歴女も憧れる女剣士ヒストリー

井伊直虎

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江戸幕府創設の功臣「徳川四天王」(とくがわしてんのう)のひとり、井伊直政(いいなおまさ)。その井伊直政を養育し、徳川家康の家臣としての道を開いたとされるのが、戦国時代、井伊家の「女城主」となった「井伊直虎」(いいなおとら=1582年没)です。ここでは井伊直虎のエピソードと彼女にゆかりのある場所を紹介しましょう。

名門井伊家伝来の刀剣類は井伊直虎の存在があってこそ

井伊直虎

井伊直虎

井伊直政を初代藩主に、幕末に日米修好通商条約を結んだことで知られる井伊直弼(いいなおすけ)など、江戸幕府最高職の大老を6人も輩出した近江国(おうみのくに=滋賀県)の彦根藩・井伊家。

一説には、この「徳川の譜代筆頭・井伊家」の礎は、戦国時代に存亡の危機にあった井伊の家督を守った井伊直虎という女地頭(一般的に言う女城主)の存在なしには築かれなかっただろうと言われています。

すなわち、朱色の軍団として歴史に名を残す「井伊の赤備え」(いいのあかぞなえ)の甲冑(鎧兜)、さらに井伊家伝来の貴重な刀剣類などが存在するのも、井伊直虎が家譜をつないだからこそ。

それはどういうことか。まずは井伊直虎の生涯を簡単に紹介しましょう。

徳川家康と同時代を生きた女性

井伊家は、浜名湖の北部、遠江国引佐郡井伊谷(とおとうみのくにいなさごおりいいのや=静岡県浜松市北区引佐町)に勢力を築いた藤原氏の流れを汲む井伊氏一族がその源流です。井伊直虎はその井伊谷の地で、22代井伊直盛(いいなおもり=1506~1560年)の娘として生まれます。

井伊直虎の生年は不明ですが、ときは戦国時代、徳川家康と同時代を生きた女性です。当時の井伊家は、井伊谷一帯の国人領主(こくじんりょうしゅ=土地とのつながりが強い領主)で、駿河(静岡県中部)・遠江(静岡県西部)・三河(愛知県東部)の3ヵ国の戦国大名として君臨した今川氏の重臣という立場にありました。

姫として生まれ、井伊家当主の「妻」となるはずが…

井伊直虎の父・井伊直盛には、息子がおらず、子どもは娘の井伊直虎ひとりか、あるいは女子ばかりだったと言われています。そこで井伊直盛は、彼の叔父・井伊直満(いいなおみつ)の子でいとこにあたる井伊直親(いいなおちか=1536~1562年、幼名・亀之丞=かめのじょう)を養子として迎え入れ、将来は井伊直虎と夫婦にさせようと考えます。

おそらく「姫」としての名が付いていたであろう幼少期の井伊直虎は、自らが井伊家の家督を守る身になるなどということはつゆにも思わず、ごく一般的な有力者の娘として過ごしていたのでしょう。

しかし、1544年のあるできごとをきっかけに彼女と井伊家の運命は大きく変わってしまうのです。

一時は出家し、「次郎法師」に

次郎法師

次郎法師

井伊直親の父・井伊直満とその弟・井伊直義(いいなおよし)に今川氏への謀叛の嫌疑がかけられ、井伊直満兄弟は駿府の今川館で自刃(じじん=刀類で自分の命を絶つこと)の憂き目にあいます。

さらに謀叛の芽を摘むため、当時まだ9歳の井伊直親をも殺害しようとする動きがあり、井伊直親はその追っ手から逃れるため、信州(長野県)伊那の松源寺(しょうげんじ)に家臣とともに身を隠します。

井伊直虎は許嫁(いいなずけ)の井伊直親が井伊谷を離れた悲しみから、井伊家の菩提寺である「龍潭寺」(りょうたんじ)の住職・南渓瑞聞(なんけいずいもん)の許で出家し、「次郎法師」(じろうほうし)と名乗ります。

次郎法師から「井伊直虎」へ

今川義元

今川義元

1555年、逃亡生活を送っていた井伊直親は、11年ぶりに遠江国への帰国を果たします。

「寛政重修諸家譜」(かんせいちょうしゅうしょかふ=寛政年間に江戸幕府が編集した大名や旗本の家譜集)には、井伊直盛が今川義元に愁訴(しゅうそ)し、許しを得て井伊直親を正式に養子にしたことが記されています。

