせたくないと南渓に申し出る。一方、彼女は、「出家した身であるから尼の名を」と願う。意見が分かれた両者の思いを考え、南渓和尚が名付けたのが次郎法師という名。「井伊家惣領は【備中次郎】を通称として用いていた。次郎法師は女ではあるが井伊家惣領に生まれたので、僧侶の名をかねてそう名乗るのがふさわしい」と。そしてこの次郎法師は、井伊直親が殺されたあと、その子虎松(のちの直政)がまだ幼少であったため、井伊直虎として井伊家の家督となり、地頭職を務めた。

つまり、次郎法師という名は、「尼ではなく僧だから還俗でき、結婚もできる」という南渓和尚の苦肉の策であった訳ですが、これが、結果的に女城主・井伊直虎を生んだとも言えます。では、直虎がどう井伊家を守りきったのか。それはまた別のコンテンツで、紹介しましょう。

井伊直虎①

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