歴史上の人物と日本刀

山名宗全と堀川国広の薙刀 磯波

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「凡そ例といふ文字をば向後は時といふ文字にかへて御心えあるべし」 この一文は、室町時代の説話集「塵塚物語」(ちりづかものがたり)に記載されている「山名宗全」(やまなそうぜん)の台詞で、「今現在の時勢こそ大切なのだ」という宗全のモットーが語られています。宗全が生きた時代は、室町幕府における守護大名の体制が変化していった時代で、諸国各地で対立や争いが勃発していました。そして何より宗全こそが、日本を戦乱の世へと導いた象徴的人物だったのです。 今回は、室町時代に勢力を拡大した守護大名・山名宗全をご紹介すると共に、彼の子孫が刀匠に注文したとされる薙刀について見ていきます。

幕府の「重鎮」守護大名山名家

山名家のルーツとは?

山名八幡宮

山名八幡宮

山名氏は、清和源氏(せいわげんじ)の流れをくむ名門・新田氏(にったし)の庶流と言われており、この新田氏の祖である「義重」(よししげ)の長男「義範」(よしのり)が、上野国山名郷(こうずけのくにやまなごう:現在の群馬県高崎市山名町)に渡って「山名三郎」と称したのが始まりだとされています。

義範は、平安時代末期に「源義経」(みなもとのよしつね)に仕えて「一ノ谷の戦い」に参戦し、のちに鎌倉幕府を開いた「源頼朝」(みなもとのよりとも)に近侍(きんじ:側近くに仕えること)しました。

群馬県高崎市山名町にある「山名八幡宮」は、義範が山名氏発祥の地に造営した神社で、その後、西国を活動拠点としていた山名一族においても深いかかわりを持ち、現在は市の重要文化財に指定されています。

この義範の子孫が室町時代において、全国66ヵ国中11ヵ国で守護職に就いたことから、山名家は「六分の一殿」と称される大族へと成長。宗全の父「時煕」(ときひろ)もこの領地を継承しましたが、山名氏の家督争いに発展したことから一度追放され領地を減らされたために、山名氏の勢力は衰退の道を辿っていました。

そして時煕の子らの間にもまた、家督を巡った対立関係が生じることとなるのです。

宗全による山名氏の再興隆

山名宗全

山名宗全

1404年(応永11年)5月19日、時煕と伯父「師義」(もろよし)の娘との間に宗全が誕生しました。幼名は「小次郎」と言い、10歳で元服すると「持豊」(もちとよ)と名乗ります。(ここでは持豊時代も法名の宗全で統一)

宗全には2人の兄がおり、嫡男とされていた長兄「満時」(みつとき)は時煕の後継者として期待されていましたが、25歳という若さで亡くなってしまいました。この満時の思いがけない死をきっかけに、山名家は宗全と次兄「持煕」(もちひろ)の家督争いへと発展。

しかし、持煕は当時6代将軍に就いていた「足利義教」(あしかがよしのり)の勘気(かんき:主君や主人の怒り)に触れることとなり、あえなく継承者争いから脱落します。

こうして後継者の地位を手に入れた宗全は、1433年(永享5年)に、時煕から34歳で家督を相続しました。この2年後、父・時煕が逝去すると、山名一族は宗全の時代を迎えます。

宗全は、山名氏のかつての栄光を取り戻すかのように、あらゆる手段を駆使して権威を強めていきました。この頃、諸大名は他家との結び付きや関係を深めて、政治的安定を図ります。宗全はこういった時代の流れをいち早く察知し、養子縁組や婚姻などの人脈を利用して、一族内外に膨大なネットワークを張り巡らせていったのです。

当時、宗全ほどに広く諸大名に対して影響を及ぼせる人物はいなかったと言われており、山名氏はいつの間にか、幕府の官僚家である斯波氏(しばし)、細川氏(ほそかわし)、畠山氏(はたけやまし)に次ぐ家格を誇るようになっていました。

西軍総大将・赤入道と応仁の乱

細川勝元との勢力争い

細川勝元

細川勝元

宗全は、山名氏の史実を記した書物や「応仁の乱」について記された軍記「応仁記」などで、たびたび「赤入道」と記されており、赤ら顔だったことからこの名で呼ばれていたことが分かります。そのため、宗全は赤い顔をした鞍馬寺(くらまでら)の毘沙門天(びしゃもんてん)の化身だという噂も広まったとか。