ただし、井伊直親の許嫁であった井伊直虎は、井伊直親が帰国を果たしたときにはすでに出家して次郎法師となっており、井伊直親は、有力一族奥山氏の娘を妻にし、二人の間に虎松(のちの井伊直政)が生まれます。

この虎松は、当時の井伊家にとって待望の跡継ぎ。しかしその喜びも束の間、井伊家にまた暗雲が立ち込めます。

1560年に22代井伊直盛が「桶狭間の戦い」(おけはざまのたたかい)で戦死し、その2年後、23代を継いだ井伊直親(なおちか)も殺害されるなど井伊家当主が次々とこの世を去ります。

そればかりか、井伊直虎の曽祖父・井伊直平(いいなおひら)や中野氏、新野氏、奥山氏といった井伊家の主だった成年男子も相次いで亡くなり、井伊家は存続の危機に陥ってしまうのです。

この危機を何とか乗り切るために、南渓和尚と井伊直虎の母・祐椿尼(ゆうちんに)が相談し、出家して次郎法師と名乗っていた井伊直虎を還俗(げんぞく)させることにしたのです。

女地頭、一般的に言う女城主・井伊直虎の誕生です。戦国時代、女城主として活躍した人物は他にもいますが、男子としか思えない名前になり、いかにも元服したような形で井伊次郎直虎として男になりきって文書を出しているという点で、井伊直虎は非常に稀有な存在です。

結果的に、この南渓和尚と祐椿尼の苦渋の決断が実を結び、井伊直虎は虎松を立派に育て、徳川家康の重臣・井伊直政となる道を開くのです。

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井伊直虎と井伊直親、幼き2人の婚約が井伊家の存続を危うくする事件を生む?

戦国の世は多くの謎がうごめく時代。井伊直満・直義自刃事件は、井伊直親の家督相続を快く思わない井伊家の被官(江戸期の史料では筆頭家老職と記載)・小野和泉守(おのいずみのかみ)が、「井伊直満らに謀叛の疑いあり」と今川義元に讒言(ざんげん)したためであったと言われています。

通説では「井伊家の裏切り者」とされる小野和泉守ですが、一説にはこんな裏があったとも。実は、井伊直満・井伊直義兄弟が自刃に追い込まれた事件に対して、その父である井伊直平(なおひら=井伊直虎の曽祖父)や甥の井伊直盛(井伊直虎の父)など井伊家の他の者には何のお咎めもありませんでした。

このことから、井伊一族内で、この事件の前に戦死した井伊家惣領・井伊直宗(いいなおむね=井伊直盛の父、井伊直満・井伊直義兄弟の兄)の後継ぎを巡る対立があり、それが事件の発端にあったという説です。

井伊直盛には息子がないこともあり、井伊直満・井伊直義が井伊直盛の存在を否定して自ら惣領になれる可能性もあった訳で、これを阻止するために小野氏は讒言を行なったのだと。

それゆえに幼い井伊直満も井伊谷を追われることになったという訳です。これを裏付ける史料は残されておらず、ひとつの仮説に過ぎませんが。

次郎法師は女にこそあれ…

もうひとつ、女性が出家すると「尼」が付くのが通例の中、なぜ井伊直虎は次郎法師という男子につく僧名になったのでしょう? 結果的に、これが「井伊直虎と井伊家のその後」に大きな意味を持ってくるのです。

命名は龍潭寺住職・南渓和尚ですが、これにはこんな経緯がありました。南渓和尚は、井伊直虎の曽祖父・井伊直平の次男。

昔から、「一子出家すれば九族天に生ず」と言われ、子どものひとりを仏門に入れることで親族が極楽に生まれ変わるとされてきたことから、南渓和尚は井伊家の菩提寺・龍潭寺の2世住職に就任したと言われています。

当時の井伊家にとっては、頼りになる重鎮という位置づけでした。その南渓和尚が井伊直盛の一人娘(のちの井伊直虎)を次郎法師と命名した経緯を、「井伊家伝記」(龍潭寺住職・祖山著)では「次郎法師と申命の事」という項目で記しています。要約して紹介しましょう。

