歴史上の人物と日本刀

福井藩・松平忠昌と於武州江戸越前康継

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家康政権において「越前国」(えちぜんのくに:現在の福井県嶺北地方)は、攻防上、重要とされた地域でした。そのため、家康の次男である「結城秀康」(ゆうきひでやす)が領主となり、その後も秀康を家祖とする「越前松平家」(えちぜんまつだいらけ)が代々引き継いで福井藩主を務めたのです。今回は、秀康の次男「松平忠昌」(まつだいらただまさ)の時代を中心に、福井藩に仕えた刀工「越前康継」(えちぜんやすつぐ)の名刀をご紹介します。

暴君と化した兄に代わり福井藩主へ

結城秀康の次男・松平忠昌

松平忠昌

松平忠昌

1597年(慶長2年)12月、「松平忠昌」(まつだいらただまさ)は「結城秀康」(徳川家康の次男)の次男として、大坂で誕生しました。

しかし、忠昌が生まれてから10年後、父・秀康は34歳という若さで病死。幼いながらに父と死別した忠昌は、祖父である徳川家康が隠居していた駿府城へ赴き、初めて祖父と対面するのです。

また、父・秀康の弟にあたる2代将軍「秀忠」(ひでただ)とも江戸で初対面を果たし、そのまま江戸城中で養育されることになりました。このとき、叔父である将軍・秀忠から上総国姉ヶ崎(かずさのくにあねがさき:現在の千葉県市原市姉ヶ崎)の領地1万石を与えられたのです。

1614年(慶長19年)には、豊臣家との間で行なわれた戦い「大坂冬の陣」において18歳になった忠昌は、1万石未満の家臣団である旗本として本陣に随行することとなりました。この頃、将軍・秀忠の老臣である「本多正信」(ほんだまさのぶ)は、まだ若き武士である忠昌のことを何かと気遣ったと言われています。

翌年に元服し、これまでの幼名「虎松」から将軍・秀忠の「忠」の字を授かり、忠昌と名乗るようになりました。同年、「大坂夏の陣」が勃発すると、兄である「忠直」(ただなお)の軍で、30人余りの武将の指揮を執って参戦したのです。

忠昌率いる部隊は、多くの首を討ち取り、忠昌自身も2つの首級を挙げました。驚くことに、そのうちのひとつは「念流」(ねんりゅう)という剣術の流派に身を置く剣豪の首だったと言われています。父・秀康の勇猛さを受け継いだのか、初陣にして忠昌は輝かしい功績を挙げることとなりました。

越前国を拝領するまでの経緯

徳川家光

徳川家光

大坂夏の陣で勝利すると、忠昌は軍功を讃えられて常陸国下妻(ひたちのくにしもつま:現在の茨城県下妻)3万石に転封。

さらにその翌年には、信濃国松代(しなののくにまつしろ:現在の長野県長野市松代町)12万石へと大幅に加増・転封され、多くの家臣を新たに召し抱えることとなりました。

忠昌の勢いは止まることなく、1618年(元和4年)には、越後国高田(えちごのくにたかだ:現在の新潟県上越市)を拝領し、わずか2年で忠昌の石高は倍増することに。みるみるうちに領地が拡大したため、忠昌の家臣も各地から集められ、急激に増殖したのです。

一方、兄・忠直は、福井藩2代藩主として父・秀康の跡を継いだものの、大坂夏の陣で挙げた武功が正当に評価されなかったことなどから次第に不満を募らせ、悪政を行なうようになりました。乱行を繰り返し、暴君となった忠直は、幕府から改易を命じられ豊後国(ぶんごのくに:現在の大分県)に配流という処分を下されてしまうことに。忠直の後継として嫡男である「光長」(みつなが)がいたものの、まだ9歳の幼君であったために越前は任せられない状況でした。

そこで3代将軍「徳川家光」(とくがわいえみつ)は、光長と忠直の弟・忠昌の領地を交換し、福井藩を忠昌に任せることを命じたのです。

こうして忠昌は、1624年(寛永元年)に越前国50万石を拝領し、福井藩3代藩主を務めることとなりました。これに伴い、初代藩主から継承されてきた福井藩の家臣団は再編されることに。忠昌と共に福井藩へ移った武士300人に加えて、入封後に新たに召し抱えた家臣を合わせて、458人の家臣団となりました。

越前国福井藩の歩み

3代藩主・忠昌の藩政

高札場

高札場

父・秀康譲りの「武勇の士」である忠昌は、福井藩再編の際に家臣として多くの武芸者を新たに加入させ、福井藩の武術発展に大きく貢献しました。

また、忠昌は越前入封直後に藩政の方針を示すために、いくつかの法令を発布しています。城下の高札場(こうさつば:法令を木の板札に書いて民衆に向けて掲げる場所)に掲げられた十二ヵ条の条目や、農民支配にあたる代官の服務規則など、忠昌は民政に対する政策も重要視。