こういったあだ名や噂話を通して、宗全の猛将としての顔が浮かび上がり、権力の拡大は人脈だけに頼ったものではなく、戦闘能力の高さにおいても圧倒的に優れていたことを物語っているのです。

このように宗全が荒々しい性格の持ち主だったことが災いして、協力関係にあった娘婿の「細川勝元」(ほそかわかつもと)との間に亀裂が生じてしまいます。もともと娘を官僚家である細川家に嫁がせたことも宗全の策略でしたが、宗全にとっては婚姻を結んだあとも、勢力を拡大する上ではライバル関係にありました。

そのような状況の中、勝元が宗全と敵対関係にある赤松氏(あかまつし)を擁護したことで、宗全の怒りを買って一気に関係は崩壊へと向かうことに。この細川氏と山名氏の二大勢力の対立と、官僚家である斯波氏と畠山氏の家督争い、そして足利将軍家の後嗣争いという3つの対立関係が複雑に絡み合い、利害関係の一致した者同士が西軍総大将に宗全、東軍総大将に勝元と大将を立て、2つのグループに分裂したことで応仁の乱へと発展していきました。

宗全の死と戦の終焉

足利義政

足利義政

1467年(応仁元年)、あらゆる勢力がもつれ合った応仁の乱の火蓋が切られると、この戦はおよそ11年もの間続き、京都の町は壊滅的な被害を受けて荒廃。応仁の乱が長期化した理由はいくつも伝えられていますが、主に8代将軍「足利義政」(あしかがよしまさ)の政治姿勢が一貫しなかったことや、西軍・東軍共に諸国の守護大名に参陣を求めたために戦の規模が拡大、さらに複雑化したことなどが挙げられます。

1472年(文明4年)頃になると、宗全が降伏するといった噂が流れるようになり、また、宗全はすでに死去しているといった説や、宗全が切腹しようとして内者(ないしゃ:直属の家人)に取り押さえられたという説、勝元が養子と共に髻(もとどり:髷の束ねた毛の部分)を切って隠遁(いんとん)した説など、様々な噂が飛び交うようになりました。

しかし、それらはあくまで説や噂であり、同年8月、宗全は家督を「政豊」(まさとよ)に譲って隠居。応仁の乱が起こったとき、宗全はすでに64歳だったため、戦の後半は西軍の指揮を屋敷で行なうだけとなっていました。

翌年の1473年(文明5年)正月、西軍の有力武将として戦に貢献していた「山名教之」(やまなのりゆき)が逝去すると、その2ヵ月後の3月18日、とうとう大乱の結末を見届けぬまま70歳で宗全は病死します。一方、宗全の死の直後、東軍を率いた勝元も44歳で急死。

こうして両軍の大将が亡くなったことで和平交渉が行なわれ、2人が逝去した約1年後に、細川氏と山名氏の和睦が成立しました。その後、応仁の乱で上洛していた大名達も国元へ帰っていき、徐々に大乱は収束へと向かっていきます。

しかし、この大乱が終わったことで、平和な時代が訪れた訳ではありません。ここから守護大名達は戦国大名と化し、世は動乱の戦国時代へと突入していくのです。

宗全の末裔が注文した薙刀 磯波

1463年(寛正4年)頃、宗全は現在の京都市上京区山名町の周辺に屋敷を新築しており、応仁の乱が起こったときは、この宗全の屋敷が西軍の本陣とされていたため「西陣」という地名が生まれました。

その後、山名一族において歴戦の勇士と称えられていた宗全は、死後も末裔にその影響を及ぼしていたようで、宗全から5代あとの「豊国」(とよくに)は、宗全が京都西陣に布陣したことにちなんで、京都の刀匠「堀川国広」(ほりかわくにひろ)に薙刀を注文します。

本薙刀には「磯波」(いそなみ)という号が付けられており、これは刃文の形状から「源頼実」(みなもとのさねとも)が詠んだ、「大海の 磯もとどろに 奇する波 割れて砕けて さけて散るかも」という歌に由来しているそうです。

「新刀の祖」と称される刀匠・国広の薙刀は大変珍しく、宗全の末裔の注文刀ということもあって貴重な1振となっています。

薙刀 銘 洛陽住藤原国広造 慶長十六八月日

薙刀 銘 洛陽住藤原国広造 慶長十六八月日

時代 鑑定区分 所蔵・伝来
洛陽住
藤原国広造
慶長十六八月日
江戸時代 重要刀剣 山名家伝来→
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕
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山名宗全と堀川国広の薙刀 磯波

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刀 折返銘 国宗とアドルフ・ヒトラー

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