井伊直盛には一人娘があり、亀之丞(のちの井伊直親)を養子に迎え夫婦にする約束をしていた。しかし亀之丞が信濃に身を隠してしまったため、自ら南渓和尚の弟子になり、出家してしまった。嘆いた両親は、出家しても結婚ができるように尼の名は付けさせたくないと南渓に申し出る。一方、彼女は、「出家した身であるから尼の名を」と願う。意見が分かれた両者の思いを考え、南渓和尚が名付けたのが次郎法師という名。「井伊家惣領は『備中次郎』を通称として用いていた。次郎法師は女ではあるが井伊家惣領に生まれたので、僧侶の名をかねてそう名乗るのがふさわしい」と。そしてこの次郎法師は、井伊直親が殺されたあと、その子・虎松がまだ幼少であったため、井伊直虎として井伊家の家督となり、地頭職を務めた。

つまり、次郎法師という名は、「尼ではなく僧だから還俗でき、結婚もできる」という南渓和尚の苦肉の策であった訳ですが、これが、結果的に女城主・井伊直虎を生んだとも言えます。では、井伊直虎がどう井伊家を守りきったのか。その活躍を紹介していきましょう。

井伊家はなぜ、江戸幕府の譜代大名筆頭になれたのか?

井伊直虎が生きた戦国時代は、織田信長(1534~1582年)・豊臣秀吉(1536~1598年)・徳川家康(1543~1616年)という、いわゆる「天下取りの3人」をはじめ、名だたる戦国大名(各地に領国を形成した大名)が群雄割拠した動乱の時代。

その中で井伊家は、古くから遠江国引佐郡井伊谷(とおとうみのくにいなさごおりいいのや:静岡県浜松市北区引佐町)に勢力を持っていた一族ではあったものの、天下の情勢が決まるかどうかの大事な時期に、嫡流が絶えたことによる存続の危機を迎えます。

その井伊家がなぜ、江戸幕府の譜代大名筆頭、いわゆる幕府の要職を代々担う家柄に上り詰めることができたのでしょうか。そこには井伊直虎の存在があったのです。

※戦国時代:はっきりとした定義はないが、応仁の乱(1467年)から豊臣秀吉が一応の天下統一を成し遂げたとされる1590年ごろまでとされることが多い。

三英傑三英傑
戦国時代の三英傑「織田信長」、「豊臣秀吉」、「徳川家康」についてご紹介します。

井伊直虎が後見を務めた彦根藩井伊家の初代藩主・井伊直政とは

井伊直政

井伊直政

江戸時代、近江国(滋賀県)一帯を治めた彦根藩井伊家の初代藩主となったのが、井伊一族としては24代目にあたる井伊直政(いいなおまさ)です。

井伊直政は、酒井忠次(さかいただつぐ)、本多忠勝(ほんだただかつ)、榊原康政(さかきばらやすまさ)とともに江戸幕府創立の功臣「徳川四天王」(とくがわしてんのう)のひとりとされ、うち酒井忠次を除く3人は「三人衆」、「三傑」とも呼ばれます。

こう聞くと、早くから徳川家に仕えていたイメージを持ちますが、もともと戦国時代の井伊家は、当時の駿河(静岡県中部)・遠江・三河一帯を治めていた名門・今川氏の配下にあった武家で、徳川家の譜代大名としてはかなりの新参者です。

しかし、井伊直政が多くの武功を立てたことにより、関ヶ原の戦いののち、石田三成の居城であった佐和山城主に任ぜられ、徳川四天王の中でも最も多い18万石を与えられるのです。

彦根城博物館の紹介動画

彦根城博物館

佐和山城は近江国坂田郡(滋賀県彦根市)にあった城で、西国と東国を結ぶ要衝として軍事的にも政治的にも重要拠点と位置付けられていた場所。そこに井伊家が配されたことからも、井伊直政が徳川家康からの強い信頼を受けていたことが分かります(彦根藩は、井伊直政の嫡男・井伊直継の時代に佐和山から少し離れた金亀山に彦根城を築城し、以後彦根城を居城にしました)。