藩祖である父・秀康の頃からの重鎮と、忠昌の初陣の頃からの重臣が力を合わせて藩主を支え、新旧合わさった福井藩の政治を見事に動かしていたようです。

さらに、忠昌は入封すると、藩祖・秀康、2代・忠直の代までは「北庄」(きたのしょう)と呼ばれていた城下町を「福居」(ふくい)と改名。これは、「北」という字が「敗北」につながるため縁起が悪いという理由からでした。忠昌としては流罪となった兄・忠直の件もあって敏感になっていたのでしょう。その後、元禄期に現在の「福井」という表記に変更されたのです。

福井藩の特産物

1638年(寛永15年)に成立した俳諧論書「毛吹草」(けふきぐさ)の第4巻には、全国各地の特産物が記されており、越前国については絹、布、笏谷石(しゃくだにいし:凝灰岩の一種)と今立郡五箇(いまだてぐんごか:現在の福井県越前市今立)で作られる和紙などが特産物として挙げられています。

絹については、秀康が入封した際に町人から羽綿の献上を受けていることから、北庄時代より絹織物の産地であったことがうかがえます。しかし、越前の絹織物はその後低迷してしまい、18世紀になると加賀や丹後の進出によって衰退の道をたどることとなりました。

越前和紙については、江戸時代中期に編纂された類書(当時の百科事典のような物)「和漢三才図会」において、「紙の王と呼ぶにふさわしい紙」と称賛されているほど。産地である今立郡の五箇は、専業の漉き屋(すきや)が集中する農村で、中でも大滝村の三田村家は、中世以来この五箇の和紙の生産・販売の元締めを担っており、秀康が入封した際には、三田村家に奉書紙職の権利を与えていました。五箇の漉き屋筆頭である三田村家は、幕府にも和紙を納入していたそうです。

その後、忠昌の次男「光通」(みつみち)が4代藩主を務めた時代に、福井藩は全国に先駆けて「藩札」(はんさつ:藩内で独自に発行していた紙幣)を発行。この藩札にも五箇の和紙が使用されていたと言います。また、明治政府が初めて発行した紙幣「太政官札」(だじょうかんさつ)にも五箇で漉いた和紙が用いられました。

福井松平家の重宝 於武州江戸越前康継

永平寺

永平寺

1645年(正保2年)8月1日、忠昌は江戸にて逝去。享年47歳でした。このとき、君主の跡を追って7名もの殉死者が出ています。なかには、まだ21歳という若さの藩士もいたのです。

こうした殉死の風潮は江戸時代に広まり、何十人もの家臣が跡を追うような事態に発展することも少なくありませんでした。のちに殉死は禁止されるようになりますが、このときの忠昌の死に対する殉死にしても、藩内で反対の声を上げる者もいたようです。

忠昌の遺体は江戸から福井に運ばれ、現在福井県の観光所としても有名な「永平寺」(えいへいじ:福井県永平寺町)に納骨されました。また、忠昌の跡を追った7人の殉死者も、忠昌と共に永平寺の墓地に埋葬されています。

このように暴君の兄に代わり、福井藩を引っ張った忠昌。そんな名君に伝来した「於武州江戸越前康継」という名刀は、実は忠昌が大坂夏の陣で初陣を果たした際に指料(さしりょう:脇に差す刀)とした日本刀だと言われています。その後、代々福井藩松平家の重宝とされてきました。

本刀は、初代福井藩主であり忠昌の父・秀康の代に越前松平家のお抱え鍛冶となった「越前康継」の作品。初代康継が初期に鍛えた日本刀であり、康継の特徴が存分に表現されている覇気に富んだ1振となっています。裏には金象嵌で「慶長十九年寅七月十一日二ツ筒落」という裁断銘が堂々とした書体で刻まれています。

「風雷神」という号を持つ本刀。猛将・忠昌の初陣での活躍を感じさせる、貴重な1振だと言えるでしょう。

刀 銘 於武州江戸越前康継(金象嵌) 慶長十九年寅七月十一日二ツ筒落

刀 銘 於武州江戸越前康継(金象嵌) 慶長十九年寅七月十一日二ツ筒落

時代 鑑定区分 所蔵・伝来
於武州江戸
越前康継
(金象嵌)
慶長十九年
寅七月十一日
二ツ筒落
江戸時代 特別重要刀剣 福井藩松平家伝来→
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕
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福井藩・松平忠昌と於武州江戸越前康継

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