名家に代々伝えられた日本刀

姫路藩酒井家伝来の名刀 来国真

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播磨国飾東郡(はりまのくにしきとうぐん:現在の兵庫県南西部)を藩領としていた姫路藩は、1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」後に「池田輝政」(いけだてるまさ)が播磨国52万石を拝領したことにはじまり、本多家、松平家、榊原家等の大名家がめまぐるしく藩主を交代していきます。1749年(寛延2年)に雅楽頭酒井家(うたのかみさかいけ)の「酒井忠恭」(さかいただずみ)が入封すると、その後は雅楽頭酒井家が定着し、明治維新まで歴代藩主を務めました。そこで、ここでは姫路藩主・雅楽頭酒井家の歴史を探ると共に、初代藩主・忠恭が拝領した名刀「来国真」(らいくにざね)についてご紹介します。

姫路藩主となった雅楽頭酒井家の歩み

雅楽頭酒井家のルーツとは?

酒井忠次

酒井忠次

徳川家は、系図をさかのぼると「新田義重」(にったよししげ)がその祖となります。雅楽頭酒井家のルーツは、義重から7代目にあたる「新田親氏」(にったちかうじ)。

親氏は、三河国加茂郡松平郷(みかわのくにかもぐんまつだいらごう:現在の愛知県豊田市松平町)の「松平信重」(まつだいらのぶしげ)の婿養子となり、その後三河国碧海郡酒井郷(へきかいぐんさかいごう:現在の愛知県刈谷市)へ移って、酒井姓を名乗るのです。

親氏の子にあたる「広親」(ひろちか)の息子の代は、2つに分岐します。長男「氏忠」(うじただ)の血筋は「左衛門尉家」(さえもんのじょうけ)、次男「家忠」(いえただ)の血筋は「雅楽頭家」(うたのかみけ)と呼ばれるようになりました。これが雅楽頭酒井家の始まりです。

徳川四天王の「酒井忠次」(さかいただつぐ)は、左衛門尉酒井家の血筋を引いています。一方、雅楽頭酒井家では幕閣の重臣となった「酒井忠世」(さかいただよ)から名を馳せました。酒井家は、古くから徳川家を支える譜代の名門と言える存在だったのです。

忠恭は新天地の姫路に期待したが

酒井忠恭

酒井忠恭

1740年(元文5年)、雅楽頭酒井家9代当主・忠恭(ただずみ)は、幕府からの命で大坂城代に就任します。

この頃、忠恭は上野国前橋藩(こうずけのくにまえばしはん:現在の群馬県前橋市)の第9代藩主。1699年(元禄12年)の大風水害以降、前橋藩は利根川の水害による改修で年々財政が貧窮化しており、忠恭は藩財政の再建に追われていました。

さらに、忠恭は大坂城代から西の丸老中となり、酒井家の家老達と共に国替えを画策します。

その結果、姫路藩の幼君「松平朝矩」(まつだいらとものり)と領地替えが行なわれ、忠恭は播磨国姫路へ入封(にゅうほう:領地を与えられること)することに。姫路藩は前橋藩と同様に15万石の領地でしたが、豊かな土地を獲得することが第一の条件だった酒井家は、新天地である姫路藩に期待を寄せました。

ところが、姫路に入封すると忠恭の期待は大きく裏切られます。移転早々に姫路は台風による未曽有の大水害を被り、藩内で多くの行方不明者や死者が出てしまうことに。

その後も台風による被害は続き、またしても復旧資金の調達に追われた忠恭は、大名貸し(だいみょうがし:両替商等の町人が大名相手に金を貸すこと)など、借金をして賄います。新天地で藩財政を建て直すはずだった酒井家は、ますます財政難に陥ることとなってしまったのです。

その後、忠恭の跡を継いだ第2代藩主「忠以」(ただざね)の時代には「天明の大飢餓」が起こり、忠以の長男である「忠道」(ただみち)の代には、姫路藩の負債は73万両という巨額に達していました。譜代の名門でありながら最大のピンチを迎えた酒井家。しかし、新藩主・忠道の決断によって、姫路藩にある救世主が現れるのです。