そして、この井伊直政が徳川家康に仕えるきっかけを作ったのが、井伊直政(幼名・虎松)の後見として井伊家の家督を継いだ井伊直虎だと、「井伊家伝記」(井伊家菩提寺[龍潭寺]住職・祖山著)は伝えています。

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虎松を守るため奔走した井伊直虎

女性で、しかも出家した身の井伊直虎が井伊家のトップになった背景には、井伊直虎の大叔父と母が下した苦渋の決断が2つありました。

ひとつめは嫡流の絶えた井伊家の存続をかけ、次郎法師を井伊直虎として還俗(げんぞく:出家者が再び俗家にかえること)させたのです。井伊直虎は女性ではあるものの直系の血筋であり、井伊家の地頭として今川氏の承認が得やすいであろうと判断したことです。

もうひとつは、当時まだ幼少の井伊直親の子・虎松に家督をつなぐため、その後見人としての役割を井伊直虎に託したことです。

井伊直虎は家督を継いだのち、井伊家トップとして務めを果たすとともに、動乱がますます深まる戦国の中、今川氏や武田氏などから虎松の身を守るため、虎松の居場所を転々とさせるなど奔走します。さらに、母・祐椿尼などとも相談し、虎松の実母を徳川家康の家臣・松下源太郎と再婚させ、松下姓を名乗らせることで素性を分かりづらくする策も講じるのです。

一方で、井伊直虎自身も苦難の連続の中にいました。井伊直虎が家督を継いだのは、「遠州錯乱」(えんしゅうさくらん:桶狭間の戦い以降、大勢力を誇った今川氏の支配が薄れ、遠江で起こった混乱状態)と言われる時期。井伊家の城と所領は、家臣の横領や武田信玄の侵攻などにより、失っては取り戻し、取り戻しては失うことを繰り返していました。

井伊直政と徳川家康の出会いも井伊直虎が演出?

徳川家康

徳川家康

そんな中、井伊家と徳川家との結び付きは、1575年、井伊直政が15歳で徳川家康に仕えたことに始まります。徳川家康は当時、三河国(愛知県東部)を地盤に、駿府(すんぷ:静岡市)・遠江に勢力を拡大していたころ。

井伊家伝記によると、井伊家再興をかけ、井伊直虎と彼女の母・祐椿尼が小袖を仕立て、虎松を徳川家康にお目見えさせる準備を行ない、その小袖を着た虎松が鷹狩りに向かうため浜松城(当時の徳川家康の居城)を出た徳川家康を待ち受けていたことがきっかけだったとされます。井伊直虎は虎松を世に出すチャンスを狙っていたのです。

「藩翰譜」(はんかんぷ:新井白石著)や「徳川実紀」(とくがわじっき)など江戸時代の歴史書は、そのときの様子をもう少し詳しく記しており、「道のほとりにただ者ではない子がいるのを見つけ、名を聞いて井伊直親の遺児だと分かると、仕官を許した」といった内容を伝えています。

さらに、「寛政重修諸家譜」(かんせいちょうしゅうしょかふ:寛政年間に江戸幕府が編集した大名や旗本の家譜集)には、徳川家康は召し抱えた虎松を浜松城に入場させた折、直接父祖の由来を尋ね、父が井伊直親であることを知ると、「今より井伊に復すべき」と虎松に伝えたと記します。

虎松の父・井伊直親が非業の死を遂げたのは、実は徳川家康との内通を今川氏に疑われたため。実際に徳川家康が井伊直親とつながりを持っていたかどうかは定かではありませんが、徳川家康は井伊直親が殺された顛末については知っており、その井伊直親の遺児とのことで家臣に加えることを決めたと考えられています。

そして、この井伊家への復姓を命じた徳川家康の一言により、井伊家は再興の一歩を踏み出すのです。もちろん、そこにはおそらく養父・松下源太郎の力添えもあったに違いなく、幕府編纂の歴史書ゆえに美談として脚色された面がないとは言えませんが、井伊直政がのちに徳川四天王と呼ばれる活躍を見せたことは事実であり、その井伊直政に家督をつなぐ役割を井伊直虎が担ったことも様々な文献から明らかになってきています。

徳川家康と井伊直政の出会いの真偽はタイムトラベルが可能になるかもしれない未来に委ねるとして、井伊直虎をはじめ井伊家の人々が井伊家再興を強く願い、虎松を文武に優れた人物として育てることに力を注いだことは、おそらく事実としてあったのではないでしょうか。

そして、再興の足掛かりとすべく、勢いを増していた徳川家康に仕官する道を必死に探っていたのでしょう。チャンスを逃さないために、井伊直虎がどのような小袖を虎松に仕立て徳川家康の目に留まる演出を図ったか。それを想像するのも面白いかもしれません。

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井伊の赤備えは、どう生まれたか?

徳川家康に仕官した虎松は、徳川家康から「万千代」(まんちよ)という幼名を授かり、「松下虎松」から「井伊万千代」となり、元服後に井伊直政を名乗ります。

井伊直政の初陣は、出仕の翌年の1576年です。織田信長・徳川家康連合軍と武田勝頼の軍勢が戦った1575年「長篠の戦い」(ながしののたたかい)をはじめ、当時徳川と武田は領土をめぐる合戦の真っ最中。そのひとつ、遠江国柴原(しばはら:静岡県袋井市)での戦いでデビューした井伊直政は、早々と軍功を挙げます。

その活躍のひとつには、こんなエピソードも。

陣中の徳川家康の寝所に数人の武田の忍者が侵入しますが、それに気付いた井伊直政が日本刀で見事撃退し、徳川家康の命を守ったと。これにより、所領は10倍の3,000石に加増。まさに華々しいデビューを飾った訳です。

その後も井伊直政は活躍を続け、とんとん拍子に出世。甲斐(かい:山梨県)の武田氏滅亡後には、徳川家康から武田遺臣を配下に付けられます。

井伊の赤備え

井伊の赤備え

そして、この武田旧臣から武田家の兵法を取り入れた「井伊の軍法」がまとめられ、そこから誕生したのが、甲冑(鎧兜)から旗指物(はたさしもの:戦場で用いられた小旗または飾り物)などの武具を赤や朱を主体にした色彩で統一した井伊の赤備えです。井伊の赤備えは、「小牧・長久手の戦い」で先鋒を務めてデビューし、「井伊の赤鬼」と呼ばれる強さを発揮。

以後の戦いでも恐れられるとともに、幕末に至るまで、赤備えが彦根藩・井伊家の軍装の基本とされました。

井伊家発展を願い、1582年に死去した井伊直虎

井伊直政が活躍を続ける中、井伊直虎は1582年8月26日、47歳(推定)でひっそりとこの世を去ります。

晩年の井伊直虎がどのように日々を過ごしていたのかを記す物は残っていません。家督を井伊直政につないだのちは次郎法師という名に戻り、龍潭寺内に建てられていた松岳院という庵で、母の祐椿尼とともに暮らしていたのではないかとも、「自耕庵」(じこうあん:現・妙雲寺)で過ごしたとも言われています。

また当時に思いを馳せると、こんな想像もできるかもしれません。井伊直虎が没したのは、織田信長が本能寺の変(1582年6月)で殺された数ヵ月後のこと。虎松はこのとき、織田信長のもとにいた徳川家康がまさに命からがら岡崎城に逃れた際の「伊賀越え」において武功を立て、その褒美として陣羽織を受け取ったとされています。井伊直虎はその姿を見届け、井伊家の行く末に光明を見て亡くなったのではないでしょうか。

井伊直虎の亡骸は自耕庵に埋葬されたと伝わっており、自耕庵はその後、井伊直虎の戒名「妙雲院殿月泉祐圓大姉」(みょううんいんでんげっせんゆうえんだいし)をもって「妙雲寺」(みょううんじ)と改められました。

井伊直虎の生きた証とともに井伊一族のルーツにも迫る旅

あらゆる武具を朱塗りにし、際立った強さを見せた軍団・井伊の赤備えや、江戸時代に徳川の譜代筆頭として6人もの大老を輩出したことで知られる彦根藩・井伊家。

近年は、赤備えの(かぶと)をかぶり刀を抜くポーズも見せる彦根城のゆるキャラ「ひこにゃん」人気から、井伊家について関心を持つようになった人もいるかもしれません。

井伊家が日本の歴史にしっかりと足跡を残す存在となりえたのは、徳川家康と同時代を生きた女城主・井伊直虎がいたからこそ。井伊直虎ゆかりの地は、歴史好きだけでなく、観光スポットとしてもおススメの場所です。