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姫路藩の窮地を救った家老の功績

救世主・寸翁 (すんおう)による藩政改革

1790年(寛政2年)、14歳で家督を継ぎ第3代藩主となった忠道は、巨額の負債を抱える姫路藩を建て直すために、藩政改革の必要性に迫られていました。

そこで、忠道は前代である父・忠以の時代に藩政改革に臨んでいた家老「河合道臣」(かわいひろおみ)、通称「寸翁」 (すんおう)に再度改革に臨むことを命じたのです。

寸翁が前代で改革を実行できなかったのは、反対派による強い抵抗があったため。前代・忠以の逝去で後ろ盾を失った寸翁は失脚していました。しかし、このままでは姫路藩の未来はないと悟った忠道は、父の意向を継ぐように1808年(文化5年)に寸翁を呼び戻し、改革の実施に踏み切るのです。

忠道の命を受けた寸翁は、すぐに行動へと移ります。まずは、財政を縮小し、節約と身分に応じた質素な生活を命じる倹約令の徹底。さらに、領内各地に「固寧倉」(こねいそう)を設置しました。固寧倉とは、非常食を備蓄する場所のこと。庄屋や商人等から提供された食料を保管し、平時は低利で貸し出し、非常時には開放するという制度です。

これは、古代中国から伝来した義倉(ぎそう)の制度によるもの。固寧倉は、大飢餓が起こった際に多くの領民の命を救い、1846年(弘化3年)には、姫路藩内に288ヵ所設置されていたことが記録されています。

東山焼

東山焼

さらに、寸翁は特産品の生産と販売にも力を入れていきます。特に色白・やわらかい・薄地という特徴を持つ「姫路木綿」を藩の専売品として市場へ売り出すと、江戸と大坂で評判を呼び、姫路藩はその流行により莫大な利益を得ることとなりました。

同時に、寸翁は殖産興業の施策にも着手し、陶業として「東山焼」(ひがしやまやき)を発展させます。

養蚕業及び絹織物業の振興、さらには朝鮮人参や塩、砂糖等の商品価値の高い農作物の生産をも推進。これらの政策によって藩の収入は増加し、寸翁は見事に藩政改革を成功させたのです。

寸翁の隠居と私塾の開設

こうして寸翁は、藩政に復帰した1808年(文化5年)以来、27年間に亘って改革を進め、藩の負債を無事完済させました。

1835年(天保6年)に隠居しますが、忠道の後継である第4代藩主「忠実」(ただみつ)は、これまでの寸翁の功績を称えて、城下の南東の里山に土地を与えます。

寸翁は、この「幡下山」(はたしたやま)を改名し、儒教の経書である論語(ろんご)から「仁者は寿(いのちなが)し」にちなんで「仁寿山」(じんじゅさん)と命名しました。南麓に別荘を築いた寸翁は、私財を投じて私塾「仁寿山校」を開設し、人材育成に努めていったのです。

1841年(天保12年)、寸翁は75歳で逝去。これに伴い翌年、仁寿山校は廃校となりました。また、仁寿校址の西方の中腹に河合家の墓地があり、この場所には寸翁はじめ一族の墓碑が並んでいます。

姫路藩初代藩主・忠恭に贈られた来国真

徳川吉宗

徳川吉宗

名家老・寸翁の隠居後も、代々姫路藩を存続させていった雅楽頭酒井家。実は、初代藩主・忠恭が姫路へ国替えとなる数年前に、大御所となった徳川8代将軍「吉宗」(よしむね)からある名刀が贈られていました。

この出来事は江戸幕府の公式史書「御実紀」(ごじっき)、通称「徳川実紀」(とくがわじっき)にまとめられています。

吉宗の息子で第9代将軍「家重」(いえしげ)の治績は「惇信院御実紀」(じゅんしんいんごじっき)に記されており、忠恭が幕府の老中首座となった1745年(延享2年)10月19日に、「大御所御隠退御祝として、御佩刀を重職の諸臣に賜る」との一文が残されています。

このとき忠恭に贈られた「来国真」は、山城国(やましろのくに:現在の京都府)で鎌倉時代後期に活躍した「来派」の代表刀工「来国俊」(らいくにとし)の門人、または子と伝えられている名工。銘のある作品は少ないと言われており、希少な1振となっています。

刀 (金象嵌銘) 来国真

刀 (金象嵌銘) 来国真

時代 鑑定区分 所蔵・伝来
金象嵌銘
来国真
鎌倉時代 重要刀剣 徳川吉宗→
雅楽頭酒井家→
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕
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姫路藩酒井家伝来の名刀 来国真

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