井伊直虎の墓がある井伊家菩提寺・龍潭寺

龍潭寺

龍潭寺

井伊家としてはもちろん、井伊直虎個人としても深いゆかりがあるのが、臨済宗妙心寺派(りんざいしゅうみょうしんじは)の地方中核寺院で、井伊家の菩提寺である龍潭寺です。静岡県浜松市にあり、井伊家40代の祖霊を祀っています。

寺伝によれば、奈良時代の最盛期にあたる733年に行基(ぎょうき)菩薩によって開創、平安時代から井伊家の菩提寺となったと伝わります。

禅宗となったのは室町時代末期で、1560年に桶狭間の戦いで戦死した井伊直虎の父・井伊直盛の戒名から、寺号を龍潭寺に変えたとされます。この龍潭寺の2世住職が、井伊直虎が井伊家の家督を継ぐ道を開いた南渓瑞聞です。

そして江戸中期、9世住職である祖山(そざん)が龍潭寺周辺に伝わる伝承をもとにまとめたのが、「井伊家伝記」です。

井伊直虎は、後見を務めた井伊直政をはじめ、井伊家の先祖や子孫とともに龍潭寺で祀られている訳ですが、特筆すべきは、境内の井伊家墓所にある井伊直虎の墓が、本来なら夫になるはずだった井伊直親と隣同士であること。思わず熱いものがこみ上げてくる光景です。

また、山門を含めて本堂、庫裏、開山堂、御霊屋、稲荷堂の6つの建物はすべて江戸時代のままで、井伊の赤備えの武具をはじめ多くの文化財を所蔵し、井伊氏ゆかりの品々が展示されています。

さらに小堀遠州(こぼりえんしゅう)作で、東海一の名園とも言われる国指定名勝の庭園も大きな魅力のひとつ。四季折々の風情あふれる景色を堪能できます。

井伊直虎の戒名が書かれた位牌が見つかった妙雲寺

龍潭寺から徒歩約7分のところに、井伊直虎の菩提寺とされる妙雲寺(静岡県浜松市)があります。井伊直虎の生前は自耕庵と呼ばれていたところです。

井伊家の地頭となり家督を守ったことで、井伊家存亡の危機を救い、虎松の後見人としての務めも見事に果たした井伊直虎。彼女がその波乱の生涯を閉じたのは、1582年、47歳(推定)のとき。織田信長が本能寺の変で殺された年と同じです。

井伊直虎は死後、自耕庵に埋葬されたと言われており、その後、井伊直虎の戒名「妙雲院殿月泉祐圓大姉」(みょううんいんでんげっせんゆうえんだいし)をもって妙雲寺と改められました。

2015年、この妙雲寺の本堂を住職と檀徒(だんと)が整理していたときに発見されたのが、龍潭寺にある物とは別の井伊直虎の位牌です。

そして2016年には、南渓和尚の位牌や肖像画も、この妙雲寺から発見されています。井伊直虎の位牌が、ある意味「井伊直虎という存在」を生み出したと言える南渓和尚の位牌とともに妙雲寺に眠っていたことは、井伊直虎ありし頃、その活躍を陰日向になって支えた南渓和尚の思いがそこに存在し続けていたようにも感じられます。

井伊氏のルーツ「共保公出生の井戸」

井伊直虎が生まれ、その生涯を送った遠江国引佐郡井伊谷(とおとうみのくにいなさごおりいいのや:静岡県浜松市北区引佐町)は、地名からも分かる通り、井伊氏発祥の地。平安時代、藤原氏の流れをくむ者が在庁官人としてこの地に土着したことに始まります。

井伊家伝記(井伊家菩提寺潭寺住職・祖山著)には、井伊谷の八幡宮御手洗(みたらし:参拝者が手や口を洗って清める場)の井戸から出生した「共保」(ともやす)という男子を、国司の藤原共資(ふじわらともすけ)が養子に迎えたことによると記されています。「井戸から生まれた」とは、おそらく井伊家の祖は極めて土着性の強い人物ということを比喩したものでしょう。

通説では、平安時代の1010年、八幡宮の宮司が井戸の端に捨てられていた男児を見つけ養育。7歳のときに遠州国司藤原共資の養子になり、成人してから井伊谷に戻り、地名を使って「井伊共保」と名乗ったのが井伊氏のルーツとされているのです。

井伊家の紋章もこの故事に由来し、井戸とその傍らにあった橘の木がもととなっています。現在、共保出生の井戸は、龍潭寺の真向かいの田園の中に門と白壁を構えてあり、白壁内には幕末の大老として知られる井伊家36代井伊直弼(いいなおすけ)が菩提寺の龍潭寺を参拝した折、この井戸で詠んだ和歌「湧き出づる岩井の水のそこ清み曇りなき世の影ぞ見えつつ」が刻まれた歌碑もあります。

天白磐倉遺跡と井伊谷古墳群

実は、井伊氏のルーツにはもうひとつの説があります。井伊谷は、古代から「井の国」と呼ばれるきれいな水が湧き出る土地で、この地にいた古代の豪族達の様子が分かる遺跡や古墳が多数見つかっています。

そのひとつが、井の神(水神)を祀る渭伊神社(いいじんじゃ)の境内にある、「天白磐座遺跡」(てんぱくいわくらいせき)。磐座とは、祭祀において神の依り代(よりしろ)とされた岩石のこと。渭伊神社の本殿背後の標高41mの薬師山の丘の頂きには、磐座とされる巨大な石がいくつも横たわっています。

これら石群は、自然の造形とは思えないほど見事にバランスがとれた配置で散在。ここからいくつもの土器の破片や鉄(てつほこ:鉾は袋穂[ふくろぼ]をもつ両刃の長柄の武器)、勾玉(まがたま:古代の日本における装身具のひとつ)、和鏡(わきょう:平安時代以降に日本で作られた銅を主体とした金属鏡)などが発見されています。

祭祀場としての役割は、古墳時代(4世紀)~鎌倉時代(13世紀)まで続いていたことが分かっており、一説には、4~5世紀中期にこの天白磐座遺跡で井水祭祀を行なっていた「井のクニ」の王が、井伊氏の先祖ではないかとも考えられているのです。

また、浜名湖北岸の丘陵斜面にある西遠江最古の古墳と言われる「北岡大塚古墳」(きたおおつかこふん)をはじめ、馬場平(ばんばひら)1号墳、同3号墳、谷津古墳(やつこふん)などからは、古墳時代前期~中期にかけてこの地を支配したと思われる首長墓が見つかっています。

なかでも北岡大塚古墳は、全長46.5m、後方部幅26.5m、同高さ3.6m、前方部幅20m、同高さ2mの前方後方墳で、4世紀中期~後期にかけて築造されたと言われている物です。

井伊家の至宝が伝わる彦根城博物館

彦根城博物館

彦根城博物館

言わずと知れた彦根藩井伊家の居城であり、姫路城松本城犬山城松江城とともに国宝の城としても名高い彦根城(滋賀県彦根市)。この彦根城表御殿跡地にあるのが「彦根城博物館」です。

9万1千件を超える所蔵品の中核が、徳川の譜代筆頭であった井伊家の豊富な美術工芸品や古文書で、その数は約4万5千点にのぼります。

特に、常設展示の「武家の備え」のコーナーは必見です。江戸時代末の井伊家は600振を下らない日本刀を蔵していたと言われ、井伊直政の差料(さしりょう:腰に差す日本刀)をはじめとするゆかりの刀剣類の他、甲冑(鎧兜)や鞍・鐙(あぶみ)などの馬具、弓矢なども含め、数々の名宝と出会うことができます。

また、彦根城域では、毎日3回彦根市のマスコット・ひこにゃんが登場し、パフォーマンスを行なっていますが、その出没場所のひとつがこの彦根城博物館。井伊軍団のシンボルとも言える赤備えの兜をかぶり、刀を使ったパフォーマンスも見せてくれます。

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井伊直虎

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富田信高の妻

富田信高の妻
伊勢国(三重県)安濃津(あのつ)城主・富田信高(とみたのぶたか)の妻。肥前平戸(ひぜんひらど)藩主・松浦鎮信(まつうらしげのぶ)が著した戦話「武功雑記」(ぶこうざっき)にも記される、夫の命を自らの槍合わせで救った富田信高の妻の武勇を紹介しましょう。

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鶴姫

鶴姫
常山城(つねやまじょう)の城主・三村上野介高徳(みむらこうずけのすけたかのり)の妻、鶴姫(つるひめ)は、1574年(天正2年)から翌1575年(天正3年)にかけて起こった「備中兵乱(びっちゅうひょうらん)」の戦いで、三村家が劣勢に追い込まれ、常山城が敵に完全に包囲されると見るや、たったひとりで敵陣へと乗り込んでいきました。その鶴姫の姿を見ていた常山城の従女34人も団結し、「女軍」(じょぐん)として長刀(薙刀)を手に敵陣の中に飛び込みましたが、全員討ち取られてしまったのです。戦いに敗れ、自決した鶴姫と勇敢な従女達の戦いはやがて「常山女軍の戦い」(つねやまじょぐんのたたかい)と言われ、後世に語り継がれることになりました。

鶴姫

中野竹子

中野竹子
1868年(明治元年)8月、会津戊辰戦争(あいずぼしんせんそう)の際、新政府軍参謀であった板垣退助(いたがきたいすけ)が会津若松城(鶴ヶ城)下に侵攻。城下全域が戦闘状態となり銃撃戦が始まる中で、決死隊となる娘子隊(じょうし隊・婦女隊とも言う)の先頭に立ち、薙刀を振るって戦った女性がいました。薙刀の名手と称された中野竹子(なかのたけこ)です。不幸にもその戦いで銃弾に倒れ、22歳の若さで壮烈な死を遂げた彼女の一生を辿ってみましょう。

中野竹子

吉岡妙林尼

吉岡妙林尼
豊後国(ぶんごのくに・現在の大分県)の戦国大名・大友宗麟(おおともそうりん)に仕えていた吉岡鎮興(よしおかしずおき)の妻・吉岡妙林尼(よしおかみょうりんに)は、耳川の戦いで命を落とした夫の死後、息子が城主を務める鶴崎城が島津軍に攻められたとき、女性や農民を率いて籠城戦を展開。敵を欺く見事な采配で島津軍を撃退し、城を奪還することに成功しました。その後、妙林尼は九州の女丈夫と評され、ヒロインの武勇伝として現代まで伝えられています。

吉岡妙林尼

小松姫

小松姫
天下分け目の「関ヶ原の戦い」で親子・兄弟が敵味方に分かれた真田家(さなだけ)を合戦時も、さらに合戦後も武勇と思いやりで支えたとされるのが、真田信之(さなだのぶゆき)の正室「小松姫」(こまつひめ=1573~1620年)です。

小松姫

神功皇后

神功皇后
古代、朝鮮半島を服属下に置いたとされる「三韓征伐」(さんかんせいばつ)伝説を持つ「神功皇后」(じんぐうこうごう)。卑弥呼(ひみこ)と並び、古代日本の象徴的なヒロインのひとりであり、古代日本における女将軍の象徴とも言える人物です。

神功皇后

立花誾千代

立花誾千代
戦国時代、名将達が認めた希代の女武将であり女城主として、歴史家の間でよく知られる「立花誾千代」(たちばなぎんちよ=1569~1602年)。女城主の逸話は日本各地に残されていますが、文書ではっきりと残るのは、この立花誾千代だけだと言われています。

立花誾千代

義姫

義姫
戦国時代を代表する名将であり、「もう少し早く生まれていれば天下人になれた」と語り継がれる仙台藩初代藩主「伊達政宗」(だてまさむね)。その母で、「奥羽(おうう)の鬼姫」との異名も持つのが義姫(よしひめ=1547~1623年)です。

義姫

板額御前

板額御前
平安時代末期(12世紀後半)に活躍した女武将として名高い「巴御前」(ともえごぜん)とほぼ同時期に、もうひとり、その勇猛ぶりを称えられた女武将がいます。越後(新潟県)の有力な豪族で、越後平氏とも言われた城氏(じょうし)の姫・「板額御前」(はんがくごぜん)です。

板額御前

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